山吹の花
部屋に入ってきた男は、空になった茵を見て、内心で慌てた。
「山吹?」
それでも冷静に呼び掛ける声が、彼の性質を表している。程なくして、柔らかく応える女性の声が聞こえてきた。
「ここよ。
呼ばれた声に振り返ると、老女が縁側に腰掛けている。背筋をすっと伸ばして座る姿が、若々しい。細い身体にまとう薄衣が、光に当たって眩しかった。
しかし彼女は、すぐに咳き込んで、背中を丸めてしまう。男は上掛を手に取ると、老女の傍らに向かった。
「起きていると、身体に障るぞ。山吹」
その細い肩に、上掛をかけてやる。彼女は微笑んで礼を言うと、指先を庭へ向けた。
「見て。山吹の花が綺麗に咲いてるのよ。それなのに寝ているばかりでは、勿体ないでしょう?」
そう言った老女は、花鳴の手を見て、目を丸くする。
「あら」
その手には、花のついた山吹の枝が握られていた。 花鳴は無言で、その場に腰を下ろす。庭に咲く山吹は、溢れんばかりに黄色の花を咲かせていた。手に握る枝が、寂しげに映る程に。
すると肩に、軽い重みが下りてきた。山吹が頭を預けている。
「もう少ししたら、その枝を部屋に飾りましょう」
「……ああ」
「有り難う、花鳴」
彼女は穏やかに笑うと、床に置いていた花鳴の手に、己の手を重ねた。花鳴は何をするでもなく、庭を眺め続けている。暫くそうしていると、やがて微かな寝息が聞こえてきた。
そっと傍らの様子を伺うと、彼女は静かに寝入っている。それから花鳴は、重ねられている手に視線を移した。
自分よりも一回り小さい手は、細く、皺も多い。そして、とても冷たかった。
山吹の花が、風に揺れている。それは花鳴に、ある情景を思い起こさせた。
* * * *
泣いている少女の声で、花鳴は目を覚ました。微睡みから覚めるような感覚に、自分はいつから寝ていただろうかと、違和感を抱く。周囲はひたすらに暗闇で、思考も感覚も頼りなく、ふわふわとしていた。
遠くに明かりが見える。この空間の出口のようだった。少女の声は、その向こう側から聞こえてくる。そう思った時、花鳴の身体はまるで吸い込まれるように、その光へ向かっていった。
山吹の花の中に、少女がうずくまって埋もれていた。膝に顔を押し付けて、声を殺して泣いている。『山吹』と名付けたせいか、幼い頃から少女は、山吹の木の傍らで泣くのが癖になっていた。
「山吹。泣いているのか」
その涙を拭おうとして、手を伸ばす。そこで、空中に浮く自分の身体が、ひどく小さくなっていることに気が付いた。それは余りにも頼りなく。手のひらは、彼女の涙を一粒すくい上げるのが、精一杯な大きさだった。
「花鳴……?」
少女が、泣き腫らした顔を上げる。そして大きな瞳を、こぼれ落ちそうに見開いた。
「か、か、かなり? どうしてそんなに小さいの。そ、それよりもっ、無事で……生きていたの!」
泣きながら、驚いて、安堵を混じらせる顔は、くしゃくしゃになっている。自分の身体を押しつけるようにして、彼女の目元を少々乱暴に拭ってやった。
「……お前は、まだそんな物を持っていたのだな」
少女の胸元には、白い欠片が紐で吊されている。
「当たり前じゃない。花鳴がくれた御守りだもの」
自分でも目を擦って、山吹は答える。その目はすっかり赤くなっていた。
花鳴に後悔が募る。泣き続ける幼子に渡した、単なるの気休めだった。山吹の花の下で、衰弱していた子供。
何があったのかは知らない。ただ、気晴らしに殺してしまうには、哀れだと思っただけだ。それなのに。
鬼の、自分の角の欠片を、そんなに大切に持ち続けるなんて。
「山吹。すぐに塚を作って、それを収めるんだ。すればお前の慰めにもなろう」
「な……っ。花鳴はわたしに、塚に縋って、一生嘆いて暮らせと、そう言うのね!」
「山吹!」
少女がまなじりを上げるのに釣られて、花鳴もつい、声を荒ぶらせた。彼女にそんな事をさせたい訳じゃない。
「よく聞きなさい、山吹。私は、人を呪う鬼だ。だから」
「花鳴は悪い鬼ではないわ! わたしを助けてくれたもの」
再び少女の瞳から、涙が溢れた。大粒の滴が、まろやかな頬を濡らしていく。哀れだと思いながら、花鳴は口を開いた。
「私は、討伐された」
「……知ってる。目の前で見てたもの。その身体が塵に変わっていく様を、最後まで」
「お前は、何かの資質を持っていたらしい。その角に注がれたお前の力が、今の私を存在させている」
それを聞いた少女は、一瞬目を丸くする。そして、ぱっと表情を輝かせた。
「じゃあ、これからも一緒に居られるのね?」
素直に喜ぶ少女が、ひどく哀れに見える。
「こんなことをしていたら、直ぐに力を使い果たして死んでしまう。だから」
「だったら、力を付けるわ!」
一度決めたら、梃子でも動かない。そんな少女の性質を、鬼はうんざりする程分かっていた。
「そんな簡単なものでは」
「やってみなければ、結果は分からないじゃない」
少女はすっくと立ち上がると、くしゃくしゃの顔で、晴れやかに笑う。
「ねえ、花鳴。花鳴と一緒に居ることが、わたしの幸せよ」
鬼は息を飲んだ。そんな風に言われてしまえば、もう何も言えなくなる。言葉にならない想いで、喉が震えた。
* * * *
人が近付いていたのは、気配で分かっていた。鬼の討伐者共は、突然住処へ荒ぶり入ってきた。そのうちの一人が、驚いた少女を奪っていく。
「いや、放してっ。かなり、花鳴!」
山吹は暴れた。しかし小さな子供の抵抗など、討伐者には無いも等しい。
「ああ、可哀想に。すっかり鬼に誑かされて」
少女は、花鳴から引き離されて泣いていた。花鳴は願う。
どうか山吹を、そのまま連れ去ってくれ。
衰弱していた子供は、快復するのと同時に、鬼に懐いた。怯えることはなく、ころころと動き、笑い、鬼に優しさを振り撒いた。
最初は、煩わしかった筈のそれらは。徐々に鬼の内側に入り込み、人への恨みを、少しずつ溶かしてしてしまったのだ。
哀れな子供。鬼が手放してやれぬ、愛おしくも可哀想な子供。
討伐者の振い上げる刀が、花鳴の目に映る。あれは、鬼をも貫く刃。花鳴は声に出さずに、口だけで呟いた。
「山吹」
鬼切りの刀が、花鳴の身体を貫く。そのとき確かに、花鳴は安堵した。
身体が塵へと変わっていく。これでは骨の欠片一つ、髪の一房さえも残らないだろう。だが、それでいい。
「どうか、お前は」
声にならない声は、少女には届かないだろう。それで、いい。
山吹が、自分の名を呼びながら泣いている。だがそれも、今の内だけだ。ようやく彼女を、人の世に返してやれるのだから。
そこでお前は。
「幸せに」
きっとそこにお前の幸福が、ある筈なのだから。
* * * *
目を閉じていた花鳴の耳に、優しい響きが聞こえてきた。
『花鳴』
目を開くと、庭に娘が、ひとりで立っている。その面差しを、花鳴はよく知っていた。
花鳴は傍らで眠る老女の様子を、そっと窺う。そして手にしていた山吹の枝を、娘に向かって差し出した。娘に似合うだろうと思ったからだ。
しかしその枝は、娘の身体をすり抜けてしまう。娘の姿と重なった花は、まるで落ち込むように、萎れていった。
花鳴は理解する。彼女は、彼岸に向かう人だ。
萎れた山吹の花を見る。これでは、手向けの花にもなりはしない。手向ける為の花ではなかったから、これも当然の結果なのだろう。
「山吹」
花を脇に除け、彼女の名を呼ぶ。すると娘は、寂しそうに笑った。傍らで眠っていた老女は、もう彼女の抜け殻でしかない。
「もう、逝くのか」
彼女は静かに頷く。とても短い人生だった。恐らく今の姿こそが、本来の彼女なのだろう。
山吹は、運良く彼女の師となる人間と出会えたものの。思うように素質は伸びず。それでも力を使うことは止めなかったため、あっという間に老いていった。
そうして今、彼女は彼岸に向かおうとしている。山吹の力がなければ、花鳴も身体を保てはしない。綻び始めた花鳴に近付いた山吹は、そっとその手を取った。
『花鳴も、一緒に』
思わぬ言葉に、花鳴は目を見開く。そして緩く、頭を振った。
「私は鬼だ。人と共に、いくことは出来ない」
『それでも今は、私の鬼よ。一緒に連れていけない道理が、どこにあるの」
「山吹」
彼女の強情さは、昔から変わらない。しかし。
『それともやっぱり、わたしを恨んでいる? 貴方を、鬼であり続けさせたから』
途端に山吹は、今にも泣きそうな子供の顔になった。
「……いいや」
変わらない。強情で生意気で、泣き虫で優しい、愛しい子供。そして花鳴の想いもまた、変わりはしなかった。
「お前と共にいられて、私は幸せだったよ」
花鳴が告げる。かつて山吹が言ったように、花鳴の幸せもまた、そこにあった。
山吹は顔を俯かせる。そして次の瞬間には、花が咲き零れそうな笑顔を見せた。まるで、山吹の花のように。
それを見て花鳴は、柔らかく苦笑した。
「私も一緒に、連れていってくれるのか」
『ええ。人に裏切られて鬼と化した、可哀想なひと』
少女は愛おしそうに、花鳴の手を両手で包み込む。
『一緒に、人の世に戻りましょう?』
娘に手を引かれると、自分の身体から抜け出た花鳴も、ゆっくりと立ち上がる。そして二人は、並んで庭を歩きだした。その姿は柔らかな日差しに溶けるように、音もなく消えていく。
小さな庵の庭の片隅に、山吹が花を咲かせていた。咲き零れる花は、まるで二人を見送るように、その枝を風で揺らめかせている。
穏やかで暖かな、春の日のことだった。
サークル名:ハーヴェストムーンの丘(URL)
執筆者名:乙葉 蒼一言アピール
異世界ファンタジーを軸に、旅する『人形』や、魔法士見習いの少女、終わらない夜の国の月の話などを書いています。アンソロには、鬼の話を書かせて頂きました。どうぞ彼女達の生き様を、覗いてみて下さい。
異種間の恋の良さが凝縮されていました。山吹が老いる描写がまさにそれで好きです。