旅立つ前に

 誰も何事も最初は等しく「未経験」だ。
 それは現世とも物質界とも呼ばれる領域に限らず、ここ冥府でも同じ。しばしば忘れがちという点も同じ。だから冥府の職員教育マニュアルでは、新人に何かを初めて任せる際の注意点にいくらかページを割いていた。
 教えていないことを間違えても叱るな。
 教えていないことに出会ったときの対応は誤らせるな。
 一通り読んだ私はため息を漏らした。普段なら受け流せる言葉が今はとても重い。

 生と死の狭間。命の環の始点で終点。天国への登山口にして地獄への誘導路。
 冥府の例え方は数あるけれど、その実態は死者を仕分けて来世へ送り出す機関だ。今日も様々な部署が無数の魂を手分けしてさばき続けている。
 中でも私が属する渡航管理局が主に扱うのは、既に回収され処遇もほぼ決まった魂たち。年の節目の里帰り、未練を捨てきれないなど、事情がある者を制限付きの現世旅行へ連れ出すという奇妙な部署だった。
 その日も渡航手続きの窓口には大勢の元人間が集っていた。行列は絶えず動き、待合スペースはざわめき、入口では一匹の黒猫が来訪者の笑顔を誘っている。
 他の職員が応対に追われる中、デックスは窓口の奥で緊張していた。彼は私が初めて指導した後輩で、この日ついに一人で渡航者を案内することになっていた。
「えーと、矢糧ヤガテさんのご要望は現世に残してきた奥様に会うこと。行き先は死亡時の住居ではなく本来のご自宅。呼出番号は……」
 私が目撃した限り、彼は規定通りの手順で支度を進め、部屋の片隅にいた男を準備室へ案内していた。声をかけられた相手は恐縮した様子で何度も頭を下げていた。
 出国ゲートを模した準備室では、事前審査の内容を元に出発前チェックが行われる。
「最後にもう一度確認します。生前のお名前をフルネームで」
「矢糧高成タカナリです」
「ありがとうございます。こちらが冥府発行の一時渡航者証明、パスポートです。現世滞在中は常にお持ちください。決してなくさないように」
 現世に出て魂の護送に携わる冥府職員は伝統的に死神と呼ばれる。渡航管理局の送迎担当者も一応そう呼ばれている。
 その死神が渡したパスポートは現世の形式にならった冊子型で、表紙には鬼火と天秤をあしらった紋章が描かれていた。
「私はあなたの望みが叶うよう最善を尽くしますが、万一あなたの身に危険が及んだ場合、強制的に冥府へ連れ戻すことがございます。ご了承ください」
「は、はい」
 注意事項の確認が済めば晴れて出発だ。ゲートの先では先程死者たちを運んできた列車が停まっている。デックスは矢糧氏を連れて客車に乗り込み、折り返し冥府発の定期便で現世へ旅立った。
 列車は三途の川に架かる橋を渡り、広大な花畑を駆け抜け、暗闇の世界へ突入した。二人はトンネルの中で途中下車して、目印も明かりもない道を徒歩で進んだ。
「あぁ、もうすぐ会える。元気にしてるかな」
 矢糧氏は会社員で、単身赴任中に過労で倒れて生涯を終えた。子供はなく、故郷に妻一人を残したことが心配で仕方ないという。そんな彼の未練を解決し、来世に関心を向けさせるというのが、今回のデックスの仕事だった。
 やがて高鳴る心に応え、中空に一筋の光の縦線が現れた。
 デックスは目的地への到着を告げた。すると矢糧氏は話の続きを待たず、飛びつくように光を押し広げた。
「お待ちください、まだ開けては……!」
 死神が呼び止めたときには既に、渡航者はこじ開けた扉をまたいでいた。
 そこは確かに現世だった。
 矢糧氏が降り立ったのは、彼が赴任前に住んでいたアパートの一区画。窓に面した和室だった。外は暗く、強い雨が降っていた。
 デックスも扉を抜け、通ってきた道へ振り向いた。
 そこには黒塗りの立派な仏壇があった。観音開きの戸が少しだけ開き、その手前に矢糧氏の遺影と位牌が並んでいた。供え物は見当たらない。
「懐かしい。ここも、ここも変わってない。新婚の頃のまんまだ」
「あの、矢糧さん」
「はい?」
「先程ご説明しましたが、今のあなたにとって現世は危険な場所でもあります。安全確認を行う規則がありますので、お気持ちはわかりますが、どうかお一人で先へ行かれることはお控えください」
「あぁそうでした、失礼。嬉しくなっちゃってつい」
 矢糧氏は両手を合わせて詫びたけれど、その表情は緩みきっていた。しかし自分の遺影に気づいた途端、寂しそうに飾り台の正面へ座り込んでしまった。
 亡霊が物思いにふける間に、デックスは情報端末を取り出して探知機モードを起動した。怨霊や悪鬼の気配はない。閉じられた引き戸の裏側や壁の向こうも軽く探ったけれど、さまよう魂に害をなす者は見つからなかった。
 そして探知機は同時に生きた人間の所在も示していた。
「見てくださいよ、この顔」
 遺影の前に座った矢糧氏がデックスを見上げていた。視線を返された渡航者は勝手に昔語りを始めた。
「僕も昔はこんないきいきしてたんですよ。でも仕事が忙しくなってからは一度もこんな顔してなかった。とにかく働いて、働いて、働いて……」
 遺影を収めた額縁がかすかに震えた。
「理不尽な扱いばかり。でも仕事がなければ妻を養えない、生きていけない。だからどんな無茶振りも我慢した。毎日残業した。怒られても耐えた。必死に。わかります?」
 俗名だけ書かれた位牌が小刻みに震えた。
 死者の嘆きに対してデックスは曖昧な返答しかできなかった。立場上の問題もあるけれど、理由はそれだけではなかった。
「矢糧さん」
「はい」
「このお部屋の隣は?」
「あぁ、リビングですよ」
 振動が止まった。
 矢糧氏は立ち上がって鴨居を見上げた。時計の短針が「9」の文字を通り過ぎていた。
 屋外では激しい雨が降り続き、厚い雲を地上の光が照らしている。雷鳴が窓ガラスを強く揺さぶった。
「午後九時、いや午前かな。そうだ、どっちにしても妻は起きている時間です。もしかしたらいるかもしれない」
 矢糧氏は嬉しそうに引き戸の前に立った。そしてごく自然に、丸い引手へ手を伸ばしていた。
「あっ……」
 多分彼は扉を開けたかったのだ。肉体を失った彼は引手を掴めなかったけれど、同時に、腕が扉をすり抜けられることに気づいた。
 その瞬間、矢糧氏は電光並の速さで決意を固めて、引き戸の中へ飛び込んでしまった。
「お待ちください!」
 完全に出遅れたデックスは急いで渡航者を追った。探知機は生者の個人情報までは拾えない。リビングに居るのが霊の見える人間なら突然の鉢合わせは混乱の元、そうなれば事態の収拾も死神の仕事なのだ。
 ところが、そこにあったものはデックスの懸念とだいぶ違っていた。
 矢糧氏は引き戸から出た一歩先で立ち止まり、呆然としていた。視線の先に、窓を向いて設置された二人がけのソファがあった。
 そのソファの上に人が、確かに生きた人間が、横たわっている。
 男と女がじゃれあうように絡み合っている。
 甘い声で笑い合っている。
「……そんな」
 か細い声がつぶやき、次に名前を口にした。
 彼に呼ばれたはずの女は少しも反応しなかった。
――ドウシテ?
 しまっておく肉体を持たない感情が空気に溶け出していく。
 変質しながら次第に広がっていく。
 願いは呪詛へ。
 愛は怨みへ。
――ソイツガ?
「待って! 落ち着いて!」
 デックスは生者と死者の間に割り込んだ。
 死神の情報端末がシグナルを発した。それは既に呼びかけの効果が見込めないとの宣告、じきに怨霊の制圧を担う死神が駆けつける予告だった。
 目の前で苦悶する魂に対してできることは限られる。しかも望ましくない選択肢しか残されていない。
「矢糧さん。あなたの目的は達成されました。これ以上ここに留まってはいけない」
 デックスは決まり文句を早口で唱えながら端末を持ち替えて、背面に刻まれた冥府の紋章をかざした。
 すると歪んだ魂の内側に同じ紋章が現れた。渡航管理局のパスポートが現れると共に解け、無数の糸と化して魂を縛り上げた。
「行きましょう、次の世界へ。あなたの未来へ」
 糸の端を握ったデックスは素早く引き戸をすり抜けて和室へ戻った。そして拘束された魂を大きく振りかぶり、仏壇の中に全力で投げ込んだのだった。

 報告書に目を通した渡航管理局長は小さく唸った。
「ふむ、なるほど。アッシュ、この報告書は最終的に君がまとめたんだね」
「はい」
 背筋を伸ばして座る私の前で黒い尻尾が揺れた。
 片眼鏡をかけた金目青目オッドアイの黒猫が前足でページをめくった。その姿はいつ見ても緊張感をそがれる。窓口で愛敬を振りまく猫がここの責任者と見抜く渡航者はいないだろう。
「彼の様子はどうかな。自分の行動を悔やみ、悩んでいると聞いたが」
「多少は落ち着いたようです」
 現世を脱出した彼は渡航者を冥府へ連れ帰り、荒れ狂う魂を鎮める浄霊局に引き渡した。その後の調査によると矢糧氏の妻や客人、家屋などに目立った被害はないという。
「浄霊局から連絡が来たよ。感情の高ぶりが収まれば予定通り次の生への準備に進むそうだ。このことも伝えるといい」
「ありがとうございます」
「ところで君は彼を今後どのように指導するつもりかな」
 局長が私を見据えた。
 瞳孔を開ききった丸い瞳の奥に、三途の川よりずっと深い水底を見た気がした。
「条項を聞く限り、やがてこうなることは避けられなかっただろう。ならば、事が起きる前に打てた手を考えるより、起きたことにどう対処すべきだったかを徹底的に考えなさい」
「はい」
「アッシュ、君もだよ」
「……はい」
 私は恭しく頭を下げることしかできなかった。


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サークル名:化屋月華堂(URL
執筆者名:Rista Falter

一言アピール
オンライン小説とツイノベを中心に、不思議な物語をゆるやかに書いています。テキレボ4では少女の旅物語『ストレイトロード』シリーズを中心に頒布します。今回はサイト掲載中の『DROPOUT』と同じ世界観のお話。

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旅立つ前に” に対して1件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    死神のお仕事がとても堅気で良かったです。

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