平和的講和条約

 ある時、W国とL国という二つの大国の間で戦争が起こった。小銃を持った兵士が塹壕から一斉に飛び出して突撃し、敵兵の機関銃がその群れを瞬時に薙ぎ倒す。ばら撒かれた強力な毒ガスが機関銃手を窒息させ、銃火が止む。悶え苦しむ機関銃手の心臓を、ガスマスクを被った敵国の残兵が銃剣で一突きにする。戦場は双方の軍にとって地獄の様相を呈し、血みどろの戦いは永遠に続くように思われた。
 しかし、どんな大戦争にも終わりは必ず来る。当初は互角だった戦況も、次第にW国の側へと傾いていった。労働力と工業生産で勝るW国の軍は侵攻を続け、L国の大都市を次々と占領した。軍事的にも経済的にも限界まで追い詰められたL国は、ついに、W国に対する無条件降伏を受け入れた。
 
 W国の首都にある宮殿の小さな控室では、二人の男が緊張した面持ちで服装を整えていた。恰幅の良い年配の男はW国の外務大臣であり、もう片方のやや若い男はその右腕、すなわち大臣補佐官だ。二人は、これから宮殿の大広間で行われるL国との講和会議に、W国の全権委員を率いて出席することになっていた。
「時間だ。準備は良いな」
「はい」
「では、くれぐれも冷静に、かつ強気に行くとしよう。妥協は許されん。戦勝国である我々は、講和条約の内容に関しても勝利しなければならんのだ」
「もちろんです、大臣閣下」
 控室を出た二人は長い廊下を抜け、まばゆいばかりの金色の光で満ちた大広間に踏み入った。輝く巨大なシャンデリア。色とりどりの高価な調度品。埃一つ落ちていない深紅のカーペット。何もかもを失い疲弊したL国とは対照的に、大戦争を経てもなお衰えないW国の国力の証がそこにはあった。
 柔らかな椅子に腰掛け、補佐官はL国の全権団を何気なく観察する。どの顔にも、不安と疲労から来ているだろう影がうっすらと差していた。
 気の滅入る表情だ。補佐官は思った。W国はどれほど過酷な条約を提案してくるのかと、内心は恐れおののいているに違いない。敗北の尻拭いをする人間というものは、かくも哀れな存在なのだ。
 両国の全権委員が向き合うと、大臣が素早く口を開いた。
「さて。早速だが、こちらの作成した条約案の骨子を口頭で提示させていただこう。詳細は配布する資料に載っている」
 通訳が大臣の言葉を淡々と訳していく横で、係の人間が分厚い書類を配っていく。L国の代表が一人、受け取った条約案を不審そうに見つめた。交渉において、手の内を先に見せる方は基本的に不利である。相手側は、それに合わせて自分達の出方を変えることができるからだ。
 しかし、そんなことにはお構いなく、大臣は条約案の説明を始める。
「まず一つ目に、賠償金に関してだが……」
 L国の全権委員の面々が、一斉に大臣の顔を注視した。大臣も補佐官も、彼らが最も高い関心を寄せるのはこの部分だろうと予想していた。何せ、L国は敗戦国なのだ。敗戦国は戦勝国の戦費に加え、商工業分野の損失や人的被害に対しても賠償を要求される。課せられた賠償金と戦後の混乱が重なり、国民が戦中よりひどい暮らしを強いられる例も歴史上少なくない。政治に携わる人間ならば誰もがそのことを知っていた。
「W国は、L国に対して一切の賠償金を要求しない」
 通訳の声が聞こえた後、場内の空気が音もなく、しかし明らかに変化するのを補佐官は感じ取った。彼は対面する人間達のうちの何人かが、顔を強張らせて唾を飲み込んだことも見逃さなかった。
「二つ目に、W国は、L国に対して一切の物的賠償を要求しない。L国の領土および植民地、そしてその内部にある天然資源あるいは工作物に対して、W国は何の野心も抱いていない。三つ目に、W国は、L国の政府関係者や軍関係者に対して戦争犯罪人の捜査を行わない。この問題に関する警察権と司法権の一切は、L国のものである。四つ目に、W国は、L国の軍備に関して長期的な拘束を行わない。ただし今後一年間のみ、戦災復興事業への労働力放出のため、L国は軍隊を保持しない義務を負う」
 大臣の説明を聞くうちに、L国の全権委員がはっきりとざわつき始めた。中には動揺を隠しきれず、音を立てて必死に資料を繰る者もいた。だが大臣は、やはりそんなことなど気にも留めない様子で口を動かし続ける。
「五つ目に、W国は、L国の戦災復興に関してあらゆる援助を行う義務を負う。最優先目標はL国民の生活基盤の回復である。具体的な支援先としては、農地、商業施設、民間消費財生産のための工業施設、港湾および空港、電気や水道等の社会インフラ、放送局および新聞社、病院、教育機関……」
「――一体、何のつもりだ!」
 大臣の言葉を遮って、L国の全権団の一人が声を荒げた。こめかみに浮かんだ青筋が、震えながら小刻みに脈打っている。
「何を企んでいる? どういう茶番――」
「まあまあ、落ち着いてください」
 補佐官は手を広げ、至って平静な調子でなだめる。
「意見を言うのは、話を最後までお聞きになってからでも良いでしょう。それに、あまり横槍を入れられて交渉が長引くようですと、条約が貴国にとってより厳しいものになってしまうということも有り得ます。違いますか?」
 問いかけられた全権委員は喉を詰まらせたような顔をして、補佐官の顔面を睨みつけながら押し黙った。
「賢明なご判断です。……大臣、続きをお願いします」

 会議を終えた大臣と補佐官は、再び宮殿の長い廊下を歩いていた。
「補佐官、感想を聞かせてもらおうか」
「予定通りか、それ以上といったところかと。L国の全権団は、こちらの案に対してろくに意見も出せないようでした。次の、あるいはそのまた次の本交渉では、締結に漕ぎつけられるでしょう」
「ああ。当然、奴らは我々の案に何一つケチをつけることなどできん。我々の案はもともと、L国をこの上ないほどに優遇するものなのだからな」
 大臣が満足そうに笑う一方で、補佐官はわずかに表情を曇らせた。
「しかし、本当にこれで良かったのでしょうか」
「そういえば、君は最初この政府方針に懐疑的だったな。疑いは今も晴れないかね?」
「いえ、そのようなことは。これまでの講和条約の常識からあえて外れ、敗戦国の利益を最大限に尊重することで復讐の芽を摘み取る。次の戦争を起こす原因になるであろう憎悪を徹底的に取り払う。理屈はきちんと理解していますし、今では私も積極的な賛成派です。けれどやはり、L国が豊かになるという事実には若干の不安を覚えてしまいますよ」
「恐れることはない。確かに前例はないが、空前の規模で準備が進められてきた綿密な計画だ。既に講和条約の各項目について、人道的な見地から内容をL国に有利なものとするよう尽力したW国の偉大な人物達のリストと、彼らの活躍に関する素晴らしいエピソードを用意してある。我が国の支援を受けて復旧された放送局が、新聞社が、教育機関が、L国民にその物語を聞かせることになる。嘘偽りのない、事実であるところの物語をな。一年後、L国が軍隊を作れるようになった頃には、我が国に復讐したがるL国民など残っていないだろう」
 補佐官は半ば驚きながらも感心した。そこまで工作が進んでいるとは知らなかったからだ。なるほど、政府が国運を賭けてこの条約を結ぼうとしているだけのことはある。
「ですが、それでもL国政府が反抗を決意したとしたら……」
「一方は、人道的で道徳心に富み、敗者に対して手を差し伸べることを厭わない友好国。もう一方は、戦争に敗北したばかりか、やっと改善してきた国民の生活を恩とともに投げ捨てる狂った政府。L国民がどちらに対して矛を取るかは、火を見るより明らかというものだ」
 補佐官は頷きながら聞いていたが、やがて小さく呟いた。
「そうなると、文句を言うのは我が国の国民だけですね。勝ったくせに、政府は賠償金すら取れないどころか敗戦国を援助するのか、と」
「当然の批判だ。だが、心配する必要はない。国民の批判が抑えきれないほど高まった場合、内閣が交渉の全責任を負って総辞職することになっている。君は外務大臣の命令に従っただけだと言って、嵐が過ぎるのを待っていれば良い。後任の内閣のどこかに、君のためのポストを作っておこう」
「そんな……! 最初からそのおつもりで……!」
 補佐官は衝撃のあまり言葉を失った。しかし、一瞬だけ考え込むとすぐに気を取り直し、強い口調で大臣に訴えた。
「ありがたいご配慮ですが、お断りしたいと思います。私も大臣閣下と同じく、交渉の責任を負って政界から身を引きます」
 今度は大臣が面食らう番だった。
「一体なぜだ? わざわざ自分から泥を被るなど……」
 だが、補佐官はもう心を決めていた。当たり前だ。ここで嘘をついて政界に残っても、得られるものは今よりいくらか落ちるであろう役職だけ。反対に大臣と運命を共にすれば、ゆくゆくは絶大な名声を得ることができるのだ。過去のどんな国家も考えつかなかった、真の意味での講和条約を結ぶために邁進した役人という名声を。この国だけでなく隣国でも語り継がれる、国際平和の伝道者としての名声を……。


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サークル名:虚事新社(URL
執筆者名:田畑農耕地

一言アピール
作家・編集・デザイナーの3人組文芸サークルです。頒布物は、何かがおかしい山荘で始まる何かがおかしい物語を描いた長編小説『壮途の青年と翼賛の少女』など。本作は、新刊の掌編集(タイトル未定)にも収録予定です。

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平和的講和条約” に対して1件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    野心と策謀から温情措置という発想! 切れ者ですね大臣!

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