徒夢

「槿の花をとってきておくれ」
 赤茶色の癖毛を優しく撫で、審神者は言った。額にひやりと指先が触れる。
「むくげ……?」
「そう、槿の花だよ。お前は見たことがないのかな」
 座したまま見上げると、主がそっと目を細めた。
 常に小さな笑みを湛える唇が綻ぶたび、肩の上で、艶やかな黒髪がさらさらと揺れる。
「朝早くに開いて、日が陰る頃には萎んでしまう。もっとも、また翌朝には開くのだけど……その様子を『槿花一日の夢』なんて言ってね」
「ふぅん。気の早え花なんだな」
「ふふ。そう……だから、今摘んできてほしいんだよ」
 庭に出たら誰かにお尋き、と、もう一度、主は後藤を撫でた。
 子供扱いされているようで不満ではあるが、髪に埋まった指先は先ほどよりも温かく感じられ、どんな表情を作ったら良いかわからぬまま、頷いた。数日前に顕現した後藤藤四郎にとって、それが初めての、近侍としての仕事だった。

 庭に降りていくと、厨房からほくりと白い湯気が漂って来た。 
 未明の空は青白い光を孕み、その明るさとは裏腹に細かな霧雨を振り落としている。天気雨だ。
「はぁ、調子狂っちまったな」
 夏の景趣だからというわけではなかろうが、御殿の住人たちは総じて朝が早い。今朝、一際早起きした後藤が居室を尋ねた時、審神者は既に身支度から朝議の下準備まで、全て一人で恙無く整えてしまっていた。近侍任務の長い前田や平野から「失礼のないように」と、口やかましく言われていただけに、肩透かしを食らった気分である。
 縁側で紫煙を燻らせていた主は、後藤の手持ち無沙汰な様子に小さく笑むと、ひらひらと手招き、自らの傍らへ座らせた。三十路を前にした、物腰の柔らかい若者だが、過去に一振りだけ刀を折ったきり、非常に優秀な戦績を上げ続けていると聞いていた。その差配たるや軍神の如し、と兄弟たちは口を揃えるが、未だ演練ばかりの後藤にはどうにもピンと来ないものがある。
 加えて、
 ――大事な用事だからね。
 そう囁いて下した命が「花を取って来い」なのだから。
「槿……か、どんな花なんだ?」
 百花撩乱の春を過ぎた庭は、今や濡れた緑が隆盛を誇っていたが、それでも蔦に開いた朝顔や昼顔、紫陽花の名残の紫、桔梗や撫子といった花たちが艶やかに涼を添えていた。手合わせの帰りや掃除をしている刀たちを見つけては花の名を告げ、後藤はほどなく目的の花を見つけ出した。
 ジワジワと降る最初の蝉の声を浴びながら、しばし、佇む。
「おいおい……聞いてないぜ、大将」
 思わず独り言ち、後藤は槿の「木」を見上げた。
 丈にして十尺ほどはあろうか。
 枝葉こそ手の届く高さにまで枝垂れているが、咲き初めの花は、未だ木の天辺近くにしか開いていない。根元から見上げる槿は朝顔を大きくしたような白い花びらを拡げ、淡い雨に陽を欲して焦がれていた。
 茎になら……なんとか。
 幹は青みがかって細く、登るにはあまりに脆弱だった。思い切り伸ばした指が空を切る。意地になってぴょんぴょん跳ねる度、丸い花が嘲笑うように大きく揺れた。
「くっそー! ぜってぇでかくなってやるからな!」
「……何ぞお困りか」
 不意に、もの柔らかな声が肩を叩いた。
 驚いて振り返る。分厚い胸板に、視線がぶつかった。武勲の薫るような体を辿って仰げば、静かな赤い眸が、じっとこちらを見下ろしている。白……いや、銀髪か。見事な艶の髪を垂らした、後藤の見知らぬ刀だった。
「あの花……」
 腰に下げているのは古風な太刀だ。
 相対するだけで威圧されてしまいそうな大男だが、不思議と親しみを感じ、後藤は木の天辺を指差した。
「大将がとってきてくれって言うんだけどさ」
 軽く目線をずらして花を見上げ、太刀は小さく頷いた。
「ご苦労なことじゃ。手を貸そう」
 それ、と聞こえた次の瞬間に、後藤の体が宙に浮いた。
「うおっ……あ、ありがとうな」
 バランスを崩しかけ思わず頭に捕まると、手入れの良い、白銀の髪が指に絡む。易々と肩に乗せられて、非常に気恥ずかしい有様ではあるが、幸い周りに人目はない。「届くか」と太刀が問うので「うん」と頷いて手を伸ばす。
 間近で見た槿は花の縁に淡い薄紅を刷いた、ごく可憐な花だった。中心の濃い紫が雨露に融けて流れ出したような……大輪ながら、どこか儚い風情がある。
 もはや手の届くその花に、後藤は、指を触れた。
 刀を抜き、枝を切る。と、下で支える刀が再び尋ねた。
「取れたか」
「取れた!」
 短く答えるやいなや、再び体が浮き上がり、すとんと地面に足がついた。
「脆いゆえ、花を落とさぬようにな」
「おう。助かったぜ」
 礼を言って見上げると、太刀は新入りの短刀を見下ろし、小さく笑った。その表情に後藤は内心で首を傾げる。何故だろう……よく、似ている。
 日照り雨に濡れる白い髪。随分と物慣れた様子だし、古参の太刀なのかもしれない。顕現時、遠征に行っていた面々には未だ顔合わせの済んでいない者も居る。きっとその内の一人なのだろう。「ところであんた……」と後藤が口を開いたその時、朝餉を報せる声が御殿から聴こえて来た。
「飯だって」
 一緒に戻ろう、と誘うつもりが、向き直った時には太刀の姿はそこにはなかった。ただ、生い茂った槿の木がさやさやと、薄緑色の影を投げかけている。
「気の早いやつ……」
 どうにも空振りを食らう日だ。小さく息を吐き、後藤は早足で奥の殿へと急いだ。
 食堂は後だ。何となく、主はまだあの縁側で後藤を……この花を、待っているような気がした。

 奥の殿は相変わらず、雨だった。
 袖廊下からひょいと中を覗く。煙草盆は片付けられていたが、文机の前に黒い単衣物を纏った後姿が見えた。
「大将、戻ったぜ」
「おかえり」
 分厚い書物を閉じ、審神者は優しく後藤を手招いた。
「これ、遅くなって悪かったな」
 花を差し出すと、黒髪が再びさらりと揺れる。
 はじめから其処に芽吹いていたかのように、槿は審神者の手の中に咲いた。
「ああ、綺麗だね……ありがとう」
 愛しげに伏せられた瞼にどきりとして、後藤は思わずその横顔から目を逸らした。何も告げずに誉を得るのは、どうにも心の収まりが悪かった。
「実はそれ、届かなくてさ。手伝ってもらったんだ。えっと……すっげえ長い、白い髪の太刀でさ。名前訊きそびれちまったんだけど」
 ひたりと、審神者の呼気が止まった。
 それまで花にばかり向けられていた黒い瞳が物も言わず小さな近侍を映したが、気恥ずかしさに顔を背けたままの後藤には、その奥にある色を探ることが出来なかった。
「そう、あれがこの花を……」
「俺もいつか、あれくらいでっかくなってやるぜ」
 まるで独り言のように喋っていると、不意にぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。
 子供扱いするなと文句をつけたくとも、優しく目を細めるその顔を見ては、ぐっと言葉に詰まるばかりだ。一頻り後藤を労った審神者は花を抱いたまま、藻裾を捌いて立ち上がった。
「槿花は一日にして自ら栄を為す……」
 口許から零れた言葉は聴き取るよりも先に、その動作と共に離れていってしまう。
「……生死去来、すべてこれ幻」
「大将?」
 寸時、審神者は天気雨の煙る庭に視線を投げたが、訝しげな声が耳に届くとゆっくりと後藤の方を振り向いた。
「本当にありがとう。悪いけれど、歌仙から花入れを受け取ってきておくれ」
「おうよ! 任せとけ」
 ここまで来たらと、後藤は勢い良く膝を立てた。彼を見送る審神者の手にはやはりあの花が楚々として咲いていて、どうやら本当に、あれは主にとって大切なものだったのだと判る。だったら萎れてしまう前に、きれいに飾ってやりたかった。
 そうして再び湿気を吸った袖廊下に飛び出すと、背後で音も無く障子が閉まった。
 ――ちっと、冷えるもんな。
 奥庭と廊下を行き来したせいで靴下の裏が濡れている。降り止まぬ雨を眺めながら足を速めた時、審神者の部屋で、ギッ……と、腐った板が軋むような、鈍い音が微かに鳴った。
 それと同時に廊下の向こう、刀たちが揃う広間の方から、審神者を探す兄弟たちの賑々しい声が近づいて来る。そう言えば朝餉の時刻はとっくに過ぎていた。
 一瞬躊躇したものの、後藤はくるりと体を翻し廊下を取って返した。
「なあ、朝餉が出来たって――」
 閉ざされた障子の前で、脚を止めた。
 花を手にした審神者の影が、淡く障子紙に透けている。
「大……将……?」
 横顔は何も答えない。
 肩から零れた絹の髪。後藤の視線の先に浮く、揃えた爪先。
 だらりと下がった手の中から、雨だれのように、花が落ちた。

   ◇

「おはよう、後藤」
 居室を尋ねた時、審神者は既に黒い絽の着物を纏い、縁側で涼んでいるところだった。にっこりと手招きされ、後藤は挨拶を投げながら所在なく奥の間へ入った。
 ――やっぱ、寝過ぎたか。
 目ざめた時、どうにも嫌な重みが両の瞼に残っていた。初めての近侍任務がこれでは、前田や平野になんと言われるかわかったものではない。
 癖毛を乱す掌はくすぐったいほど温かいのに、一瞬、額に触れた指先がひやりとして冷たい。
「後藤……用事を頼みたいのだけど」
 白い指先から伸びた管が、ゆらゆらと紫煙を吐き始めた。
 ――この人が笑うと、
 幻燈のように過ぎる光景を、後藤は思い返していた。
 この人が笑うと、きまってその黒髪が、肩から零れて静かに揺れる。
 そこに在った何かを慕うように。焦がれるように。それは白露に融け出したような、美しい――。
「とても、大事な用事だからね」
 蕩かすような笑みを浮かべ、審神者は言った。
「庭で、花をとってきておくれ」


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サークル名:馬猫文庫(URL
執筆者名:佐堀

一言アピール
創作幻想小説(晴川名義)、版権二次創作(刀剣乱舞/佐堀名義)両方で活動しています。刀剣乱舞では主に小狐丸×創作男審神者で書いています。今回の作品は日本の伝統色《槿色》をモチーフに書き下ろしました。既刊はシリーズものから読み切りまで色々。よろしくお願い致します。

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徒夢” に対して1件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    後藤君が……かわいい……! ごきつねも……いとしい……! せつない……!

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