橙から群青

『ねぇ、明石くん。私の影を好きになっちゃ駄目だよ』
 そう言い残した数日後、彼女である千月が失踪した。
 両親には「しばらく旅行に出かけてくる」と伝えていたそうなので、旅行先で事件に巻き込まれた可能性があった。けれど、部屋は綺麗に片付けられていたので計画的な失踪だったという見解もある。いずれにせよ、真相は分からない。
 千月が失踪してから一年余りが経とうとしていたある日、千月の母親から手渡された百人一首を自室のクローゼットから見つけた。形見。というわけではないけれど。
 箱を開けて中身を確かめる。昔は千月とよく遊んだものだと懐かしくなった。遊ぶといっても、相手が札を詠んでもう一方が取ったり、坊主めくりをするだけだ。
「あれ?」
 絵札を眺めていると違和感を覚える。千月の好きな一句が見つからないのだ。見落としたかと思い何度も探したけれど見当たらず、枚数を数えてみると九十九枚しかなかった。
 千月の家のどこかにあるのか、自室で紛失したのか。あるいは、千月が失踪先に持っていったのか。
 思えば、千月と出会うキッカケは百人一首だった。
 詠み札を撫でながら、その日のことを思い出す。

     ※            ※

 大学二年生の春、古典文学を学ぶ源内ゼミの初回講義の場で、親睦を兼ねて自己紹介をすることになった。
「では、みなさんの好きな和歌を一句、教えてください」
 好きな一句と言われても他の学生は困惑していた。古典文学の勉強がしたいとはいえ早々に出てこないだろう。僕も例外ではなく、戸惑っていると隣から手が上がる。
「はい。末摘さん」
「私は『忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな』の一句が好きです」
「儀同三司母だね。直情的な良さがあって先生も好きです」
 それから千月は、句の歌意などを熱心に話していた。百人一首という和の遊びに対して、千月の茶色くて長い髪を見ると、ちぐはぐさを感じて思わず笑みがこぼれてくる。
 ふと、千月と目が合って固まった。少しだけ間があったあと、一瞬だけ僕を睨んで視線を先生へと戻す。
 その日の夕方、ゼミの歓迎会が開かれた。
 酒の席が苦手な僕は角の席で小さく丸まって、ゼミ生が揃うのを待った。「遅れてごめんなさい」と声が聞こえて顔を上げると、そこには和服を纏った千月がいた。
 黒を基調とした生地に、赤色の金魚模様が施されている。
 他の学生の注目を一斉に浴びる中、千月はそういった視線に慣れているのか、平然とお通しに手を出す。汚れが付かぬよう、袖を左手で添える仕草に少しだけ惹かれた。
「ごめん。来て早々にはしたないよね。お腹空いちゃって」
「……いや」
 和服を珍しがって見ているのを勘違いされたようだ。
「そんな服で参加するとは思わなかったから」
「母親が和服のデザイナーでね。試着させられてるんだ」
 言って、千月がまたお通しに手を付ける。
「普段着として着られるかどうか。機能美の検証をするの」
「機能美?」
「うん。アクアリウムと一緒でね」
 千月の言っている意味が分からず、思わず首をかしげる。
「明石くん。今度、水族館に付き合ってよ」
「水族館に? なんで?」
「私の好きな一句を笑った罰」
 待ってましたと、千月が意地悪そうに微笑む。
「ねぇ、明石くんの好きな和歌はなんなの?」
「僕は……」
「小野小町? それとも壬生忠見かな?」
「なんでそんなに詳しいの?」
「教養の一環としてね。昔、母親に覚えさせられたの」
 言って笑う千月の表情が哀しそうにも見えた。

     ※            ※

 それから千月とはゼミや講義を通して親密になっていった。その過程の中でいくつかの事情を知った。
 名家の出身であること。様々な稽古をしていること。
 家族との関係があまり良好ではないこと。
 他の人よりも長く接している分、僕は千月の些細な変化にも気付けるようになっていた。千月はいつも大勢の友人に囲まれて楽しそうに笑ってはいるけれど、上辺だけを取り繕ってる感じがして心がザラつく。
 数ヶ月が経った頃、千月と水族館へ行くことになった。
 歓迎会のときと同じく、千月は金魚柄の和服を羽織っていた。毎日というわけではないけれど、千月は和服を好んで着る。他にも絵羽模様や桜が施されたものを見たことがある。
 緑芽臨海公園駅の改札を抜けて階段を降りると噴水が僕達を迎えた。水柱が高く舞い上がり、遠くに見える大型の観覧車に飛沫が纏っているかのように輝く。
 緑芽臨海公園駅と呼ばれるだけあって、ここには巨大な公園がある。この国では最大規模の公園だそうだ。水族園を始め、野鳥観察コーナーや芝生広場。海を一望できるガラス張りの展望台など、様々な施設が点在としている。
 水族園へと向かう途中の階段には、薄赤色や水色の紫陽花がひかえめに咲いていた。千月は「ごめんね」と断り、手に持っていたデジカメで紫陽花の写真を撮り始めた。
 しばらく後ろ姿を眺めていると、茶色に染まった千月の髪がところどころ黒く変色していることに気付く。
 病葉みたいだなと思った。
 秋の落葉期を待たずに変色してしまった葉のことである。
「猫をね、二匹飼ってるの。柏木と若菜って名前なんだ」
 千月が振り向く。いつもの笑顔だ。
「猫に花の名前を付けると不思議なことが起こるんだよ」
「不思議なことって?」
「ヒヨコが空から降ってきたり、人が人形になったり」
 ジュゴンが庭を泳いだり。そう言って微笑む。
 突然そんなことを言われて戸惑っていると、千月に手を引かれて「行こ」と促される。揺れる髪を見ながら、思う。千月は不思議なことを求めているのだろうか。そもそも、柏木と若菜は花の名前でいいのだろうか。思って、笑う。
 千月が僕の顔を見て不思議そうにしていた。

     ※            ※

 緑芽臨海水族園は市が経営しており、国内で唯一、ジュゴンのジューゾーを飼育している珍しい水族園である。
 しばらく園内を歩いていると企画コーナーが設けられているブースへと辿り着く。そこに展示されているものが目に入ったとき、僕は思わず息を飲み込んだ。
 少女の形に模された水槽の中で魚達が泳いでいたのだ。
『少女水槽』という展示会らしい。
 透明骨格標本を人間に施してみたらどうなるのか。そこに生物としての美しさ、人間としての芸術性は感じられるのか。そういったコンセプトの元に開催されたそうだ。
「……綺麗」
 小さく呟いた千月の横顔に、どこか翳りが見えた。
 それから千月は上の空であった。ジュゴンを眺めているときも。ドルフィンショーを観覧しているときも。
 途中で見たアクアリウムの金魚達が千月の和服と重なる。エサで誘導された金魚達が上へと泳いで、花火のように一斉に広がっては散っていった。

     ※            ※

 水族園を出ると景色は橙色に染まっていた。
 海辺へと続く橋を抜けて、星見海岸へと向かう。
「浦島太郎の亀はオスかメスか。どっちでしょうか?」
「え? なに、急に」
「解答期限は私がいなくなるまで」
 なんだそれと思っていると、千月が砂浜に寝転がる。
「汚れちゃうよ」
「機能美の検証をしないと母親に怒られるから」
 ふと、遠くで高校生達が海に向かって、光るものを投げていることに気付く。千月が小さく「あ」と声を漏らす。
「懐かしいなぁ。高校の行事でね、光流しって言うの」
 千月の話によると、光流しは高校三年生の夏休み前に、将来の夢や手紙などを空きビンに書いて詰め、それを海へと流す行事だそうだ。中には色とりどりなビー玉が数個と、少しクリーム色がかった海岸の砂が入っていた。
 ボトルには高校の住所が書かれたラベルが貼られているので、運が良ければ返事が戻ってくることがある。奇跡的に巡り合ったボトルに込めた願いは、実際に叶うとされていた。
「私が光流しをやったとき、熱心に見てた女の子がいたな」
 そのときのことを思い出したのか、千月の顔がほころぶ。
「千月はどんな願いを書いたの?」
「うん? 内緒」
 千月が体を起こす。茶色い髪にも和服にも砂粒が付いていた。僕は無言で髪を優しく梳いて、砂粒を取り払う。砂粒が夕陽を受けて髪の間から光の粒子を放つ。
「君は優しい人だから、弱い子にかまっちゃうんだよ」
「千月は弱い子じゃないって」
 ただ、どこか精神的な脆さがあるだけだ。目を離したら透明になって消えてしまいそうな。死んでしまいそうな。それは弱さと呼ぶのだろうか。千月は弱い存在なのだろうか。
 でも。それでも、
「千月。僕は君のことが好きだ」
「どうしたの? 急に」
「ちゃんと言ったことないなと思ったから」
「ありがとう。すごく嬉しい」
 千月がもう一度、寝転がる。そして、淡く手を伸ばす。僕の角度からは夕陽を掴もうとしているように見えた。
「忘れじの 行く末までは 難ければ」
「うん?」
「今日を限りの 命ともがな」
「儀同三司母の一句だ」
「ねぇ、明石くん。私の影を好きになっちゃ駄目だよ」

     ※            ※

 一年後、千月と最後に会った星見海岸に来ていた。
 バッグから細かく切った一句が入った小瓶を取り出す。

『忘れじの 行く末までは 難ければ
 今日を限りの 命ともがな』

 あなたが私のことを忘れないという思いが、遠い将来まで変わらないことは難しいでしょう。ならばその思いを知った今日を最後に、私は死んでしまいたいのです。
 改めて思い返す。確かそのような歌意だった気がした。
 千月はあの日を最後にしたかったのだろうか。
 それはきっと誰にも分からない。僕にも。ともすれば千月にだって、本当は分からなかったのかもしれない。
『ねぇ、明石くん。私の影を好きになっちゃ駄目だよ』
 千月の言葉を思い出す。
 あの日の記憶に囚われないように、千月との思い出に縛られないように。僕は今日、終わらせないといけない。
 詠み札の入った小瓶を海へと投げる。
 優しい放物線を描く。
 願わくば、千月へ届きますように。
 やがて、夕陽が水平線の彼方へと消えていく。空の色が橙から群青へと染まっていくのを感じながら、ザザンと鳴り響く波の音を背に、僕は星見海岸をあとにした。


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サークル名:感傷リップループ(URL
執筆者名:秋助

一言アピール
感傷リップループでは主に、感傷的な小説や詩、脚本や短歌、ツイノベなどを中心に執筆しています。テキレボでは既刊『違う光で見てた。』『繊細と落花』を頒布します。現代日本を舞台にした、不思議なことが起きたり起こらなかったりする短編集です。また、無料一ページ小説を何作か用意してお待ちしております

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