恋し風が吹いた日に

 十月の始めだというのに今夜はやけに肌寒く、とてもじゃないが家まで気力が持ちそうもなかったので、立ち寄る先を探すことにした。職場から駅までの帰路を分断する甲州街道の信号待ちをしていると、冷たい北風に煽られ、思わず風上に背を向けた。すると視線の先、――――裏路地に見慣れぬ店を見つけた。どうやら小料理屋のようで、橙の提燈が飾られ、納戸一枚分の四角い灯が夜道を照らしている。越谷は北風に背を押されるように踏み出し、その店を駅までの休憩所に選んだ。
「―――――こんばんは」
「……、はい」
 暖簾を捲り納戸を引いて中へ入ると、驚き交じりの声色で迎えられた。声の主はカウンターの向こうに立つ店主だ。三十路と見受ける細身の女で、白梅の着物がよく似合う。柔らかく落ち着いた雰囲気を纏っており、それが淡い色でまとめた店の内装にも馴染んでいた。越谷はカウンター席の椅子を引いて店主の前に腰を下ろし、改めて店主の表情を見上げた。店主は越谷の表情を伺った後、ようやく「いらっしゃいませ」と柔らかい挨拶で迎えた。
「お荷物、隣のお席を使って下さいね。この時間なら、もう誰も来やしませんから」
 越谷は此処で初めて時間を確認した。二十三時―――閉店間際だったらしい。越谷は店主が意表を突かれた理由を察した。
店主はカウンターから客席まで周り、越谷の傍にやってくると、まずは紅色の布を敷いた。その上にコースターと箸、箸置きを並べる。店じまいの準備を始めていたからか、一度回収したものを再び準備する手間が伺えたが、嫌な顔一つしない彼女の姿に誠実さを感じた。さらには暖かいおしぼりを提供する手元や、傍に寄って気づく項の白さを見つけ、邪な虫が疼いてくる。じっと視線を注ぎ続けてしまいそうで、越谷はわざとメニューを手に取った。
「熱燗を貰えますか? 夜になったら急に北風に煽られて、すっかり冷えてしまいました」
「……あら、もうそんな季節ですか? ついこの前まで夏やと思ってましたのに」
 円らな瞳で微笑んだ店主は鍋に火を掛け、徳利に酒を注いで温め始めた。「お食事は?」と問われ、「少しだけ」と答えると、摘まみだけ用意してくれるという。小鉢に酢の物を盛り付ける手つきの丁寧さを眺めていると、彼女は何気なく間を紡ぐためにか、ふふりと笑った。
「今年は夏が早かったでしょう? 猛暑日が6月から続いて。だから北風小僧も仕事を速めたんやないですか?」
「クールビズが終わったのが先月末だから、今年の北風は世間の衣替えに合わせて仕事を始めてくれたことになるね」
「ふふ、北風小僧は仕事人ですものね。ご存知ですか? この街では北風小僧に別の名前を付けているんですよ、彼は世間で言うより働き者なんです」
「北風小僧はカンタロウが名前じゃないんですか?」
 越谷は民謡の一つを取り上げて、店主に聞いた。子供の頃はよく歌っていた記憶があるが、店主は首を傾げた。
「カンタロウ? それは聞いた事がありません」
「本当に? まさか世代間ギャップとか言わないでくれよ? 冬になったら祖父母と手を繋いでいつも歌っていたんだ」
「……お客様、お幾つですか?」
「今年で三十八になるよ」
「……私が三十一ですから、世代の壁ではありませんわね。お客様は祖父母に教わったと仰るなら、きっとその差です。私は祖父母と逢ったことがありませんから」
 越谷は口許を抑えて申し訳なさを滲ませた。眉を寄せて一度「すまない」と謝意を表し、店主の表情を伺う。彼女は相変わらずの柔らかい表情で微笑みを返した。
「母が高齢で私を生んでくれたので、仕方がない事です。何も生い立ちが悪い訳ではありませんから」
「そうか、なら、安心したよ。実は祖母の命日がこの時期でね、私は祖母にばかり構われていたから、懐かしさと寂しさが相まって人恋しくて。北風も寒いし、働けど世は世知辛いし……この時期は虚しくて仕方がない。独り身とくれば尚更だ」
「気温差に気持ちが釣られる事はようあります。そいで、熱燗が飲みたくなるんでしょ?」
「あはは、どうやら私だけじゃぁないらしいな、熱燗で心身共に温めようっていう客は」
 越谷は呼気を逃す様に笑いながら肩を揺らし、店主が盆にのせた熱燗と徳利を受け取った。数個盆にのせた猪口は形が異なるようで、客に選ばせるようにしているらしい。越谷は少し考えた後、木の葉が描かれた猪口を二つ取り、言外に「付き合え」と誘引する。店主はすぐに意を察すと頬を染め、隣に腰を下ろし、細い指先で熱燗を傾けた。同じように越谷も返してやり、二人で乾杯をした。
「一人で飲むよりも、こうして二人で飲む方が温まるというものさ。君は淑やかで居心地が良いし、……ぽっかり空いた穴が埋まる様な気がするよ」
 越谷は言い終わるや猪口を一気に傾け、口腔を酒で濡らした。鼻に抜ける米の風味に天を仰ぎながら、美味いと漏らす。酒を味わっていれば、本音を漏らした恥ずかしさも頬の赤みも隠すことが出来る気がした。店主は少しだけ俯き、同じように猪口を傾ける間を紡いだ後、酒を越谷の猪口に注ぎだしながら静かに口を開く。
「あのねお客様、私、年甲斐もなくきちんと恋愛をしているんです」
 越谷は酒気帯び始めた身体が冷えていくのが解った。
「いつもね、この裏路地の店の前に立って、そう、あの甲州街道に向かう大通り、あそこを通る殿方を、待っているんです。うちに呑みに来ませんかって、お誘いしたくて」
 店主は綺麗な爪先を頬に添えて、赤みを帯びた肌を恥じらいながら、まるで少女の様に話続けた。越谷は先ほどまでの浮足立った気持ちが萎み苦笑する。
 ――――他に好きな男がいるって事か。美味い振り方だな
 彼女が言う大通りは、越谷が毎日通勤している道だ。つまりは彼女の想い人は越谷と同じ会社の人間かもしれない。そう思うと複雑だった。独身だからと焦り過ぎたのかと我が身を律し、店主の話を聞くことにした。
「その男とは何処まで?」
「……名前も存じ上げなくて。裏路地にぼんやりと立ちながら、毎夜、声を掛ける機会を伺っていたんです。けれど彼は私になど見向きもせず、駅へと向かうばかりで。気温と共にこの気持ちも冷めて行けば、苦しくもないのにって、思っていたくらいで。北風小僧に煽られるのを待っていました。」
 越谷は酒気帯びた嘆息を吐いた。
「万葉集にでもありそうな、情景が浮かぶよ。君みたいな美人が夜ごと誰かを待つなんてさ。なんて唄だったか、ちょっと思い出せないが」
「そんなに雅な話でもありませんわ。そうそう、話を戻しますけれど、ここらでは北風小僧のこと、呼び方が違うんですよ」
「ああ、そんな話から派生していたんだった」
 越谷が記憶を引き寄せ頷くと、店主は小さく笑った。
「ここらではね、恋し風と呼んでいるんです。北風は恋しい人と引き合わせてくれるんですよ。思い連ねてじっと、待っていれば。北風が、恋しい人の背中を押して、私のところまで連れて来てくれるって。信じていたんです」
 俯いていた店主の視線が越谷と絡む。
「―――、」
 越谷は思わず瞼を反らし、酒を切らした猪口を握り込んで転がしながら、壁に掛かった品書きに逃げた。上気し始めた肌色を隠す。
息を呑んだ音が聞こえてしまっただろうか……、いやこれは早計か? 北風に煽られて此処に着てはみたが、私だと限らん話だ。棚から牡丹餅の様な展開に整理が付かないが、つまりは、そうだ。夜ごと待たせてしまっていた彼女の恋心に答えるチャンスが巡ってきているってことか。いやだが、私だとは限らない話で、
「……お客様、私……」
 店主は細い指先を越谷の腿に滑らせる。越谷はようやく店主の視線に応えると、赤みが差した彼女の頬を引き寄せ、吐息を合わせた。

秋風に 身にさむければ つれもなき
       人をぞたのむ くるる夜ごとに
                    

秋風が身にしみて寒いのです。いくら愛情を抱いても、願っても、念じてばかりでは応えてもくれないのは承知しているのですけれど。つれない人が私を受け入れてくれまいかと、ひょっとしてあの風が連れてきてくれないかと、毎夜、頼みにしておりましたが、終ぞ心も冷えて待つのをやめたのに。
こんな風に2人にされては、私は、


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サークル名:うずらやの小金目創庫(URL
執筆者名:領家るる

一言アピール
うずらやの小金目創庫は、『うずらや:轂冴凪』『小金目創庫:領家るる』の合同サークルです。ひたすら梟とうずらを愛でる折本や、(少しふしぎ/含)SF本など書きたかったものだけを引っさげて参りました。「鳥散歩」「300字SS」「おさじょ」他企画参加致しますので、宜しくお願い致します。

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