言の葉の道

「何で倭の詩歌なんて学ばなくてはならないの!」
鴻嬉寮の女子学生たちは猛反発した。
 この鴻嬉寮は、朝鮮から日本に留学してきた女子学生たちのために李王家の妃殿下が設立したものである。日本の皇族出身の妃殿下は、日本の良さを知って貰おうと寮生のために様々なプログラムを用意した。その一つが和歌の講習であった。折り良く、寮の顧問をしていたのが女流歌人の枡富照子であった。
 寮側としては、あくまで善意からの提案であったが、受け入れ側の学生たちにとっては日本の精神文化の押し付けのように感じられた。そのため、ボイコットしようということになった。
 講習の初日、応接室に集まった学生たちは講師である枡富照子が入室すると一斉に立ち上がり、外に出て行ってしまった。しかし、講師の席の一番近くにいた戸妍は立ち上がり損ねてしまった。
 室内に二人きりになってしまった枡富と戸妍は、互いにばつの悪い思いで向かい合っていた。戸妍は枡富先生が気の毒に感じられた。
「戸妍さん、来週から私の家にいらっしゃい」
こう言い残して照子は出て行った。
 こうして、戸妍は生涯歩むことになる「言の葉の道」すなわち和歌の道に第一歩を踏み入れたのである。

 駒場駅を降り、第一高等学校の時計台に向かって歩く。枡富先生のお屋敷は一高の近くだった。戸妍は、大広間で先生と二人きりで和歌を学んだ。
「万葉集は最古の歌集で……」
 先生はいつも柔らかな声で和歌の講義をされた。そして習字の時は傍らに来て手を添えて教えて下さった。この暖かな手と香りのよい髪油を付けた綺麗な先生を独り占め出来ることは嬉しく、また勿体無いように感じられた。広間からは手入れの行き届いた庭園が見える。それを背に立つ和服姿の先生は一幅の画のようだった。
 戸妍は和歌の講習を楽しみにしていた。当初は大好きな先生と二人だけで過ごせることが愉しかったが、先生に褒められようと熱心に勉強していくうちに和歌自体も好きになったのである。
 ある日、いつものようにお屋敷を訪ねると、先生は出掛けられるところだった。
「どうしても行かなくてはならない用事があって。すぐに戻りますので部屋で待っていてくださいね。」
 先生が出て行った後の屋敷内には誰もいなかった。いつもなら、御家族のどなたかとお手伝いさんがいるのだが。戸妍は、改めて広間内を見渡した。柱には見慣れない大時計が掛けてあった。窓からは日本式の庭が見え、ちょうど梅が赤い花を咲かせていて、その枝の間を小鳥が飛び交っていた。こうした風景を眺めているうちに、胸の奥から歌が湧き出てくるのを感じた
『人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける……』
古今集の仮名序はこうしたことをいっていたのだな、戸妍の歌心が目覚め始めた。
 その後、戸妍の和歌は目に見えて上達した。枡富先生は弟子の成長を心から喜んだ。
 こうして二年近くたった師走、先生は戸妍を新しい師のもとへ連れて行った。短歌界の最高峰で枡富先生の師でもある佐々木信綱先生のところであった。
 西片町にあるお宅で佐々木先生は、朝鮮の留学生歌人を暖かく迎えた。
「君が茂山戸妍くんか。朝鮮には和歌を詠む人が少ないようなので女流歌人として励みなさい」
「はい」
 戸妍は力強く応じた。続いて佐々木先生は
「何事も続けることが肝心、どうか途中で投げ出さないように。それと日本の作品を真似ぬように」
と助言も下さった。
 この言葉は戸妍の心を軽くした。これまで多くの和歌を詠んできたが、どうも表現が今ひとつのように感じた。それは、結局、日本の作品が念頭にあったためだった。日本人の感性がつかめず、日本人のように表現出来ないのである。だが、佐々木先生は、真似をするな、すなわち日本人のような表現をしなくてもよいとおっしゃるのだ。戸妍は、自分の感じたまま、自分の表現で詠めばいいのだと気付かされたのである。
 この日以後、戸妍は佐々木先生のお宅に通うようになった。
 先生は、放課後でお腹を空かしているだろう戸妍のために、いつもパンとスープを用意してくれた。美味しそうに食べる戸妍の姿を見ながら、先生は持参した作品の添削をされた。
 良い師に恵まれて、和歌に学校の勉強にと戸妍の留学生活は充実していた。そして、気が付いたら三年間の留学生活は終わり近付いていた。留学生活を記念して枡富先生たちは戸妍の和歌集を作ってくれた。人生で最初の歌集だった。
 
 帰国した戸妍は女学校の教師になった。戦争末期の時代だったが、戸妍は日々熱心に学生たちを指導していた。
 終戦となり、朝鮮は大日本帝国の統治から解放された。だが、解放の喜びに浸ってばかりもいられなかった。世の中は騒然としていて、間もなく朝鮮戦争が勃発した。
 そんな中でも戸妍は結婚し、子供も儲けた。だが、父親は北朝鮮に連行され、その後、二度と会うことはなかった。
 戦中戦後、大変な生活の中でも戸妍は、師の教え通り和歌を詠んでいた。苦しいこと、悲しいことを三十一文字に託したのである。
 戦争が終わり、世の中が落ち着くと戸妍一家にも平穏な日々が訪れた。好人物の夫・李允模氏と共に子供たちの成長を見守りながら、明るく楽しい家庭を築いていった。こうした生活は戸妍に多くの和歌を詠ませた。日常が全てが和歌になるのだった。幸いなことに夫は妻が和歌を詠むことに理解を示してくれた。歌集の刊行を支援してくれたり、恩師・枡富先生の訪韓の際は各種の手配等々を引き受けてくれた。
 日々、歌をよみ続けているうちに、ふと改めて和歌について学びなおしたいと思うようになった。戸妍は再び日本の大学院に留学した。彼女はここで中西進教授の指導の下「万葉集」を学んだ。万葉集には、朝鮮半島出身の渡来歌人たちの歌も収録されていることは知っていたが、こうして改めて読んで見ると、渡来歌人たちが和歌の発展に貢献していることを再認識した。和歌は、朝鮮半島出身歌人の文学でもあるのだ。それゆえ、韓国(朝鮮)人である自分が和歌を詠んでも差し支えないのだ。これまで、韓国人なのに何故異国である日本の詩歌を詠むのかと批判めいたことを何度も聞かされた。しかし、これからは批判など気にせず、万葉歌人の子孫として詠んでいこうと彼女は心に決めたのだった。
 すべてが順調に進んでいた中、夫が突然、彼女のもとから去ってしまった。一足先に一人で冥界に旅立ってしまったのである。戸妍は暫くの間、何も出来なくなってしまった。何を見ても允模氏のことが思い出され、彼がいないことを改めて実感するのだった。
 悲しみに浸りながら数年間を過ごしたが、ある日の明け方、いつものように雨戸を開けると、庭木の枝が芽吹いているのに気付いた。そして、
「孫さん、いつまで泣いているんだい。和歌を詠まないのかい。佐々木先生がおっしゃただろう、途中で止めてはいけないって」
どこからか、おどけた調子の夫の日本語が聞こえてきた。
――そうだ。私には和歌があるのだ。
 戸妍は、和歌の製作を再開した。泣き続けていたところで夫は帰ってこないのだから。そう思った彼女は夫との思い出をまとめた追悼歌集を刊行した。
 そして、宮中の歌会始の詠進歌にも応募した。最初の数回は落選したが、諦めずに応募し続けたところ、遂に入選し、皇居に参内する栄誉も得た。
 また、自分の愛する日本と韓国の良好な関係を願って、韓日友好関連のイベントには積極的に参与した。
 このような戸妍の活動を日本側は暖かく受け入れたが、韓国側はそうではなかった。しかし、彼女の地道な努力は遂に祖国にも認められ文化勲章が与えられた。
 偶然から始まった和歌の道は、戸妍に様々なものをもたらしてくれた。良き師、良き友、創作の喜び、学ぶことの楽しさ……。
「言の葉の道」を歩けた人生を戸妍は幸福に思うのだった。


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サークル名:鶏林書笈(URL
執筆者名:高麗楼

一言アピール
朝鮮半島の歴史と古典文学の研究及び紹介と朝鮮半島を舞台とした物語を書いています。今回のお話は朝鮮の女性歌人のお話です。

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