はなふるこよみ
川沿いの桜並木は、満開というにはまだ少し早い。くそったれな制服を脱ぎ捨て、レースとフリルに着替えた日を思い出しながら、マリは陽射しを浴びて目を細める。
午後が休講になったのはラッキーだった。週末頃に満開、の予想とともに雨の予報も同時に出て落ち着かなかったのを、花見にあてることができた。
川沿いにがらんと開けた空が淡く霞んで、季節が新しくなったことを実感する。花粉だの化学物質だのが混じる空気は不思議と軽く、桜を楽しむ人たちもどこか浮き足だっていた。春だなあ、と詮無い言葉は風に乗って散ってゆく。
「去年さ、あたしのこと、見てすぐにわかった?」
隣を歩くジョーはこちらを見て、微妙な間をおいてから、いや、と呟いた。
「全然わからなかった」
「そゆとこ正直だよね、ジョーは」
「だって同い年以上には見えないし、間違って入り込んだのかなって」
ジョーのパーカーに桜の花びらがくっついているのを、迷った末にそのままにしておく。お揃い、なんて言うと引かれるかもしれないから。
「魔女は十五歳で成長が止まるって聞いてたけど、びっくりした」
「あたしだってびっくりしたよ!」
ジョーはマリより頭一つ分以上背が高くて、八センチの厚底ストラップシューズをもってしても太刀打ちできない。コットンパンツに包まれた脚もすらりと長く、隣を歩くときには、歩幅も歩調も普段よりもずっと緩めてくれている。握った手は何も伝えてこないけれど、そうでなければジョーがマリと並んで歩けるはずがない。昔解いた算数の問題みたいに、一人で先に進んでしまうに違いないのだ。
「たけしくんは時速五キロで、まりちゃんは時速四キロで進みます」
ジョーが待ってくれなければ、出会えるのは地球を何周もしたあとだ。それはつらい。だから嬉しい。
十歳のとき、地域研究の発表で住まいが近いことがわかって親しくなった。
ところが去年、入学式を終えたばかりのキャンパスで出くわしたのだから、驚いたなんてものではない。ジョーだ、と思わず声をあげたマリに、彼も目と口を丸くしていた。
ジョーの背は見上げるほどに伸びて、肩も胸も厚みを増した。なのに思慮深げな眼差しや言葉を急がない性分は子どもの頃と何ひとつ変わっておらず、外見も内面もすっかり変わってしまったマリにはとても眩しい。
そういえば、シュートを蹴り抜くクラスいちの人気者にパスを回すのがジョーだった。ゴール下でリバウンドを奪って、振り返るなり勢いよくボールを投げるのがジョーだった。低く変わりゆくさなかの掠れた声で、
おぼろな昔の記憶を引っ張り出すや、花火が弾けて天使がラッパを吹き鳴らし、紙吹雪が舞った。好きだったのかな、ではない。そのものじゃないか!
やきもきしながら迂遠とも思えるステップを踏んで、今ではこうして手を繋いで歩く仲だ。
付け加えると、初めても頂戴した。彼女はいたと言う。ジム通いと試合で忙しく、受験が重なって自然消滅したのだ、とも。顔も名前も知らない、けれどきっと可愛いに違いない元カノに哀れみを覚える。ジョーは筋肉質で体温が高くて、隣で眠るのは最高なのに。
去年は両手を持て余しながら桜を見た。今年は手を繋いで。来年もまた同じように桜を見るだろう。そうしたいと思う限りはきっと、ずっと。
魔女の
桜の花びらは誰をも等しく手招いていた。
「何してるの」
朝顔の鉢を前に膝を抱えていると、マリが隣に座った。
「花が開くところを見たくて」
蝉の声と真新しい陽射しが容赦なく降り注ぐ。白い襟つきのワンピース姿のマリは同い年とは思えないほど大人っぽく、蕾を見つめる七色の眼も、両肩に垂れる黒い三つ編みもひどく遠い。
「……明日、咲くよ」
雨だれのような一言が魔女の力によるものであることは明白で、ジョーは口を噤む。何か言えば、魔法が――マリが消えてしまうのではないか。そんなふうに思ったからだった。
「誰にも言っちゃだめだからね。見てて」
マリが指差した青紫の蕾がほころびほどけて、
未来を引き寄せる。
それは濫用を禁じられているはずの、魔女の力。
完全に花開いた瞬間にジョーは知らず息をつき、マリの眼に涙があふれるのを見た。
「……なんで泣いてるの?」
「泣いてない」
言うなり麦藁帽子で顔を隠して、そっぽを向いた。魔女の力を使わせてしまったせいかもしれない。
携帯端末を掲げて朝顔を撮り――すぐさま削除した。データでは残せない。残したいものは何も。
朝顔は明日には萎むだろう。けれどこの花の色を、艶やかさを、分かち合った刹那を覚えておくことはできる。いいや、忘れるなんてできやしない。
それこそがきっと、魔女の力なのだ。
あんなに底の厚い靴を履いて足首は大丈夫なんだろうか。
マリのスカートはなんでふんわり丸く膨らんでいるんだろうか(まず間違いなく「見ていいよ」と言われるので訊かない)。
いつも着ている、フリルとリボンとレース満載の服は、どこで買ってるんだろうか。
「コスモスって、たくさん咲いてるとほんと綺麗だよねー!」
マリのピンクブラウンの髪とスカートが風にひらめく。何も知らない子どもの頃ならば、花の精だと言われても納得しただろう。
高く抜ける青空を背景にコスモスが揺らめく。畑に飛び込みかねない小さな手を掴んで引き留めて、ジョーは悶々と考え続ける。
もうすぐ誕生日だけど、何をプレゼントすべきなんだろうか。
マリ自身がきらきらでひらひらだから、どんな花もアクセサリーも服も見劣りしてしまう。しかも、マリは魔女だ。魔女というのは、種であり社会的身分であり、稼業だ。講義とジムの合間に単発のバイトを捻じ込むジョーより収入ははるかに多い。
「なに、どしたの、考え事?」
何でもない、と答えると、七色の眼が胡乱げに細まった。えー、と不満のブザーが鳴る。
「……マリのこと」
「そういう言い方は、ずるいと思う」
艶やかな唇は尖りっぱなしだ。けれど頬は、花びらと同じピンク。
こたつは天国です。楽園です。
押し切られて遂にこたつを買った。就職と下宿が決まり、合鍵を渡したときのマリの喜びようが忘れられなかったのだ。モニタと端末は壁填め込み式、新しいタイプの洋室を選んだのに、こたつがすべてを和の佇まいに変えてしまう。
入居から日が浅く、自分の住まいであるという愛着はまだない。猫の額ほどのベランダで短い昼を満喫する青いアネモネの鉢にも慣れなかった。
「花びらに見える部分って、
寒がりの魔女は、地上の楽園を満喫している。伸びるモッツァレラチーズと格闘しながらの言葉は、鉢を手に入れてきたにしては、興味がなさそうだった。
「人は見かけによらない?」
「ガチムチもサラリーマンになる」
ガチではあるかもしれないが、ムチではない。反論すればじゃあ見せろと返ってくるのは明らかで、ピザを食べ終えるまでは黙っておく。温め直したところで、食欲までは戻らない。
アイス食べたいねえ。食欲旺盛な
「そう言うと思って」
「あたしまじでジョーのこと愛してるわ」
やっすいな。さざなみのように笑いが伝播する。
昔の写真を懐かしく眺め、端末の電源を切った。あれから何年経ったのだったか、マリは写真と変わらぬ姿でジョーを待つ。
今日は黒ベースのワンピースに赤いリボンのヘッドドレス。季節感はないが、ジョーはきっと気にしない。外見にこだわる男ではないから。
「ごめん、遅くなった」
改札から走り出てきたジョーの手を取って、年に一度の道を辿る。川沿いの桜は間もなく満開、けれど前線が近づいているとかで、慌てて予定をすり合わせたのだった。
繋いだ手に体温はない。人工の皮膚、人工の血管、人工の筋肉、人工の骨格。ジョーは大病の末に機械の身体を得た。身体を構成するものは何もかも変わってしまったけれど、彼の本質は何も変わらない。あの休講の日から、もしかすると子どもの頃からも。
春の空気を胸いっぱいに満たす。柔らかな風に桜の花びらが流れて、髪を、襟を彩る。ジョーが目を眇めて遠くを見ていて、昔を思い出しているのだと直感した。ね、と絡んだ指を引っ張る。
「大学で会った時、あたしのこと、見てすぐにわかった?」
隣を歩くジョーはこちらを見て、微妙な間をおいてから、いや、と呟いた。
「全然わからなかった」
「あたしはね、ジョーがどんな
「……そうだと嬉しい」
ジョーが顔をくしゃくしゃにして笑うので、あっ、と間抜けな声が零れた。
ずるい、と思うが言ったら負けだ。わかると思う、なんて賢しらに言い放った時点で負けは確定しているけれど。
ジョーはずっとジョーのまま、変わらない。ただそれだけのこと。
水面を翔ける風を捉えれば、きっと空をも飛べるだろう。ジョーの乾いた手のひらを握って、マリは大きく呼吸した。
サークル名:灰青(URL)
執筆者名:凪野基一言アピール
剣と魔法と理屈のファンタジー、文系SFを執筆しています。今回は少し未来の、何気ない日常のお話をお届けします。マリとジョーが活躍する、昨秋発行のAIアンソロ「Singularity」もどうぞよしなに。テキレボ5新刊は神のみぞ知る……。ピピピと来た方はwebカタログをご覧くださいませ。