容疑者Yの献身

 コンコンッ。戸が叩かれる音で、谷部雄大やべゆうだいは目を醒ました。狭い室内には明かりは灯っておらず、戸の外から射し込む微かな光だけが目標しだった。
 コンコンッ。再び、戸が叩かれる。眠っている時は耳に付いたが、目を醒ますとその音は人気を避けるように、ひっそりと、こっそりと鳴っている。
「はい。」
 淡い光へ向かい、谷部は返事をした。
「俺だ。米田だ。」
 聞こえてきたのは友人である米田洋一よねだよういちの声だった。谷部は乾いた唇を真一文字に結び、蒲団を抜けて戸へと這い寄る。これから言われるであろう言葉は分かっていたが、彼は惚けたように問う。
「どうしたんだ?」
「どうした、じゃあないだろう。」潜めているが、その声には感情の色がありありと浮き上がっていた。「自首をしたって、どういうことだ?」
「お前のほうが、自首が何であるか職業柄詳しいだろう。」
 戸に遮られ、その姿は見えないが四角張った米田の顔が谷部には容易く想像できた。彼とは長い付き合いで、中学高校を同じとし、共に成長してきた。だから、瞼を閉じるだけで、その顔は思い浮かぶ。
「そういうことを言っているんじゃあない。強盗をしたってどういうことかを聞いているんだ。」
「言葉のままだよ。金に目が眩み、押し込み強盗を行った。刑事のお前には友人が犯罪者になって何かと迷惑をかけると思うが、申し訳ない。」
 谷部は今朝、自らの意思で警察署に赴き、数日前に起きた強盗殺人の犯人が己であると申し出た。彼の出頭に警察署内は色めき立った。しかし、谷部を即逮捕とはせず、長い聴取が行われた。虚偽の証言をし、事件を攪乱する者、また犯罪者に進んで名乗りを上げる者など、迷惑な輩は後を絶たない。そうした傍迷惑な人間ではないか調べ上げられ、結果谷部は留置場へと放り込まれた。だが、依然白とも黒ともつかず、警察が手を拱いていたのも事実であった。
 米田が谷部の自首のことを耳にしたのは、夕方になってからだった。別件を当たっていた米田は署に戻るなり、同僚から強盗殺人の犯人が現れたことを聞き、不思議とそれが谷部であると直感した。そして、その直感は見事に当たっていた。
 夜、署内の人間が少なった頃合いを見計らい、監視員に話をつけて二人で話し合える手筈を整えた。そうして留置場の内と外の隔たりはあるものの、二人は会話をすることができた。
「何か、隠していることがあるんじゃあないか?」
「何故、そう思うんだ?」
 米田の知っている谷部は心優しい男だった。困っている人がいれば見て見ぬ振りのできぬ性格で、人を守るためならば自己犠牲も厭わない。そんな男に強盗や殺人などは似合わない。
「強盗なんて、お前には似合わない。あれは自分の欲望を抑え切れなかった人間がすることだ。」
「欲望か、」谷部は息を吐くような、小さな笑みを漏らす。「俺に借金があることは知っているだろう?」
「それは、」
確かに米田は谷部に借金があることを知っていた。自分とは別の友人の負債を被ることとなり、一二年前から借金苦で谷部の生活は困窮していた。
「知っていて、なお俺が犯人ではないと思うのか?」
「……、」
 返す言葉がなかった。職業柄、米田は僅かな金銭で人間が何処までも冷酷になれるということを何度も思い知らされてきた。谷部がその例外というには、感情論でなく、説得力のある言葉が必要だった。しかし、米田はその言葉を口にすることが出来ず、苛立ちが燻ぶる。
 しんっ、と無音が留置場を一瞬の間支配する。
「君を友人と見込んで、頼みたいことがある。」
 暗い、無音の中に声が零れた。
「何だ?」慌てて拾い取るように、米田は聞き返す。
「妻のことだ。」
「雪子さん?」
「ああ、」谷部は小さく頷いた。瞼を閉じると妻の顔がありありと浮かんでくる。それは身体を弱めながらも気丈に笑って見せる、痛ましい表情。
 数年前に結婚したものの、楽をさせる余裕もなく谷部は借金を抱えてしまった。以来、彼女に苦労を掛けない日などなかった。
「あれはあまり身体が丈夫ではないだろう。それなのに気丈だから、弱音を吐かない。俺が借金を作っても、何一つ恨み言を言わなかった。それどころか、よく支えてくれた。彼女の為ならば、俺は何だってする。例え、この手を罪で染めるような行為だってね。」
 闇に溶け込みそうな己の掌を谷部は見詰めた。
「彼女も、俺と同じ気持ちだったのだろう。だから、」
「お前、まさか雪子さんを庇うために?」
「あいつにはこの数年で、十分過ぎるほどの苦労を味合わせた。これ以上不味い飯を食べる必要なんてないんだ。」
 狭い室内に響く谷部の声には、何人たりとも翻意させることの叶わぬ鉄の意志が滲んでいた。
「じゃあ、雪子さんを守るために、嘘の証言をしたというのか?」
 判然としなかった谷部の言動が、ようやく米田の頭の中で一枚の図柄として見えてきた。谷部雄大は妻雪子が犯した押し込み強盗の罪を被るために虚偽の証言をして、自らを犯人だと偽証した。それが米田の想像した谷部の行いだった。
「あいつを守るためだ。」
 自己犠牲を厭わない男の揺るぎない言葉。米田は身体が震えるのを止めることが出来なかった。
「そんな方法で守られて、彼女は喜ぶのか?」感情を抑えることが出来ず、米田の声は次第に上擦っていく。「いや、そもそも雪子さんが強盗だなんてするわけないだろう。」
「ああ、彼女はそんな野蛮なことはしないさ。」
 激した米田の声とは打って変わり、谷部の言葉は静かで、冷ややかだった。
 内側で昂っていた米田の感情が、冷水を浴びたかのように一瞬で萎えていく。しかし、動悸だけは激しく脈打つ。
「どういうことだ。お前の言っていることはさっきから支離滅裂で、何が言いたいのか全く分からない。」
「分からないことはないだろう。俺はさっきから、彼女を守るためだと言っているのだから、」
 空調は稼働しているというのに、米田は寒気が抑えられず、歯の根が噛み合わない。
「俺が出てくるまで、彼女に一切の苦労がかからないようによろしく頼むよ、強盗犯。」
 最後の一言を聞いた瞬間、わずかに残っていた歓喜の感情は完全に死に落ち、米田の視界と未来は闇に閉ざされた。その暗闇の内で、血塗られた手をした欲望という名のもう一人の自分がケタケタと笑う声を彼は聞いた。


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サークル名:妄人社(URL
執筆者名:乃木口正
一言アピール
【絶対ミステリ主義サークル】本格ミステリを中心に、長編・短編など様々な形式での作品を執筆。今作が楽しめた方には、びっくり箱のような掌編集『みにみす?』、『みにみす?2』をおススメ。少しでも楽しんでいただければ、幸いです。

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