花葬

「花のね、露を飲むのです」
 そう言って彼女は胸に手を当てて、にっこりと微笑んだ。
「露を……」
「ええ。薔薇の花弁のふちに溜まった、朝露を毎朝ひと口ずつ。それだけですわ。他には何も口にしませんの」
「それだけであなたは、そんなに美しくいられるのですか」
「そうですわ。わたくし、本当にそれだけ」
 その会話の初めから最後まで、彼女は私の目をじっといじらしく見つめながら、涼やかな目元に微笑を湛え続けていた。
 しかし、花の露を飲んで永らえるなど、そんな話は明らかに嘘である。そんな不思議があって堪るものか。彼女の紅色の頬や赤い唇を見ながら、私はそう心に強く思ったけれど、当の彼女の微笑がまるで嘘など生まれてこの方ついたことが無いようにあまりにも美しく清らかなので、結局は何も言えないままに彼女の全身をじろりじろりとただ睨んで終わってしまった。
 而して、彼女のそれはやはり欺瞞であることが後に分かった。彼女は朝露のみによって生きるのではない。彼女は花を食べるのだ。それを知ったとき、私はようやく彼女のあの美しさに納得がいった。彼女が真に朝露のみを吸って生きているのであらば、その美しさはもっと透き通ったものになっているはずなのだ。なのに彼女の肌は、あんなにもきらきらと輝いている。彼女の唇の端には、あんなにも艶かしい微笑が上品にほんのりと乗せられている。
 彼女の微笑は薔薇の深紅によるものだ。彼女の肌の輝きは、むせかえるような百合の花粉によるものだ。赤や黄色や紫や、ありとあらゆる種々の花々の美しさが練り上げられて昇華して、彼女の全身に充満して閉じ込められて、行き場のないまま匂い立っている。これこそが、彼女の美しさの秘密であったのだ。
 ただし、彼女の瞳の奇妙な透明さだけは、絶対に朝露のためである。
 私は彼女の美しさの秘密には気付かないままの愚かな男のふりをして、彼女に花をあげることにした。白く美しいが、濃い潮風を海辺で浴びて育った毒花である。人気の無い浜に出て、人知れずその花を摘むとき、私の気持ちはいやに高揚した。彼女はこの白い花を食べるのか。全ての花を枯らしてしまう、海の潮が濃縮されたこの毒花の毒をも、彼女は己の美しさに変えてしまうのだろうか。
 その日、私が彼女を浜に呼び出して、贈り物の花を手渡すと、彼女は白百合のような可憐な指先でそれを静かに受け取った。そして毒花をそっと胸に抱くと、あの透き通った目で少し困ったように私を見つめて、それから寂しそうに微笑んだ。
「知ってしまわれたのですか」
「何をです」
 全てを知るかのような彼女の瞳に、悪心にまみれた私の心臓は即座に跳ねた。
「おとぼけにならなくても結構だわ。良いのです。何もかも、いずれは知られることでした」
 諦めたような彼女の様子に、私は意を決した。
「その通りです。僕はあなたの秘密をついに知ってしまいました。今まで誰一人として気が付かなかった、あなたの美しさの秘密です。そうして僕は、あなたのことが好きになってしまったのです」
 彼女は毒花を両手で胸に押し当てて、大きくかぶりを振った。
「ああ、何故そんなことを言うのです。私はあなたという人が恐ろしい。いえ、男の人が恐ろしいわ。男の人は、どうしてそんなことを恐れることなく口にできるのですか。あなたが好きになったのは私ではなく、私の美しさだわ。そうして秘密を知られたとき、女の美しさは死ぬんだわ」
「いいえ、それはあなたの間違いです。だってあなたは今この時だって、こんなにも美しいではないですか」
「いいえ、間違っているのはあなたです。だって私は美しさそのもので、そうしてこれから死んでいくのです。私は死ぬ。良いこと、あなたはきっと知らないけれど、世の中の女の美しさは、みんな花で出来ているのよ。だから誰かに愛された時、女は死ぬのです」
「いいえ、あなたは勘違いをしています。僕はあなたの美しさなどではなく、あなたのことが好きなのです。あなたの輝く肌や唇の艶かしさなんかではなく、あなたのその寂しい瞳が好きなのです」
「いいえ、それは嘘ですわ。私はこれから死にますが、それはこの花の毒のためではありません。私はあなたに殺されたのです」
 そう一息に言って、彼女はくっと毒花をあおって喉の奥まで押し込んだ。途端に彼女の顔色が変じた。ぐらりと大きく傾いだ彼女の身体を、私は慌てて駆けつけて支えた。私は彼女を力いっぱい抱きしめた。紅色だった彼女の頬からは今や血の気が失せ、毒花と同じ真っ白な生気のない色になってしまった。彼女の青ざめた唇には、もう薔薇の微笑は浮かんでいなかった。百合の花粉の輝きも、もはや彼女の肌のどこにも見当たらなかった。
 力無く横たわる彼女の耳元で涙を流しながら、私は思わず叫んだ。
「ああ、ああ、ああ。ようやくあなたは本当に美しくなった。どうかもう一度起き上って、あなた自身の目で鏡をご覧ください。あなたの全身、もうどこにも花は見当たりません。代わりにあなたは何という澄んだ目をしているんでしょう。あなたの瞼が死という檻に既に堅く閉ざされていたって、僕には分かる。こんなに清らかな瞼の下には、あの透明な瞳が何も変わらずにそのまま眠っているに違いないんだ」
 腕の中の彼女は沈黙したまま何も答えなかった。もはや彼女の体は、一つの有機的な意志の無い人形であった。なおも新たな慟哭が、私の胸の底から湧き上がってきた。
 私は初めて、彼女に慈しむように触れた。彼女の白百合のような手を、そっと握った。
「ねえ、聞いて下さい。あなたの瞳がこんなにも澄んでいるのはね、その瞳が表面から底まで全部、丸ごと哀しみで満たされているからなんですよ。ここにだけは花はなかったんだ。それを知っていたのは僕だけだったのに。僕だけがあなたの本当の美しさを知っていたのに。何という、何という、何という……」
 もはや微動だにしなくなった彼女の体温がゆっくりと冷えていくのを感じながら、私は自分の心が何か温かくて済み切ったものによって、透き通っていくのを感じていた。己の瞳が段々と、彼女と同じ色に変わっていくのが分かった。寂しさの色であった。
 突然、一陣の風が吹いた。さあっと赤い花びらが数枚頭上に舞い上がって、同時に腕の中の彼女の身体がぐにゃりとたわんで瞬時に軽くなった。
 あっと声を上げたその瞬間、もはや彼女の身体は私の腕の中にはなく、彼女の肉体や顔や手足があった場所には両手で抱えても足りないくらいのたくさんの花びらが積もっていた。青、赤、黄、紫。それら無数の花びらをかき集めようと身を乗り出した瞬間に、ごうと生暖かい潮風が陸から吹き、色とりどりの花びらは一斉に天に舞い上がってしまった。
 私はまだ体温の残る彼女の服を抱きしめながら、海の上に天高くどこまでも舞い上がっていく花の嵐をいつまでも見つめていた。彼女と同じ色の目で。絶対に花にはなれない身体で。


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サークル名:チャボ文庫(URL
執筆者名:海崎たま

一言アピール
当サークルで発行している短編集『海に降る雪』に収録している短編、「花葬」を掲載させて頂きました。こんな感じのふわふわした話ばかり書いています。ものすごくまったり活動しています。

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