にんげんと、にんげんだったものの、よる

 窓から見上げた夜空は、俺が知っているこの街の空とは違っていた。夜闇の天蓋がやけに暗く、その上に都市部ではとうてい見られない数の星が散りばめられている。街じゅうに設けられた街灯の存在を忘れているのか、それとも『彼女』の故郷の星空が混ざり込んだ結果なのか。後者なのだとしたら、いつか俺もその空を見てみたい。
「いい天気だねー」
「そーだな」
 簡潔に言葉を返してから、少しの沈黙が訪れて、頭を抱えたい衝動に駆られた。何が「そーだな」だ、相手が捻り出してくれた話題も拾えないで何をしているんだバカ野郎。始めて女の家に入った童貞か。そこまで巻き戻ってしまったのか自分は。
 とはいえ、この閉ざされた世界に二人きりなのは事実だ。辺りを見回せば、色も形もてんでばらばらな写真立ての数々に、若干シュールな姿をしたものを含むぬいぐるみ、菓子か何かの空き箱、その他ファンシーなものが色々。机のすぐそばの本棚には、俺も中等部まで通っていた魔術学校の教科書と参考書が並んでいて、窓から射す月光に背を照らされていた。
 俺は机の下から椅子を引っ張り出し、ベッドの隣に置いて跨いだ。背もたれを抱いて一息。顔見知りとはいえ、恋人でもないのに女子の寝室で堂々とくつろぐ俺に、彼女は疑問を示さない。
「あっ、あのね、テオさん」
 俺の名を呼ぶ小さな唇は、初夏に道端で咲く花を思わせる、薄い青紫。愛らしく丸みを帯びた頬も、パジャマの半袖からのびた腕も似たような色をしている。けれども俺はその色こそ彼女が健康である証だということを知っていた。同じ顔色をした野郎――彼女の兄と、三年弱同じ校舎に通って顔を突き合わせていたから。
 つぶらな目が俺の顔をじいと見つめている。澄んだ赤い瞳の周り、いわゆる白目にあたる部分は黒く、凝視すると魂を吸い寄せられそうな心地になる。これを不気味に感じる奴は少なくないとは思うが、俺にとっては魅惑的なパーツの一つだ。魔性の黒曜石とでもいうべきか。
「テオさんが言ってたえーと、部署……あの、あの部署」
「アストラルセキュリティ課?」
「そう、それ! どんなことするのか教えてよ! 絶対カッコいいやつじゃないですか!」
 ため口でいい、と言ったのを覚えていてくれたことが嬉しいし、結局徹底できていないところがまたかわいい。興奮した口ぶりに応じるように、多肉植物に似た一対の触角がぴんと立った。
 彼女が手を乗せている太腿(っぽい部分)は、他の肌よりも濃い紫色をしていて、骨がない。俺のよりもずっと強靭な筋肉で作られているであろう脚は、腰の下から八本も生えていた。よく海中の軟体動物に例えられているが、それらとは違って肉厚で吸盤もぬめりもない。これも故郷以外ではしばしば気味悪がられると嘆いていた。俺としては正直、そそる。まじまじと見ていたい衝動を堪え、すぐに視線を正面に戻した。
「そうだな……魂魄学って高等部でやってる?」
「やってるやってる、去年?取ったから今年の後期に?取るんだ」
「じゃあ話が早いな、ざっくり言うとこのへん一帯に作用する結界を……」
 そういえばさらりとしか話したことがなかったなと思いつつ、改めて俺がしている――ということになっている――仕事について解説をしてみせた。彼女から見た俺は「お兄ちゃんの友達で、難しそうな公務員をしている、専門知識があるすごい人」ということになっているらしい。俺の働きぶりに興味を示してくれたのは、分野は違えど彼女も専門職を目指しているためか。素直に嬉しい。
 とはいえ、今これを語ったところで彼女の記憶には残らないのだけれども。後でもう一度話して、再び羨望の眼差しを向けられるのも悪くないと思う。この罪悪感も再び湧き上がるに違いないが。
 確かに俺は公務員で、市民の精神を呪いの類から護る課に力を貸したりもしている。しかしそれが本業というわけではないのだ。適度に真実を混ぜ込んだ嘘は、上が直々に用意してくれたものといえども、振りかざして楽しいものではない。
 俺のなるべくかみ砕いた解説を聞き終えた彼女は、ふぅ、と大きく息を吐いて身を乗り出してきた。初めて会ったときと比べるとだいぶ大人びた顔が、ぐっと近づく。
「街の平和ってほんとにいろんな人がいろんな仕事して守ってるんだね……」
 しみじみと語る、高い声。世界の真理に気付いてしまったとでも言いたげなドヤ顔が愛おしい。
「実際は小説に出てくるみたいなカッコいいもんじゃないんだけどな。なんつーか、地味」
「え、夢守捜査官ジュリエッタみたいな感じじゃないの」
「俺それ読んだことないけどぜってー違うのだけはわかる」
「そう……なんだ……」
 触角がへにょりと倒れる。流行りの物語みたいな感じじゃなくてごめんな。
「まあそう凹むなって、何か面白いことがあったら上に叱られない範囲で教えるからさ」
「本当!?」
「ああ」
 椅子ごと移動して、再び目を輝かせた彼女にもう少し近づく。
 距離を詰めるぐらい造作もないことで、それどころか俺が望めば、彼女は流されるがままこの場ですべてを曝け出すだろう。未だ誰にも聞かせたことのない声色で俺の名を呼んで、俺の身体にひしとしがみついて。そうすることができる力を、俺は持っている。
 よこしまな考えが魂を炙り、焦がしてゆく。少しぐらいつまんでしまっても大丈夫、禍根は残らない。そう獣が囁く。
「あれ、テオさん……角と、羽? あと尻尾? 生えてたっけ」
 やっべ、と呟いてしまっていた。
「いや急にそんなの生えたり抜けたりするわけないよね、なんか無かったような気がして、ええと」
 普段彼女と会うときの姿と今の姿が違うことに気付かれてしまったらしい。俺が迷いを抱いて気を抜いたせいだ。戸惑う彼女に、実はな、と告げて瞳を覗く。己の魔眼で魂まで射ぬくために。
「ここ、夢ん中なんだ。だから現実とは勝手が違ってる。ほら、俺が夜中に入り込んでんのにユェヅの野郎が殴り込みかけて来てないだろ」
「ほんとだ!」
 素っ頓狂な声をあげての納得。そう、これが現実での出来事なら、俺の悪友であり彼女の兄でもあるシスコン野郎が隣の部屋からすっ飛んできて、鍵をぶち壊し俺の骨を何本かバキ折っているはずなのだ。
 その事実に彼女が今まで気が付かなかったのは、そして自室で俺と二人きりでいることに未だ何の危機感も抱いていないのは、俺がそうやって他者の夢に入り込むすべを持っているゆえで。
「夢……そっか、夢なんだこれ、夢にイケメンが出てくるってなんかお得な感じだね」
「その言いかただと特売か何かみたいだな」
「今ならテオさん七割引き!」
「十割でもいいぞ」
 彼女は異世界からこの街に来た留学生(珍しいものではない)であり、彼女曰く、地元にたくさんいる、ごく普通の、八本脚の『人間』で。
 俺は己の野望(犯罪の類ではない)のために、親友たちにも秘密で夜の眷属の仲間入りをした、『かつて人間だったもの』。
「じゃ、俺そろそろ帰るわ。次来るときにまた土産持ってくるけど何がいい?」
「こないだの四角い瓶のプリンでお願いします!」
「即答かよ」
 その元気の良さがおかしくって、思わず笑ってしまう。くるくる変わるこの表情を間近で見てしまった日から引き返せなくなったんだよなあ。
 立ち上がり、身をかがめて彼女の唇に指をあてた。最後により一層強くまじないをかける。しっかりと、名を呼んで。
「目が覚めたら全部忘れる。……おやすみ、モニャニヤ・ルーループプ」
 つぶらな目がすうっと閉じられる。彼女の、モニャニヤの夢が、終わる。

 やけに豪奢な魔術灯が眩しくて呻いた。あの光を反射してキラキラ光るタイプの奴は起きぬけの目によろしくない。
 少しばかりの魂の逃避行を終えた俺は、隣で眠る女――夢で会ったあの少女とは違う――を起こさないよう、そうっとベッドから抜け出した。必要としている情報を引き出し終えた、もう関わる必要のない女だ。調査済みである逆鱗を撫であげて、追い出される形で縁を切れば予定通りにただの他人になる。俺は「顔はいいが女心を理解できないただのバカ男」としてこの場を去る。
 才能を見出され、国の諜報員として生きることを決めたのはずいぶんと前のことだ。俺の野望には金が要る。この仕事は多くの金をくれる。俺は機関の要求を呑み、遠い地で人間であることをやめてこの街へ戻ってきた。
 インキュバス、夢魔、あるいは淫魔と呼ばれるもの。ルーツによってその性質は大きく異なるが、俺は起きていようと寝ていようと戦えるタイプで、この身体はとにかく諜報の役に立った。秘密を暴くことにこれほど長けた種族はそういないだろう。
 仕事のために誰かを騙すことにはあまり罪悪感を抱かない。冷めた性分でよかったと思っていた。思っていたはずなのに。
「……はぁ」
 外の空気と煙草が吸いたくなったので服を着た。人間に化けているおかげで翼がなくてシャツを羽織りやすい。ベランダに出ると、夏にしてはひんやりとした夜風が吹いていた。煙がうまい。
 ほぼ望んだ通りに、しっかりと踏みしめながら歩んできた人生に、突如現れたぬかるみ。俺の足を捕らえたものは、かつてはくだらないと馬鹿にしてきたものだった。
「バカみてぇ……」
 呟きは夜の静けさに溶けて消える。女の夢に何度も入り込んでおきながら、世間話だけをして帰るインキュバスなんて、どう考えても笑い話の種でしかない。しかし迂闊に触れてはいけない、いつか彼女の笑顔を曇らせてしまう、と理性なのか感情なのかもわからない何かが繰り返し訴えてくるのだ。
 今までに俺ができたことといえば、親友をダシに遊びに行って土産を渡すことと、その際に他愛もない話をすること、夢の中で聞き出した好みに合わせて髪を編むようになったこと、ぐらい。
 たったそれだけ。
 ……ああ、本当にカッコ悪いな。俺。


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サークル名:むしむしプラネット(URL
執筆者名:柏木むし子

一言アピール
恋愛・シュール・ニッチR18などの各種ファンタジーをわいわいさせているサークルです。異世界を股にかけた不思議な出版社の話や、魔術学校が舞台の青春成分いっぱいの話などを展開中。甘さもえげつなさも、やるならとことんの構え! あとこの話のヒロインが空飛ぶメンダコとキャッキャする本が残部僅かです。

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にんげんと、にんげんだったものの、よる” に対して1件のコメントがあります。

  1. 瑞穂 檀 より:

    彼女のなにもかもがいちいち可愛くてたまらない、という感じが、たまらなくキュンときました。

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