いとのいと
俺は蜘蛛女に殺されるのだ。
運命の赤い糸ならぬ蜘蛛の糸が、俺の右手の小指にぐるぐると巻きついて指の先が見えない。糸の先をたどれば、妖しくも美しい女子生徒の指先へと繋がっている。
なぜこんなことになってしまったのか。
それは多分、彼女の不興を買ってしまったからに違いない。
「やだあ蜘蛛がいる! 誰か追い払ってー」
教室に湧いた蜘蛛に怯える真似をしながら、クラスの女子が甘い声を出して男子に媚びる。クラスのなかでもとりわけ美人な女子のお願いに、男子どもはまんざらでもなさそうな態度で応じていた。
休み時間、教室の隅でその様子を眺めていた俺の目は、瞬時に姿を捉えることができなかった。どこに蜘蛛なんているんだよ、と思っていたら「きゃあ」と女子が悲鳴をあげて足をバタバタさせた。よく見ると彼女の足元に小さな蜘蛛がいる。
なんだハエトリグモじゃん。あんなのかわいいもんじゃねえか。
もっとデカイ蜘蛛でもいるのかと思っていた俺はがっかりした。別段蜘蛛好きというわけではないが、悲鳴をあげて逃げ出すほど嫌いなわけでもない。
多分俺は蜘蛛が好きというより、蜘蛛の巣が好きなんだろう。
自身の身体から出す糸で作りあげる、あの精巧な網。細かな糸が同心円状になって引かれた美しい円の巣を見る、と目が離せなくなってしまうのはどうしてだろう。人間よりもずっと小さな生き物が、あの綺麗な円を形成していると思うと不思議な気持ちになる。
確かに俺も虫は得意ではない。だけど蜘蛛は……蜘蛛の糸、蜘蛛の巣だけは嫌いになれない。
ふと教室の隅で席につく女子生徒に目が向いた。
彼女の目は蜘蛛に騒ぐクラスメイトに向いていた。俺が彼女の手元に釘付けになったのは、右手と左手を器用に動かしていたからだ。蛍光灯の光を受けてキラキラと輝いて見えるそれを、あやとりしているようだった。
彼女は指先から糸が出せる。蜘蛛の糸が出せるのだ。
だからと言って彼女は実写映画化もしたアメコミの大人気ヒーローのように、驚異の身体能力を持っているわけじゃない。壁によじ登ったりしないし、悪と戦ってひとを救ったりもしない。……いや俺が知らないだけで実はどこかで人命救助していたりするかもしれない。……やっぱりそれはない、か。
彼女は指から糸が出せるだけだ。
いつもひとりの彼女は誰とも会話をしようとしない。ウチの制服は男女ともに真っ黒な学生服だったが、彼女は髪の毛も真っ黒で、それも腰に届くくらい長いので全身闇を纏っているようだった。肌の白さと唇の赤があるからまだ良いようなものだ。
俺はじっと彼女の手元を見る。あやとりをする彼女の手は、なにかを形作っているわけではなさそうだ。ここからではよく見えないが、指先から出した糸を無作為に絡めているだけのようだった。
もっと近くで見てみたい――
瞬間、彼女の視線が俺に移る。黒い瞳がひたと見つめる。
心臓が跳ねあがる。即座に顔を逸らしたけれど、見ていたことがバレたかもしれない。
「そっちに蜘蛛がいったぞ! お前の足元」
いつの間にかハエトリグモは俺へ向かってきたらしい。クラスメイト数人が騒ぎながらこちらへ近づく。
その騒ぎのなか彼女の視線を感じた。じっとりとした、粘つくような黒い視線。知らず知らずのうちに鼓動が早まり身体が硬くなる。
彼女が見ている。足元のハエトリグモと、俺を。
見るな。見るなよ。見ないでくれ。
彼女の視線に耐えられない。俺は喉に力を込めて声を押し出した。
「こっちに持ってくるなよ! 俺、蜘蛛嫌いなんだからさ」
椅子の上で器用に足を組んで胡坐を作り、床を這うハエトリグモを睨み据える。
「お前も蜘蛛苦手かよ」
クラスメイトが笑いながらハエトリグモを追い払う。苦笑を返す俺の視線の端で、彼女の瞳が瞬きもせずに見つめていた。
「お母さん、くもが浮いてるよ!」
下校途中の道端で、俺の少し前を歩いていた幼い男の子と母親が空を見上げている。
「あら本当ね」
母親はのんびりした声で子どもが指差した方を見ていた。
確かに雲が浮かんでいる。いや、雲というのはそういうものだ。現象そのものに不思議を見出すのはわかるが、とりたてて騒ぐことではない。
ガキのときってなんにでも驚いてたっけ、俺も。
立ち止まる親子に近づいたとき、何気なく空を見上げると確かにくもが浮いていた。
雲でなく、蜘蛛が。
電線と家の軒先、植えられている樹木の先端に糸をつけ、空中に巣を作っているらしい。一見すると確かに浮いているように見える。足の長いその蜘蛛はぴくりとも動かず、夕空のなかにひっそりとその身を晒していた。
不意に、あやとりをしていた彼女を思い出す。
宙に浮く蜘蛛が、教室の片隅で糸を操る彼女の姿と重なった。
翌日の放課後。掃除当番の生徒を尻目に、早々に帰宅しようとしていた俺は、焼却炉の傍に件の彼女が佇んでいるのを発見してしまった。ゴミ箱を隣に置いて、彼女は空中をなぞるように指を動かしていた。
気になる。めちゃくちゃ気になる。
指の動きを見つめていたら、気づいた彼女がこちらに振り向いた。
あ、ヤバイ。
逃げ出そうとしたが、俺は彼女の視線から目を逸らすことができず、半歩後ろへさがることしかできない。彼女が一歩、また一歩、こちらへ近づいてくる。能面を張りつかせたような、白い顔に赤い唇。
目を逸らすことなく歩み寄り、眼前までやってきた彼女が俺へ静かに手を翳す。彼女の唇がおもむろに開く。
「見たいのでしょう?」
瞬時に言葉の意味を理解できない俺は「は?」と顔を歪めた。彼女は眉ひとつ動かさず同じ言葉を口にする。
「見たいのでしょう? わたしの糸」
ごくり、と喉が上下する。
「だ、誰が見たいと思うかよ」
「わたしは知っている。あなたがわたしのあやとりをじっと見つめていたことを。わたしの糸を見つめていたことを」
マジか。やっぱりバレてたのか。気づかれないようにこっそり眺めてたつもりだったけど、気づかれてたのか。くそカッコ悪いじゃん俺。
だけどここで頷くことはできない。糸が見たいだなんて。彼女の白く細い指先で操る糸を、見たいだなんて。
そんなことを口にするなんて、とてもできない。
「糸なんて見たくない! 気持ち悪いんだよ!」
自分に言い聞かせるように強く声に出すと、彼女は丸い瞳を細くした。ぽってりとした赤い唇が、にんまりと笑みを形づくる。
動悸がする。喉がカラカラに乾く。身体が熱い。
俺は緊張しているのだろうか。
「あなたが気に入った。だから見せてあげたい。わたしの糸」
彼女の指がひらりと宙を一線する。風に流れる糸が夕陽に反射して光の波を作る。ふわりと漂う薄い糸が彼女の指先からひらりひらりと幾つも舞う。彼女の手のなかで糸が軽やかに形を作っていく。
俺はものも言えずにその光景に魅せられた。彼女はあやとりの要領で、糸をかけ合わせて放射線状に円を作る美しい蜘蛛の巣をあっという間に作り上げていた。
息を呑む。目の前で繰り広げられた鮮やかな技能に見惚れてしまった。目が離せなかった。息をするのも惜しいとすら思ってしまった。
彼女は両手をあげて蜘蛛の巣を俺の目の前に掲げる。糸越しに彼女の闇色の瞳が艶めいた。
俺はそっと巣に手を近づける。触ってみたいという欲求に抗えなかった。
触れる糸は柔らかく、けれど確かな弾力があった。滑らかで、それでいて粘り気がある。必死に撫でると糸は俺の指の力に簡単に負けて、巣には風穴が開いてしまった。「あっ」と上擦った声をあげた俺を見て、彼女の目が面白い獲物を見つけたみたいに煌めいたように見えた。けれどそれは一瞬のことで、見間違ったのだろうと思った。彼女の眉宇が曇っていたからだ。
「なんてことをしてくれたの。折角あなたのために作ってあげた蜘蛛の巣だったのに。あのように完璧な美しい巣を作ることができたのは、初めてだったというのに」
彼女を傷つけてしまったという事実に、俺の胸に痛みが走る。
哀しそうに俯く彼女の肩に、咄嗟に触れようと右手を伸ばしたら、小指に違和感を得た。
気づいたときには既に糸が指に巻きつけられていた。小指を締めつけるのは彼女の糸で、幾重にも巻かれたそれは白く輝く。まるで繭のようになってしまった指に唖然とする。小指から垂れた一筋の糸の行方を探ると、それは彼女の左手の小指にしっかりと巻きついていた。
彼女はにやりと笑う。
「わたしを穢したあなたを、わたしは離さない」
小指の糸が締めつける。
「離せよ! 俺は」
声が震える。彼女の瞳に目を逸らせない。どくりどくりと脈打つ心臓まで、糸に絡めとられているかのようで胸が苦しい。
「お前なんか……蜘蛛なんて……蜘蛛の糸なんて好きじゃないんだよ!」
ぎゅっ、と更に糸が巻きつけられて小指が麻痺してくる。「やめろ離せ嫌いだ」と言えば、一層強く締めつける。
「自らを騙す言葉を使うあなたを、わたしが罰してあげる」
彼女の笑みに身震いする。
俺は殺されるんだ。蜘蛛の糸を出すこの蜘蛛女に。
蜘蛛が巣に絡まった餌を捕食するように、俺も喰われてしまうのだ。
もがけばもがくほど糸に絡まり、逃げ出すことはきっとできない。
彼女の黒い瞳に、糸に、絡めとられて動けない。
「わたしは糸を離さない。あなたが真実を口にしないかぎり」
彼女は俺の心の内側に気づいている。言葉とは裏腹な感情が渦巻いていることを、きっと見抜いている。
ぞくぞくとした興奮が背筋から這いのぼるのを感じた。
小指に巻きつく糸の締めつけが、俺の感情を昂らせる。
ああ、このまま糸に巻かれてしまってもかまわない。
俺は恍惚として彼女を見つめる。
おかしい。いつもより頭がぼうっとする。
だから呟かれた彼女の言葉の意味を、正しく理解できなかった。
「……嘘。あなたが真実を言ったとしても、離してあげない」
サークル名:gemini song(URL)
執筆者名:星埜ロッカ一言アピール
テキレボは初めましてです。普段は男女の恋愛を軸に、現代ものやファンタジーを書いています。男子高校生の片思いを綴った連作短編集と、ファンタジー短編集を委託させていただきます。