幕が上がる

 京阪電車の特急のブレーキは、上質な弦楽器のような低音を奏でる。その懐の深い音に体をあずけて、私は世界でいちばん残酷な嘘について考えていた。
 主宰として劇団を旗揚げしてから、四ヶ月に一度、公演を打つことを目標に掲げてやってきた。常に脚本のことを考えながら生活していた。団員達は必死についてきてくれたが、そもそも私は「ついてくる」という意識が団員達にあることが、とてもさみしかった。同時にそれを彼らに求めてもしかたがない、と諦めてもいた。何より、自分の目標を達成するためには彼らが必要だった。私は打算的な自分に上手く見て見ぬふりをした。
 私にとって幸いだったのは、主演俳優が私の作品を毎回気に入ってくれていたことだった。劇団員は私の脚本以上にその俳優のことを愛していた。主演俳優を輝かせるために団員達は身を削り、結果彼は劇団の動員を増やし続けた。
 スカウトがきた、と、主演俳優から電話がきたのは一昨日の晩のことだった。それは、うちなんかとは比べものにならないような大きな劇団で、演劇人なら、そのオファーを受けない理由はなかった。
 三条駅で降りて、通りを東に行くと「伏見」という居酒屋がある。私たちは公演が終わるとここで二人で静かに打ち上げをすることがあった。狭くて、お世辞にもキレイな店とは言いがたかったが、安くて多くて、なにより美味い野菜天ぷらをつまみに飲むのは悪くなかった。満席になった公演の後は奮発して刺身を頼んだ。ママには内緒だったが、ママの威勢のいいかけ声を参考にしてキャラクターを作ったこともあった。
 彼はいつも約束に遅れてくる。私はまだ、ひと言めに、なんと言えばよいのか分からずにいて、ひと言めに何を言うべきか、分からないままだった。しばらくして、ひんやりした空気とともに彼はやってきた。普段の陽気さからは想像もつかないような、私が書いたどの役でも見せなかった顔をしていた。彼もまた、言うべき言葉を見つけられないままここにいる。そのことが分かって、私たちはもう、長い、長い付き合いなのだ、と改めて実感した。
 ぬるくなったビールを飲み干して、新しく瓶ビールを注文する。
「宣伝打つ前で助かったわ」
こんなことしか言えない自分自身が情けなかったが、事実、次回作のポスターは既にできあがっていた。乾杯をするときに、「よかったな」くらい言えばよかっただろうか、と、飲み干してから気づいた。彼はまだ、何も言わない。
「後でホームページにあげるから、早いとこ、挨拶文よろしくな。あ、あと、ときどきでいいし公演情報リツイートしてくれ」
彼は一度、ぎゅっと目を閉じて言った。
「…おまえはさ、ほんっとにそういうことがいいたいわけ」
もう行くわ、と言って彼は財布から千円出して言った。
「おれ、お前の脚本ホンは好きだったけど、お前のことはずっと嫌いだったわ」
 彼が出ていった後、焼酎を何杯か頼み、店を後にした。
 嘘をつくときに目をぎゅっとつぶるのはアイツの悪い癖で、旗揚げ当初、何度も注意したことだった。主役が繰り上がっていけば、私も久しぶりに演者として板に乗る。そこから見える空席だらけの客席を思うと怖い。理由の分からない車のクラクションが、公演を告げるブザーのように強く長く、三条通にこだました。


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サークル名:はじかみ文庫(URL
執筆者名:フタガミサヤ

一言アピール
書いてみると、自分が今よりずっとずっと上手く立ち回れなかったころの思い出と似ていました。

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