刃が胸を貫いた瞬間から、憎悪が、狂気が、消えていった。くじかれたのは端正な顔立ちの悪役俳優である。重い鎖から、報復という荷から解き放たれたように主役の一撃に絶命する断末魔のひととき、悪意は昇華してうろのような目をした悪役は虚脱と共に沈黙へ還る――
 劇場の最前列の中心、一番の良席に座っていた貴公子はレンズの青い色眼鏡の奥で、悪役俳優に向け、一心に視線を注いでいた。人形のように長い睫毛は微動だにせず、舞台を眺める悲しみよりも青い瞳にはかつての無感動を激しく揺さぶった懐かしい憧憬が映っている。
 生まれてこのかた、一度も光らなかったくらい瞳を輝かせたのが、演技であり、悪を演じる二枚目であった。
 幼かった自分がどうして悪を美しいと思ったのかは分からない。ただ悪が持つ本能への忠実を、自分の中の何にも共鳴しない心がはじめて共感したことは覚えている。
 美しかった。自由という本能への奴隷にならば、成り下がっても美しくいられる高潔があるのだと、幻想をみた。
 はじめて父と弟と演劇を見た後、人生に於いてはじめて、教えというものを父に乞うたのは今でも鮮明に思い出せる。
(父様、どうしたら僕は役者さんになれるのでしょう?)
 息子がはじめて抱いた淡い憧れを、父は此方の目も見ようとせずに切り捨てたのだ。
(何のためにお前を還俗させて家に戻したと思ってる?)
(お前は私の跡目を継ぐ大事な嫡男、第一王子だ……役者になりたいなどとお前らしくもない馬鹿な ことを言うな)
 ――思えば父はあの瞬間に、死を選んでいたのだ。
「…………閣下、劇……如何でした、か」
 見えない目に涙を浮かべて、ベッドに眠る鳶色の少年は失血で青白い顔をぴくりともさせずに、生臭い血の、生と死の匂いを漂わせていた。その瞼は下りたままで、、医療用のテープで軽く固定してあった。吐いた血で内側がぬらぬらと赤く粘ついていた人工呼吸器の覆いを清潔なものと交換しながら、貴公子は微笑んで答えた。
「面白かったよ、やっぱり二枚目の悪役はいいね」
「それは……よかった、です、ね」
 少年の声が放たれるのは口ではなく、拡声器からであった。それも声は、合成された機械音である。毒に痺れた脳に埋め込まれた電極が、少年の打ち止め、墓の匂 い、全身不随ゆえに貴公子が調合した毒劇物の治験体を務める従者セレナーデはアルコールとエーテルの匂いに包まれて、貴公子の声を幸福そうに聞いている。どんなに身体が朽ちようと、耳だけは聞こえるのだ。だからセレナーデは主人である貴公子の声に恍惚する。今日も毒を注いだ、麻薬中毒者も青ざめるような痛々しい針穴が穿たれた脂肪も筋肉も少ない白い腕が受けている仕打ちに感謝をして、泣くのはいつだって毒の苦痛を上回る崇拝の念があるからである。
「二枚目……それって、閣下よりも、綺麗な方、なのでしょうか……」
 音がかすれているのは機械の不調ではない。延命機器の刻みくるめく音を聞きながら、貴公子は色眼鏡の奥で切れ長の目を細めた。口元は笑っているが、瞳はひび割 れた氷めいていた。普段から色眼鏡で目を見せない代わりに口元の動きだけで表情を拵えることに慣れた、色味に欠ける薄い唇が囁く。
「まさか。僕のほうが美しいに決まっているだろう?」
 貴公子はセレナーデのベッドに腰かけていたが、やおら立ち上がって部屋を出て行こうとした。セレナーデにそびらを向けて、立ち止まる。
「君はね、セレナーデ……僕の役に立っているんだよ」
「だからその身体の不自由を苦にする必要はないんだ。君という存在は求められていて、とても価値があるんだよ」
 立ち去る前に、貴公子は呟いた。一顧だにしなかった。
 生きながら死んでいる、毒に浸された少年は、静かに再び涙をこぼした。
「ねえギュスターヴ。劇、楽しかっただろう?」
 血まみれの絨毯じゅうたん、破けた服の背中――逞しい背に腫れ上がった細い幾条もの掻き傷を負わされて這いつくばっていた従者ギュスターヴは、飛び散った血や背中から滴った血の溜まりに沈んでいる切れた長い金髪を虚ろな目で見つめていた。髪は血を吸って、軋んでいる。血に触れた爪の間に、外気に触れて海老茶色に変色した血がこごって黒ずんでいた。
「聞いてる? 返事は?」
 ギュスターヴの曇った金の目には、床に捨てられた棘つきの荊鞭いばらむちが映っている。鞭の革は血を啜りすぎてすっかり柔らかくなり、与えられる痛みが減ってしまったので貴公子が放り捨てた。血を浴びた毒蛇の死骸のように、魔物めいて沈黙している。
「……おれには芝居など、虚飾にしか見え ませぬ……あるじ、貴方が熱を上げるほど素晴らしいものには感じませんでした」
「風情がないね」
 貴公子は机の上で煌々と輝いていた三叉の燭台を掴むと、ギュスターヴの背中の上で火のついた蝋燭を傾けた。溶けた蝋が滴り落ち、燃える液体がギュスターヴの掻き傷をいた。口から空気の塊がこぼれ、喘鳴ぜんめいに変わるまでの時間に溶けた蝋はゆるゆると表皮に冷やされ、奥の真皮まで残った熱が届き貫いた。
 貴公子はギュスターヴを見下ろした。レンズに隠れた瞳の光、まなじりの険は冬の寒さが晩秋の葉を噛む音に似ていた。ギュスターヴの苦鳴をよく聞いて、歪んだ表情をまじまじと見たものの、気持ちは脈動すらしない。分かるのは目に見える客観的なところ までで、非言語的な部分が何も訴えてこないし、また訴えを受け入れる器がない。
(新しい絨毯、ちょうど買おうと思っていたから、新調しようかな)
「どうせ何もかも……つくりものです」
 呟いたギュスターヴの背の傷を、貴公子は無表情にブーツのかかとでえぐった。
 こういうときにはこういうことを言えば喜ばれて、会話と関係が成立する――他者の観察と研究で培い作成した自分だけの状況手引書マニュアルに従って僕は他人と接している。
 幼い頃から他者の気持ちを理解・共感することができなくて、その欠陥をあたかもないように、コミュニケーションが上手い人間をサンプルにしては相手や状況に合わせた応対方法をみがき続けた、悪辣な努力の賜物だ。
 従者たちは恐らく、僕のどうしようもない欠陥を分かっている。僕の態度が所詮つくりもので、与える優しさがまやかしの酸素だということも。
 僕は従者たちと、自分自身にその存在にさえ嘘をついて欺いている。僕は嘘の身分をつかって、偽りの名を騙っている。
 僕は生まれながらの役者だった、合法的に誰かを騙せる役者は、僕の天職だった。役者に惹かれるのは、当然だった。
 僕の、厄介払いしてしまった不出来な父よ。
 喜びも悲しみも感じないこの心なら、僕はどんな悪役にでも化けられた。
 もしもなんてないけれども、あのとき父が頷いてくれていたら、こんなことにはならなかったと思った。そうしたら、僕の歪みは舞台上でのみ暁のような輝きを放ち、この狂気を役が全て 、燦然さんぜんとした嘘に変えてくれたかもしれなかったのに。僕は悪役ではなく、悪になっていたから。
 嘘でない僕なんて、僕の嘘でない部分なんて、何処にあるんだろう?
 不吉なことに、色眼鏡が絨毯の上に落ちた。ねじが一つ、外れていた。
 この世ならざる異形――美貌という名の絶対は、どうして鏡でしか僕の目に見えないのだろうか。
 夜の暗い窓硝子に映った終末めいた美しさを、僕はじっと見つめていた。


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サークル名:黒の貝殻(URL
執筆者名:緑川かえで

一言アピール
耽美主義。
薔薇と貴族、血と狂気、心酔と逸脱。
仮想西洋ダークファンタジー。
アンソロジー参加の三主従で新刊頒布予定。

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