彼方に送るは虚か実か

 箸が床とぶつかる甲高い音が、やけに大きく響いた。固まったままの右手から少しずつ感覚が消えていく。壁にかけられたテレビから視線を逸らすことができない。昼のニュースを担当するリポーターが、真剣な顔をして原稿を読み上げている。テロップには、速報の文字。
「――繰り返します。先ほど入った情報によりますと、約五年前に打ち上げられた国際宇宙船フロンス号との定期連絡が、三日前から途絶えているとのことです。――何らかのトラブルが起きたとみて――発表が遅れたことに関しては――フロンス号は、人類の超長期宇宙滞在を目標とし――」
 リポーターの口は動き続けているのに、言葉が頭に入ってこない。胃も頭もぐるぐると引っ掻き回されるようだ。杉浦幹太すぎうらかんたは箸を取り落とした格好のまま微動だにせず、テレビをただ凝視していた。
「――日本からは、武田穣たけだみのる宇宙飛行士が参加しています」
 その名前が耳に届いた瞬間、体全体が砂になったかのような感覚が幹太を襲った。座っているのに、崩れ落ちそうだ。ゆっくりとテレビから視線を外し、カウンターに両手をつくと、ようやくの思いで立ち上がる。
「かんちゃん、どうした」
 カウンターの内側から、低くしわがれた声が届く。わずかに心配の色が混ざっているように聞こえたが、幹太に顔を上げる気力はなかった。
「…………大丈夫っす、……これ、釣り、いらないんで」
 スーツのズボンから財布を引き抜き、札を置く。目の前のラーメンはまだ半分以上残っているし、餃子も三切れ、皿の上に整列している。いくら好物とはいえ、この状態で喉を通るとは思えない。
「おっちゃん、ご馳走様、……また来るわ」
 外回り用の鞄もスーツの上着も鉄の塊のようで、持ち上げるのさえ億劫だった。料理を残してしまった罪悪感と、それよりも大きな衝撃を抱えながら、幹太は店の扉をくぐった。足元の感覚がない。ふわふわと、宙に浮いているかのようだ。数歩進んだところで足がもつれ、ブロック塀に半身をぶつけた。崩れ落ちそうな体を叱咤しながら、幹太は視線を空へと持ち上げた。青い空には雲一つなく、淡く月が浮かんでいる。いつものように穏やかな、昼の空だ。初夏の澄んだ風が冷や汗を撫で、熱を奪っていく。乾いた唇を開き、途切れ途切れに言葉を漏らす。
「……どういうことだよ、穣、なあ、おい」
 絶対に帰ってくるって言っただろうが。湧き上がる叫びは、喉の奥で消えていった。

 会社に戻った途端、課の全員から何事かと声をかけられた。午後休を申し出ようと部長の元へ何とか歩を進めると、こちらが口を開く前に帰宅命令が出た。相当ひどい顔をしていたのだろう。
 ごく簡単に業務の引継ぎをしてから荷物をまとめ、タクシーを呼んで駅まで向かい、電車に乗った。昼間の電車は人が少ない。三人掛けの席の端に腰を下ろし、車窓の景色を感慨もなしに眺める。アパートがある最寄り駅を乗り越して、そのまま数駅進む。駅に降り立つと、なんとなく懐かしい香りが鼻をかすめた。
 ここから自分の実家まで、歩いて十数分だ。静かな駅前を軽く見回すと、歩き始める。コンクリートの上を歩いているはずなのに、雲の上にいるような感覚になる。一歩一歩を踏みしめるように歩を進め、実家の前を通りすぎ、坂道を登り始める。
 幹太の家から歩いて数分、坂を上りきった高台に穣の家はある。
 息を切らして坂を登りながら、思考はようやく動き出す。
 穣のことは、小学生の頃から知っている。マメで誠実な穣が、連絡を絶やすことなどあり得ない。ましてや彼が今参加しているのは、世界中の期待を背負った一大プロジェクトだ。忘れていました、程度ではない何かがあったのだろう。
 ――機体トラブル。事故。命にかかわるような……
 不穏な単語が脳裏をよぎり、幹太は強く頭を振った。その勢いで足元がふらつく。
 坂の先に、穣の家の屋根が見えてきた。その奥には、抜けるような青空が広がっている。青空の一点にいるかもしれない穣を凝視するように、幹太は目を細めた。
 普段から連絡を取り合っている相手から三日連絡が途絶えれば、家へ様子を伺いに行くだろう。元気なら胸倉をつかんで、何で連絡をよこさないと詰め寄ることもできる。けれど今の幹太には、それができない。何光年も先にいる相手の元へ行くためには、途方もない時間がかかってしまう。そもそも、宇宙飛行士でもない、ただの平凡な営業マンの自分が宇宙に行くことなど、地球の地軸が三回反転してもできっこない。
 声を限りに叫んでも、いくら手を伸ばしても、届かない場所に穣はいる。彼の身に何が起きていても、助けに行くことはできない。その現実を眼前に突き付けられている思いがして、心のなかで歯噛みをしながら、幹太は一軒の家の前に立った。辺りには報道陣や報道用ドローンの姿はまだなく、静寂に包まれている。
 塀に取り付けられた、小さなインターホンを押した。数秒待っても、返事はない。もう一度。女性の声が機械越しに聞こえた。
『……はい』
「穣のおばさん、……杉浦です」
『…………かんちゃん?』
 インターホンカメラを覗き込むと、消え入りそうな声が返ってきた。小さく頷くと、玄関の扉からがちゃりと音が響く。
『……どうぞ』
 数年ぶりに穣の家の玄関をくぐる。中は少しも変わっていなかった。無理に作ったような笑顔を浮かべながら、穣の母親が顔を出す。その後ろから、茶色い子猫がひょこりと顔を出した。小さな鈴のついた、赤い首輪をしている。見慣れない猫だ。幹太が宇宙に発ってから飼い始めたのだろうか。「あんたが出て行ってから家が静かなのよ、犬か鳥でも飼おうかしら」と言っていた、自分の母親の声が脳裏をよぎる。
「かんちゃん、どうしたの? お仕事はお休み?」
 穣の母親の取り繕ったような声に、幹太は僅かに目を伏せた。
「いや、仕事はあったんですけど、すっ飛んできました、……俺」
 何と言ったものか、と一瞬口ごもる。
「……あいつから、……おじさんとおばさんを頼むって、言われてるんで」
 ――俺に何かあったら、その時は親父とおふくろを頼むな。
 穣の、ほんの少しだけ陰りを見せた笑みが思い出される。前半を端折ったのは、わざとだ。それでも何かが伝わったのか、穣の母親の顔が見る間に歪む。その両手が白い封筒を握り締めているのが、幹太の目に入った。胃の奥が途端に冷たくなる。奥から電話を持ったままの穣の父親が出てきて、母親の肩を抱いた。子猫がその足元にすり寄っていく。小さな鈴の音と鼻をすする音が、吹き抜けの玄関に響いた。
「ありがとね、……ありがとね」
 震える声で繰り返す穣の母親に、何と声をかけて良いかわからなかった。
 自分はただ、一人になりたくなかっただけだ。真っ直ぐにアパートに帰っていたら、自分も引き出しの奥底に眠らせていた白い封筒を引っ張り出して、握り締めてしまうかもしれなかったからだ。
 かと言って、両親や彼女に縋り付きたくはなかった。自分と同じくらい――いや、自分以上に穣を思う相手と、時間を共有したかった。気づけば電車を乗り越し、家を通り過ぎて、ここに来ていた。
「ねえ、かんちゃん、あの子は――穣は、無事よね」
 ふいに耳に届いた声に、心臓を揺さぶられるような衝撃が走った。
「母さん」
 穣の父親が、たしなめるように声をかける。しかしその言葉尻が、かすかに震えているように幹太には聞こえた。
「穣ね、絶対に帰ってくるって言っていたから、それをね、信じてやりたいんだけれどね、……」
 あとは言葉にならないまま、白い封筒を抱きしめるように、穣の母親が体を縮こまらせる。
「……大丈夫、大丈夫だよ、おばさん」
 それは半ば、自分に言い聞かせたようなものだった。
「ほら、通信用の機械がちょっと壊れたとかでさ。たぶん、珍しく手間取っているだけだろうから。すごい仲間達と一緒なんだし」
 経歴も華やかな、フロンス号のクルーたち。彼らと笑顔で会話を交わしていたテレビの中の穣を思い出し、同時に今の自分を思い起こして、きゅっと胃が熱くなる。
「……とりあえず、落ち着いて、普段通りにしていましょうよ。こっちが動揺していたら、穣も落ち着かないって」
「…………そうね」
 もう一度鈴の音が聞こえた。穣の父親が神妙な面持ちで、母親の肩を数度叩いている。
「あの子が宇宙に行くって決めた時からね、覚悟はしてきたつもりだったんだけど。やっぱり、いざとなると、だめね」
 穣の母親が顔を拭い、くしゃくしゃになった封筒を靴箱の上に置いた。封はまだ開けられていない。筆ペンで書かれた表の二文字を見ないように、幹太は猫へと視線を落とした。
「毎週ね、専用の回線を使わせてもらって、穣にメールを送っているの。今日は何があったとか、ミー子がこんなことをしたとか、……そういうのを、ね。あっちで見られているかわからないけれど、たぶん、どこかには届いているはずだから。明日も、送ろうと思ってたんだけれど」
 言いながら穣の母親が、子猫を抱き上げた。小さな鳴き声が上がる。向けられた子猫のまっすぐな視線に、心の奥底に横たわる拭いきれない恐怖を見透かされそうで、幹太は努めて明るい声を出した。
「うん、送りなよ、おばさん。あいつ、絶対に読みたがるから。猫、好きだし。こっちは元気だ、ってさ」
 穣の母親が顔を上げ、困ったような笑みを見せる。
「そうすりゃあいつ、絶対、元気に帰ってくるから」
小さく子猫が鳴いた。腕の中から逃れると軽やかに飛び降り、丸い瞳で人間たちを見上げる。表情と心の中が違う、と目で訴えられているような気がした。
 そんな目で見ないでくれ。
 子猫を見つめ返すと、ふいと視線が逸らされた。尻尾を揺らしながら奥へと歩き去る子猫の背を見ながら、心の中で空へと叫ぶ。

 ――俺も、たぶんおばさんも、嘘を吐く気はないからな。お前も絶対、嘘を吐くんじゃねぇぞ、穣。


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サークル名:うずらや。(URL
執筆者名:轂 冴凪

一言アピール
合同サークル「うずらやの小金目創庫」より、うずら一匹で飛び出してきました。個人サークルとしては初参加です。うずらハートが炸裂しそうです。
普段は短編すぺーすふぁんたじぃを中心に書いております。テキレボアンソロに寄せる穣と幹太シリーズは今回で4作品目ですが、毎回読み切りとなっております。

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