聖ヴァレンティヌス卿の祝祭
「ねえ、バレンタインってなんの日か知ってる?」
ぽろ、とぼくがかじりつこうとしていたサンドイッチから卵のかけらが落ちた。
このエロ研究員は何を言っているんだろうか。
「こほん……失礼ですが、吉川先生。女性であるあなたにとっては非常に大事な日でしょうし、それに乗じて何かしようというのは勝手ですけれど」
「なぁんだ、田之上くんは祭りは嫌いなのね」
「いえ、そんなことは」
「じゃあ答えて?」
吉川美奈。ぼくの先輩。研究員。科学者のくせに歴史に詳しい。変にイベントが好き。
そして、エロい。
ナイスボディという言葉以上に攻撃的なその背格好と、彼女のそばに寄るとふんわりと香る香水の甘い香り。長く伸ばされた黒髪は清純に背中に垂らされている。
その明るい姿に呼ばれる「蛾」は多く、毎夜の如く飲み屋街に消えていく姿が目撃されている。
事実、その技術は高いのだ、とか。
「それよりもですね、ぼくたちは次の論文のぉ」
「なーに言ってんのよ! バレンタインほど女の子にとって大事な日はないのよっ」
「そうかもしれませんけどね」
ぼくはこれ以上、口を出してしまう前にさっさとサンドイッチを食べ終わってしまおうと試み、コンビニで売っていた玉子サンドをぱくついた。
「残念だなー、私としては残念だなー、田之上くんに私の雑学を披露できないのは本当に残念だなー」
「むぐ……と、まっへくだは……ん、く」
「はい、コーヒー」
「んぐ」
喉につまりかけた絶妙のタイミングを見計らって、吉川先生はぼくにコーヒーを差し出した。
「私の母乳要りよ」
「ごぶっがっ」
この人は何を言っているんだ?
「さっすがに嘘だって。あ、でもご祝儀もらえるなら嫌じゃないかな」
「そんな下心で旦那と子供を作らないでください」
「はーい。わかったよぅ」
吉川先生はぷうっと頬を膨らませて、そっぽを向いた。しかしすぐに無邪気な笑顔をつくって、ぼくの方を向き直った。
「で、で、で。バレンタインってなんの日か知ってる?」
「この研究室で一番モテないと噂されるぼくへのあてつけですか」
「この研究室で一番モテないと噂される田之上くんへの『質問』よ」
まあ、確かにモテないけどさあ。
「バレンタインねぇ」
ぼくはこれまで人生で過ごしてきたバレンタインデーのことを思い出す。
「恋人たちを射殺する妄想を捗らせる日ですかね」
「どうしてそんなひんまがったことになるのよ」
吉川先生はがっくりと肩を落として苦笑いを浮かべた。
「いいわ、じゃあ教えてあげる」
「はぁ」
「バレンタイン、って言葉の起源は『聖ヴァレンティヌス卿』って人の名前なの。この人が、日本でいうチョコレートの日に繋がるにはなかなかずる賢い戦法があるのよ」
「聖人なのにずる賢い、ですか」
「そう。なんだと思う?」
「いや……わかんないですけど」
ぼくはサンドイッチを無事食べ終わり、デザート代わりに買っておいたチョコレートバーに手を伸ばした。
それをさっと、まさにトンビに油揚げという表現がぴったりな動作で吉川先生がひっつかんでぼくから遠ざける。
「ヴァレンティヌスはね、聖人にあるまじき行動を起こすの。キリスト教では、同性愛はご法度。今でいうLGBTの人々は迫害されて、祝福されることなんかなかったの」
「いや、それ返してくださいよ」
「ところがヴァレンティヌスは、そんな迫害されるべき恋人たちのことすらも祝福した。どんな形のものであれ、愛は大切にするべきものだ、ってね」
「返して、ください、ってば」
すらすらと説明しながら、ぼくの手にチョコレートバーが戻らないようにひらひらと左右に手を振り続ける吉川先生。実に器用なもんだ。ぼくはお腹を満たしたいだけなんだけど。
「そうしてとうとう!」
だん! と音を立てて吉川先生は悲劇的な感じのポーズを決め、次を語る。
「教会の教えに背いたヴァレンティヌスは処刑されてしまうのです! おお、なんという悲劇!」
「あの、チョコバー溶けちゃうんですけど」
「しかし、恋人たちは彼の悲劇を悲しみのまま終わらせなかったの」
ぎゅ、っとチョコレートバーが吉川先生の手の中で包み紙を歪ませる。
「恋人たちはね、彼の悲劇を悼み、彼の処刑日を『恋人たちの日』として風土に根差したの。それがいずれ、文化となり、町をわたり、国をわたり、日本にまで到達したってわけ」
「なるほど……で、チョコレー」
「で、どうしてチョコレーとなのかっていうとね」
ぼくの言葉が完全に無視されている。
「でね、ここからがずる賢いのよ。日本にヴァレンティヌスの名を伝えたのは戦後の某お菓子メーカーなの。そのお菓子メーカーが恋人たちの日を、『普段は告白しづらい女性からアプローチをかけられる日』兼『アプローチとしてチョコレーとを贈る日』にしちゃったってわけ」
「なるほど」
ぼくはチョコレートバーを取り戻すのを諦めて机の上のビニールをかき集め、ゴミ箱に放り込んだ。一口、コーヒーをすする。
さて、何がぼくに関係あるんだろうか。
「ってことで、はいっ!」
「…………はい?」
「聖ヴァレンティヌスの名を借りて、田之上くんにチョコレートをおくりましょー」
「それぼくが買ってきたやつですよね!?」
それに、包装紙はよれっとしているし、見た目からも中身が若干溶け出していることがわかる。
「…………だめ?」
「だめも何もですよっ! しかも今日は十月だし、ていうかっ」
「だって」
――――ぎゅ、っと。
ぼくの頭が何かに包まれた。柔らかくて、あたたかくて、ふわりとした何か。良い、香り。記憶に残る幼い頃の優しさをくすぐるような、香り。
それが何を意味するのか。
「好きになっちゃったんだもん。だめ?」
静止した。世界が、時間を止めた。このままでいてもいいのだろうか。
幸せな時間だと、言っていい。吉川先生に身を任せてしまおうか、この、胸に、おっぱいに……おっぱい!?
「何をしてるんですかぁあああああああああああああああああああああ!?」
ぼくは思わず絶叫し、吉川先生から思いきり距離を取った。
ぜえぜえと鳴る呼吸をどうにか落ち着ける。
「え? 恋人への、あ・ぷ・ろ・お・ち」
「うるせえええええ!!」
「きゃー」
そうして、吉川先生はチョコレートバーをぽいと投げ捨てて研究室の外に逃げていった。
「はぁ、はぁ、はぁ……はーぁー……あんなふざけた告白じゃなくて、いいのになぁ」
ぼくだって、吉川先生に想いを寄せるくらいいいだろう。
だから、ヴァレンティヌス卿。そのときはお世話になります。
それはともかく、男の性として。
「……おっぱい、気持ちよかったな」
サークル名:匣mania(URL)
執筆者名:金森 璋一言アピール
匣maniaは楽しみ楽しめるコンテンツを作り出すべく結集したサークルです。テキスト以外でも活動しています。
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