1989年のピクニック
草原の真ん中に設けられた小さな演台の上で、夏の日差しをうけて目映いばかりの白いスーツ姿の女性が、聴衆に語りかけていた。
「いま、東と西の境が開き、おなじヨーロッパの人たちがひとつの共同体をこの草原に創ろうとしています」
拍手が湧いた。
オーストリアと国境を接する、ハンガリー西部ショプロン。
この集会は、水面下ではハンガリー政府改革派要人の強い支持を受けていた。
しかし集会が体制に対して危険なものと見なされれば、政府は保守派の意向を
それゆえ演説の内容は当たり障りなく、拍手も歓声も控えめではあった。
それでも参加者の表情は、抑えきれない喜びと誇りに輝いている。
草原は、半世紀にわたり鉄条網でハンガリー側とオーストリア側、ふたつに分断されている。
否……分断されていた。
かつてイギリス首相チャーチルをして『鉄のカーテン』と呼称された鉄条網は、いまや有刺鉄線が断ち切られている。
用をなさなくなった鉄条網のそばで、ハンガリー国境管理官がオーストリアの人々にパスポートの提示を求めているが、それだけだった。
なんの嫌がらせも受けずにパスポートの確認を済ませた人々が、続々とハンガリー側に越境してきている。
肉の焼ける良い匂いが、風に乗って参加者たちの鼻腔をくすぐる。
ほどなくビールの樽が開栓された。
ブラスバンドが陽気な音楽を奏で始める。
演目はチロル地方やハンガリーの民謡だ。
ハンガリーの娘が越境してきたオーストリアの青年の手を取って踊り出した。
オーストリアの老婦人が、ハンガリーの少年を抱きしめる。
酒杯が参加者たちに手渡され、あちこちで乾杯の音頭があがった。
「ようこそ、オーストリアへって言うべきなのかしら?」
鉄条網のむこう、オーストリア側に立ち、純白の日傘を差した娘が、ハンガリー側から越境してきた青年に声を掛けた。
集会から酒宴へと移り変わりつつある喧噪から、わずかに離れた場所。
娘の歳の頃は二十歳を越えぬあたり。
月光冴え渡る夜の色をした瞳、絹の如き白い肌。
ところどころに混じる金髪が、豊かな巻き毛を飾る金細工のようにも見える濃い茶の髪。
身を包むドレスは淡い緑のクリスチャン・ディオールのオートクチュールだ。
瀟洒なレースで飾られた肘丈の長手袋が、どこか前世紀趣味であった。
対して、声を掛けられた青年は、端正でありながらも野性味のある鷲の如き顔立ちをしていた。
東側製の野暮ったい濃灰のスーツに身を包んでいても、その体躯は普通の市民には見えない。
現役の軍関係者なのだろうか。しかし、彼のたたずまいから滲む気配は、『戦士』と表現するにふさわしい。
「今も昔も、越えられぬ国境など、珍しくもなかろう。しかし……オーストリアに足を踏み入れるのはたしかに久しく無かったな」
「そうよ。記憶違いでなければ、イギリスのあの件以来ね。百年ぶりかしら?」
冗談めかした口ぶりで、娘は小首を傾げて見せた。
青年は娘の問いには応えない。
ただ、薄く笑って見せるのみ。
「それはそうとこの集会の主催……ハプスブルクとあるが、本当なのかね?」
青年はスーツの胸ポケットから折りたたんだ紙を一枚取り出し、広げてみせた。
ドイツ語で書かれたそのちらしには、たしかに「主催オットー・ハプスブルク」とある。
「本当よ。もう皇帝でもなければ領地も持っていないけれど。ほら、さっき演台で挨拶してた彼女、娘のひとりよ」
「地位を追われても帝国の行く末を想う、か。フランツ・ヨゼフの
「オーストリアじゃ『フォン』だって公称できないのにね。パスポートにだってマーカラ・カルンスタインとしか書けないの。たかが貴族称、されど貴族称よ。実際に省かれると屈辱以外のなにものでもないわ」
「気に病むな。私など、ゆかりの城を共産党とやらに没収されたのだぞ?」
青年はわずかに唇をゆがめて、そう言った。
「だが、すべては百年のうつろいに過ぎぬ。永生を持たず、全智にはほど遠い人間に、永遠の支配など不可能だ」
「貴方のそういう達観したところ、厭味だわよ」
歳の頃に見合った仕草で、娘はむくれたようにそっぽを向いて見せた。
「今日はなにしに来たの? ルーマニアは出国しにくいでしょう?」
ややあって、娘が問うた。
「今日、なにが起こるのか、確かめに」
意味深長な表情をして、青年が答えた。
ブラスバンドの演奏に合わせ、手に手を取って踊り、あるいはビールを片手に談笑する人混みに紛れながら、ふたりは歩いている。
時折、目が合った人々と当たり障りのない挨拶を交わし合っていても、踊るでもなく、食べ物にも飲み物にも興味を示すことのないふたりは、すこしばかり周囲から浮いて見える。
「なら、もうすぐ分かるわ」
青年の言わんとするところが、娘には通じたようだ。
娘はふと、興味を青年のスーツのポケットに移した。
大判の手帳が頭を覗かせている。
娘は青年の不意を突いて、手帳を強引に引っ張り出した。
手帳はポーランド発行のパスポートだ。
開いたページ、証明写真の青年は、パスポートの所有者に似てはいるが、注意深く見れば別人だった。
「できが悪いわね」
「急いだのでね。写真の身代わりを用意するのには毎回、手を焼く。鏡に映らぬせいで、面倒なことだ」
艶然と娘が微笑み、パスポートを返した。
「写真はともかく、名前が素敵だわ」
「悪いかね? パスポートは真っ赤な偽物だが、偽名ではないぞ」
「国境管理官にそれを見せていたのかと思うと、
「あれは西側の書物だ。東での知名度はさほど高くない……いまのところは」
感情の色の薄い声音で青年が言ったとき、不意に歓声が沸いた。
集会に集う人々の声ではない。
すこし離れた場所から聞こえてくる、その雄叫びのような喜びの声は、草原の空を揺るがせる。
目を遣ると、遠くに草原を駆け抜ける人々の姿が見えた。
ハンガリー国境を越え、オーストリアへ走り込んでゆく数百人の人々。
西ドイツをめざす東ドイツの人々。
そう……これがこの集会の真の目的だった。
改革開放を望むハンガリー政府を監視するソ連や東ドイツの目を
気がつかぬはずはないのに、ハンガリー国境管理官は、走る人々の姿を見ない。
背を向けたまま、のんびりとオーストリアからやってくる人々のパスポートを確認する業務に専念している。
集会に集う人々もまた、素知らぬふりをしながら、それまでと同じように踊り、談笑していた。
目に、涙を浮かべながら。
長く閉ざされた時代が、いま、開かれたのだと。
「どう? 見たいものは見られて?」
娘が問うた。
「……充分だ。時代が動く。血の祝祭が始まろう」
まなざしを遠く、走り去る人々の群れより、まだ遙か先に向けて、青年はうっそりと笑う。
「長生きはするものですな」
白い髭を蓄えた
古ぼけてはいたが仕立ての良いスーツをきっちりと着込んでいる。
老いのせいか酔いのためか、足許の
「それはそうと、
老人は手にポーランドのパスポートを持っていた。
どうやらポケットにしまい直したつもりで、落としていたらしい。
「なんとも遠方からのお客のようですが、どうです? 楽しめておりますかな?」
やはり酔いが回っているのか
「ヴラディスラウス・ドラクリヤ……古風なお名前ですな。今風に綴ればヴラド・ドラキュラ……ですかな。百年ほど前に出版された小説に、そんな題名のものがありましたぞ。これでも大学でイギリス文学を教えておりましてな。東では流行らない学科のせいで暇をかこっておりますが」
「昔、オスマン帝国と戦った男の名なのです。気に入っておりますよ」
青年はそつのない笑みを浮かべ、老人からパスポートを受け取った。
「ほほう……それは誇らしい」
「ええ、まったく。それはそうとご老体、今日は、本当に来た甲斐がありました」
青年のその言葉で、老人の顔がぱっと明るく輝いた。
「分かりますかな、ドラクリヤ殿! 我々はこの日をどれだけ夢見ていたことか! 進みますぞ! 今日の先へ、その先へ! ”
老紳士は
「いやはや……
老人が気恥ずかしげに立ち去った後も、遠くの歓声は続いていた。
まさにピクニック日和の夏の昼下がり。ブラスバンドは宴もたけなわと古いハンガリー舞曲を奏で始める。
「どうかね?」
青年は娘に手を差し伸べた。
「いいわね」
娘は青年の手を取った。
草原を吹き渡る風のように軽やかな足取りで、ふたりはいにしえの舞踏を踊りだす。
踊りに加わる人々の輪が、ひときわ大きくなった。
西暦1989年8月19日ハンガリー人民共和国のショプロン。
そこで開催された『汎ヨーロッパ・ピクニック』。
それは、ベルリンの壁を打ち壊し、ルーマニアの独裁者を銃殺し、ソビエト社会主義共和国連邦を瓦解させた、ひとつの時代を葬る祭の始まりであった。
希望を胸に自由への扉を抜けてきた人々を、資本主義の狂奔に駆り立てる熱夢の祝祭の始まりであったのだ……。
サークル名:バイロン本社(URL)
執筆者名:宮田 秩早(たこやきいちご)一言アピール
異世界ファンタジー、中世から近世ヨーロッパを舞台にした小説を発行しています。
すべて吸血鬼小説。小説以外で吸血鬼映画のカタログ本も発行します。今回の作品の登場人物たちは、アンソロジー「Crimson Regalia吸血鬼作品集」にも登場しています。