特別な一枚を

「篠田君まだ? このままじゃ授業時間終わっちゃう」
 ぜいぜい息を切らしながら、私は同じ言葉を繰り返した。首から提げたカメラが重い。デート用を意識した服は汗まみれだ。悩んだ末にスニーカーにしておいてよかった。これじゃあピクニックじゃなくて山登りだ。
「大丈夫、もうすぐだから」
 篠田君は振り返らずに答える。ひょろっとしたジャージの背中に文句を言いたくなるのを、私は堪えた。まさか恋愛の授業でこんなことになるとは思わなかった。十二歳になってもいっこうに背が伸びない私の足では、すぐに篠田君に置いていかれるし。
 恋愛教育が始まったのは、私が小学校に入った年だ。正しい恋愛を子どもたちに教えなければという意見が強くなって、授業に取り入れられるようになった。先生はそう説明した。私も三年生くらいまでは別に苦痛じゃなかった。外に出られるのが楽しかったくらいだ。
「もうちょっとの我慢。今年で終わりだから」
 リュックを背負い直して、私は魔法の言葉を呟く。この授業が嫌になったのはいつからだろう。友達が「牧野君と当たったらいいなぁ」と話し出してから? 誰かが「小野坂と組んだら最悪」って言ってるのを耳にしてから? 先生に勝手に決められる組み合わせに、皆は一喜一憂する。その流れについていけなくなった。
「恋愛なんて知らなくてもいいのに」
 デートプランを考えましょう。そして実践してみましょう。笑顔の先生の言葉が頭をよぎる。
 本当の恋愛って何だろう。漫画で読む物語も、先生が語る理想像も、どちらもぴんとこなかった。靄のようなそれを目指してプランを立てるなんて無理だ。篠田君も同じだったのかどうかはわからないけど、私たちはかなり悩んだ結果、ようやくピクニックを選択した。誰にも会わずにすむのが一番だ。恋愛の授業で外に出ると、大人たちは皆にやにやと私たちを見る。
「前園、見えたぞ!」
 と、そこで篠田君が急に大きな声を上げた。はっと顔を上げた私はすぐに早足になる。もう少しだと思うと力が湧いてくるのは漫画と同じだ。
「ほら」
 小道が途切れると原っぱがある。その先に、私たちの町が見えた。
「わー」
 日差しを浴びて輝く赤い屋根、白い壁。遠くに見える川面の輝き。その背後、うっすらとわかる山々には白雲がかかっている。ついついカメラを持つ手に力が入った。
 この登山がデートに相応しいかはともかく、写真好きな私の心をぐらぐら揺さぶる景色だ。確かに私の希望通りだ。
「言った通りだろ?」
「すごいすごい、三角山からでもこんな景色が見れるんだ。篠田君物知りー」
 でも予習通りに褒めたのに、篠田君は気のない返事をした。ちらと横目に見れば、篠田君はどこか遠くを見つめていた。私はため息がこぼれそうになるのをどうにか飲み込む。
『篠田君と? それ最悪じゃん』
 つい、みかのちゃんの言葉を思い出してしまった。いつもぶっきらぼうで女子と話をするのを極力避けている篠田君は、男子の中でも浮いていた。お父さんがいないとかで貧乏らしく、遊びに誘っても断られることが多い。先生を困らせることもないけれど、一緒にいると息が詰まる。そういうタイプの人だ。
 でも他人事にはできない。私だって自分の好きなもの以外はどうでもいい、コミュニケーションが苦手な人間だ。一人で写真を撮りに行ったり、絵を描いたりする方が楽しい。皆は「クール」って言うけど、そんなかっこいいものじゃあなかった。
「ねえ篠田君」
 それでもずっと無言のままというのはデートとしてはまずい。これは授業なんだからと自分に言い聞かせつつ、私は声を掛けた。そしてそっと篠田君の傍に寄った。何かあるんだろうか? 篠田君は町ではなく隣の山の麓の辺りを見つめている。
「どうかしたの?」
 そう尋ねながら篠田君の視線を追いかけて、私は口をつぐんだ。そこにぽつりと、小さな白い建物が見えた。あれは、たぶん――教会?
「あれって……」
「結婚式場」
 ぱちぱちと瞬きをすると、篠田君は振り返らずに答えた。
「え、そうなんだ。よく知ってるね。すごい」
「別にすごくない。あそこで姉ちゃんがこの週末結婚するんだ――」
 そこまで口にしたところで、篠田君は突然はっとしたように顔を上げた。その横顔には「しまった」と書いてあった。
「篠田君、お姉ちゃんいたんだ」
「いて悪いかよ」
「悪くないよ。知らなかったからそう言っただけ。結婚するんだね。お祝いしなきゃ」
「……できないよ」
 篠田君の声が急にしぼんだ。何だか嬉しくないみたい。それがすごく不思議だった。
 結婚式は最大のハレの日だ。ハレとケについては、授業で教えてもらった。先生がよく強調していたところだ。普段の生活はケ。特別なお祭りごとがハレ。ケがなければハレは生まれない。ハレもケも大切にしましょうって。
 デートに大切なのはハレの心だ。いつもとは少しだけ違う、特別感の演出が大事。先生はそう熱弁していた。
「どうして?」
 ハレの日は思い切り楽しまなきゃ。ぴんとこなかったその教えが、カメラを手にするようになって理解できた。ハレの日の写真は本当に鮮やかだ。日々の何気ない写真の色合い、空気も大好きだけど、ハレの日のあの煌びやかな一瞬一瞬を切り取るのも言葉にならない。記憶に焼き付けるのとは別。普段意識していないものをフレームに収める、この感覚がたまらなかった。
 そのハレの集大成みたいな日に、お祝いできないなんて。
「うるさいな。どうだっていいだろ」
「そりゃあ、私は関係ないけど。でも篠田君は言いたそうな顔してる」
 私はじっと篠田君を見た。
 三角山を選んだのは篠田君だ。私たちはデートプランであれこれ相談して、一つずつ希望を言うことにした。私は写真が撮れるところを、篠田君はこの山を希望した。それはきっと、ここからあの式場を見たかったからに違いない。たぶん何度も来たんだろう。
「何だよそれ」
 篠田君は泣きそうな目をして唇を尖らせる。
 私は写真を撮るようになってから、人の顔をよく見るようになった。それまでは怖くてじっと見つめられなかったのに、カメラを通すと違った。それでようやく、ちょっとした変化に気づけるようになった。篠田君みたいなぶっきらぼうな人だって、少しずつ見せる顔が違う。
「……姉ちゃんを、母さんが許してないんだ」
 篠田君は諦めたように、もう一度結婚式場を見た。
「相手がバンドマン……っていうのか? だから駄目だって。姉ちゃんは自分が稼ぐからいいって言い張ったけど、納得しなくて、ずっと喧嘩してた」
「それは、なんというか」
 私は絶句する。結婚する際には生計の立て方、お互いの負担についても十分話しましょうって授業で習った。夢を追いかけて相手に負担をかけ続けるのは駄目ですとも言っていた。何となくわかるような気がする。篠田君のお母さんは離婚してるからますます心配なんだろう。
「家族を不幸にするような恋愛は駄目だって、授業で言ってただろ」
 ふいと篠田君が顔を上げる。その横顔はいつも見るものより大人びていた。
「あれは納得がいかない。オレは、姉ちゃんが間違ってるとは思ってない」
 そう言われればそんなことを言っていただろうか。篠田君もよく覚えている。
「何が間違ってるのかなんて私はわからないけど。でもそれでお祝いできないなんてことは、ないんじゃない?」
 恋愛なんてよく知らない。だから私にはうまく答えられない。でも二度と来ないだろう日を逃すのは変だ。篠田君とお姉さんは喧嘩してないのに。
「……母さんが許さない。だから姉さん、誰も呼ばずにひっそり挙式だけするんだって」
「うーん、そういうのは詳しくないんだけど」
 そこで私ははっとしてカメラを持ち上げた。そうだ、そのためのこれだ。
「お祝いするなら、必ずしも傍にいる必要はないんじゃない?」
 ここからでも、あの式場なら撮れる。顔までわかるとは思わないけれど、写すことはできる。ケータイとは違うんだ。
「外での挙式、今の流行だって聞いたよ。もしかしたら撮れるかも。お姉さんが写ってなくても、その時の教会を写して、おめでとうって言ってあげたら、きっと喜ぶよ」
 だってハレの日は空気が違う。何かが違う。それはきっとここからでも撮れる。間違いなかった。
「え……でもカメラなんて持ってない」
「貸してあげる」
「だ、だってそれ高い奴だろう?」
 篠田君は思いきり眼を見開いた。声も裏返った。篠田君にもそんな表情ができるって初めて知った。ちょっと子どもっぽい、可愛らしい顔だ。
「うん、誕生日に買ってもらったの。でもいいよ。篠田君は壊したりしないでしょ? せっかくの記念日、お祝いしなきゃ」
 いい写真が撮れるかもしれないのに、それを逃す方が悔しい。幸せになりたい人たちの大事な日の一枚は、きっと素敵なものになるに違いない。恋愛には詳しくなくても、それはわかる。
「……前園って、見かけによらずいい奴だな」
「篠田君は一言多いね。でも違うから。ただ写真が好きなだけなの」
 好きな物を広めたいと思うのは当然でしょう? 私は胸を張った。好きなことには一直線だなって親はよく苦笑する。自分でもそう思う。でもこれで篠田君が写真の良さに気づいてくれたら、ちょっと嬉しいかな。
「だから撮ったら見せて。プリントして篠田君にもあげる。お姉さんに送りなよ」
 私も嬉しい。篠田君も嬉しい。きっとお姉さんも嬉しい。いいことばかりのはずだ。私はそっと首から提げていたカメラを篠田君へと差し出した。
「ありがとう」
 不意に篠田君が笑った。私の心もふわっと軽くなった。同時に口元がむずむずとする。
 今日はケじゃない。ハレだ。でもこの特別感をどうやって報告したらいいんだろう。あんまり、皆の前では言いたくない。
「じゃ、使い方教えるね」
 今日の残りの時間はカメラ講座だ。この週末、篠田君にもとびきりの一枚が撮れますように。


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サークル名:藍色のモノローグ(URL
執筆者名:藍間真珠

一言アピール
普段は異世界を舞台としたファンタジー長編、ライトSFを中心に書いています。謎と陰謀、異能力アクション、愛憎、すれ違いが主ですが、今回はちょっとディストピアな近未来を舞台に思春期直前の少年少女のお話にしました。楽しんでいただけたら幸いです。

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