テレーゼの場合

 鬱蒼と茂る森の中単騎駆け抜けていく。
 馬の振動が体に堪える。手綱を握る無傷の左手まで麻痺してきた。意識は朦朧として視界は白くかすんでいるように感じた。
 自分はいったいどうしてこんなところにいるのか。何をしたいのか。どこへ向かっているのか。それにどんな意味があるのか。
 逃げたのか。
 それは男が何よりも嫌っていた行為だ。
 恐れなどないつもりであった。己が正義を貫けばいつか報われる。そうでなくとも生への執着などない、正直に生きた自分には天国が約束されている。
 だが、今の有り様はどうだろう。敵の攻勢に晒される自分の城に背を向けて森の中にいる。
 右肘からの流血が思考を奪っていったのかもしれない。否、きっとそうだ。普段の自分は理性的で冷静な人間なのだ。今は怪我のためにおかしくなっているに違いない。そうでなければひとり甲冑をまとったまま城から離れるのなどありえない。
 敵兵が投石で城壁を破壊しつつ丸太で城門を突き崩した。騎士団は壊滅した。
 正確には、騎士団は瓦解した、と言うべきかもしれない。
 騎士が全滅したわけではない。
 彼らの多数は城の死期を悟って自ら投降した。
 残りも今頃敵の軍門に下っているかもしれない。ゆくえをくらませた城主に怨嗟の声を吐きながらすすんで兜を脱いでいるかもしれない。
 いつの間にか森の奥まで来ていた。気がついたら、先ほどは遠くに見えていた尖塔が煉瓦造りの教会の壁に変わっていた。
 朽ちかけた教会であった。建国の祖である男の祖父が城下町の中心に大きな教会を建てて以来顧みられなくなった小さな教会だ。
 男は馬から降りた。
 苔生した壁を撫でた。手甲の下につけている黒い手袋が濡れた。
 もっと早く気がつくべきだったのかもしれない。
 民衆は率先して敵兵を町に招いていると聞いた。
 豪華絢爛な大教会はいつしか民衆のためのものとなり、自分たち一族はすでに無用の長物になっていたのかもしれない。その民衆たちがかの国の保護を求めている以上自分たち一族は滅びるべきかもしれない。
 傷のせいで気持ちまで弱ってきたとみた。
 立て直さなければならない。
 男はようやく休息を選択した。
 否、もしかしたら自分が認めていなかっただけで体は休息を欲していたのかもしれない。
 きっとそうだ。この自分が意味もなく逃げるなどありえない。
 もう一度戦うためだ。最期の一花を咲かせるためだ。
 少し休んだら城と枕をともにするため戻るのだ。
 教会の正面に回った。錆びた扉が見えてきた。
 もはや右腕は動かなかった。左手だけで扉を押し開けた。
 まず目に入ってきたのは光であった。赤や青や黄の光が――明るい、まばゆい光が、硝子の装飾窓から教会の中に差し入っている。技術の古い、厚く曇った硝子の窓であったが、天井近くから陽の光を取り込んで石の床を照らすさまは神の到来を思わせた。素朴さが純粋さを想起させ、大教会の薔薇窓よりずっと神々しく感じられた。
 幼い頃父に連れられて農村に出向いた日のことを思い出した。誰も彼もが坊ちゃま、次期領主さまと自分を仰いでいた。自分の気持ちは今もあの幼少期にあるのかもしれない。だから疎まれていることに気づかなかったのだろうか。
 優しい光はいくら月日を経ても変わらない。
 神に近づきたくて、木製の椅子の間を歩き始めた。
 その時であった。
 祭壇の前に誰かがいる。
 その人物が立ち上がるまで、男は人がいることにも気がついていなかった。油断もいいところだ。よほど身体が疲労しているようだ。
 相手の顔が見えると、男は目を丸くした。
 妻のテレーゼであった。
「なぜお前がここに」
 男は動揺して立ち止まった。だが、彼女は顔色一つ変えなかった。腹の前で両手の指を組み合わせ、静かに男を見つめているだけだ。
 本当に人間なのかいぶかしんでしまうほど、彼女は落ち着いて見えた。亡霊なのではないか。彼女の肉体はあの城ですでに息絶えているのではないか。空からすべてを見たからこんな穏やかな表情でいられるのではないか。
 ややして、彼女は口を開いた。
「城に何かあった時、けして敵の手に落ちて人質になることのないよう、城の地下道を通って森に出なさい、とお母上様に言われておりました」
 確かに、城には森へ通じる秘密の地下道がある。城内を探索すればすぐに暴かれるであろう通路ではあったが、城主の妻子が城下町へ逃れる程度の時間は稼げるものだ。
 男は知らなかった。彼女は生前の母とどんなやり取りをしていたのだろう。他にも何か教わっているのだろうか。
 そもそも、彼女はこんな女だっただろうか。こんな、有事にも落ち着いて行動のできる、理性的で冷静な女だっただろうか。
 かと言って落ち着きのない印象もない。
 というより、印象がない。
 ただ、主君から下賜されただけの妻である。
 結婚から早十年、自分は彼女の顔をあまりよく見てこなかった。見せびらかすだけで満足していた。彼女の血筋と容貌が財産で、彼女の人柄を尊んでそうしていたわけではない。会話もろくにしたことがない。黙って自分の隣に座らせているだけであった。
 彼女との思い出は大教会での結婚式だけだ。
 城から大教会へ通じる道には白い花びらが撒かれていた。ひとびとが詰め寄せ教会の内外がいっぱいになって歓声が城下町を包んでいた。教会の内部には薔薇窓からの華やかな光が満ちていた。花嫁は若く美しく人一倍可憐で連れていて気分が良くなる姫君に見えた。
 城下町のすべての人が祝福している。神の加護もある。本気でそう思った。
 あの日が自分の人生の絶頂だった。世界のすべてが自分の味方をしていると思った。
 幸せだった。
 今や誰もいない。ここには自分と彼女の二人だけだ。
 あの祝祭の日は花嫁衣裳を着ていた彼女は、今、褐色の旅装に身を包んでいる。
 乱戦の中でも落ち着いて着替えるだけの度量は持っているということか。
 それに引き替え訳も分からずここまで一人走ってきた自分は――男は苦笑した。実は、この妻より自分の方がよっぽど不出来なのかもしれない。
「お怪我、なさっているのですね」
 彼女が抑えた声で言う。
「手当ていたしましょう」
「できるのか」
「多少の心得はあります。騎士の妻ですから」
 初めて、彼女を頼もしいと思った。
「なあ、テレーゼ」
 この妻が貴重な女であったことを思い知らされる。
「なぜここまで逃げてきた? 投降することは考えなかったのか」
 どこに行っても尊重されるであろうことが想像できる。
「お前なら――城を攻めてきたのは、お前の父上なのだから。できた娘を取り返そうと思ったかもしれない」
 尊重してこなかった自分が攻め滅ぼされても仕方がない気がしてくる。
 彼女は笑った。けれどけして下品な笑い方ではなかった。口角を上げ、目を細め、声を出さずに笑顔を作った。
「本当にできた女だとお思いなら、敵になど譲りたくないとおおせになるでしょうに」
「俺には過ぎた妻だったのかもしれん。もったいない財産だった」
 次の時だった。
 彼女の灰青の瞳から、ひとしずく、透明な水がこぼれた。
「もう少し、」
 ふたしずく、みしずくと、頬へ落ちていった。
「もう少し早くそうおっしゃってくださったなら、こんなことになる前に私が父に取りなしましたのに」
 男にはその涙を拭うことができない。拭い方を知らない。そんなふうに優しく彼女に触れたことがない。
「お前だけは、今からでも、引き返せる。俺をここに見捨てて戻れば、俺などよりもっといい男と再婚できるかもしれん」
 彼女は首を横に振った。
 そして笑った。
 しかし、今まで彼女と向き合ってこなかった男には、その笑みの真意を察することはできないのだ。
「私を、夫を見殺しにした女にするおつもりですか」
 「存外諦めが早いのですね」と、彼女が笑う。
「もし、本当に私を財産だと思ってくださるのなら。私を連れて遠くへ逃げてください。どこまでも、どこまでも、ともに逃げましょう」
 そして彼女の頬をまた新しい涙が伝う。
「私は知っています。貴方がどれほど高潔な意志をもっているか。どれほど国の安寧を願っていたか。どれほど信仰に熱心で、どれほど目標に一途で、どれほど一生懸命働いてきたか。貴方は私が見ていたことなどご存知ないかもしれませんが、私は知っているのです」
 「妻ですから」と言う声が初めて震えた。
「父が何ですか。家臣である貴方の信頼を裏切り、嫁に行った娘の私がどうなってもいいと思って石を投げているのです。そんな男との同盟が破綻したくらいで、貴方の生きてきた道を否定することなどありません」
 また、首を横に振る。
「私は、」
 そのさまはとても美しく、光に照らされた姿はまるで聖母のようで、
「この十年、貴方の財産であれたことを、幸福に思っているのですよ」
 男は、深く、息を吐いた。
 この十年、自分が愚かだったのだ。
「俺には、もう、何もない」
 喝采する人々も、壮麗な大教会も、守ってくれる城壁も騎士団もない。十年前の結婚式の日のような祝祭の日はきっともうない。
「どこに行っても、誰からも祝福されないかもしれない。……それでも、いいのか?」
 彼女は、頷いた。
「二人から始めましょう。貴方が、私を貴方の唯一の財産として認めてくださるなら、の話ですけれどね」
 椅子と椅子の間の通路を歩いた。かつては花嫁が歩いたであろう道を男は辿った。一歩ずつ、一歩ずつ、踏み締めた。
 祭壇の前で妻が待っている。
 誰一人見ていなくても、
「では、」
 誓いの口づけを交わした。
「永遠を、ともに」
 今日こそ本当の二人の門出の日だ。
 光はなおも降り注ぎ続けている。


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サークル名:イノセントフラワァ(URL
執筆者名:清森夏子

一言アピール
清森夏子(NH:SHASHA)の一人楽しいサークル。魔法や人外が出てこない歴史小説風のファンタジーを書きます。「結婚から始まる恋があってもいい」と「家族の形はひとつではない」がモットーです。政略結婚をテーマに中世ドイツっぽい雰囲気の短編を集めた作品集、通称:一人政略結婚アンソロを頒布します。

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