針祭文
「今日も木槿の花が満開ね」
随所にこの花が見られるため木槿国と呼ばれているこの国の大妃殿で青郁は宮女として働いている。
勤務を終えて中庭の槿の花を眺めながら自身の宿所に戻ったところ、いつもなら戸を開けるや否や「お帰りなさいませ、青郁さま」と跳び付いて来る彼女付きの端女・子玉が座ったまま動こうとしない。
「どうしたの、子玉」
青郁は隣に座ると彼女の肩に腕をまわしながら訊ねた
「針が……青郁さまに頂いた針が折れてしまったのです」
今にも泣き出しそうな声で答えた子玉の膝には繕い物と折れた針が載っていた。
「随分長く使ったものねぇ。もう十分にお勤めを果たしたわ」
青郁は折れた針の片割れを手に取った。
「使い易くて、とても気に入っていたので大事にしていたのに…」
あまりに悲しげに子玉が嘆くので青郁は
「だったら針子(縫い針)のお弔いをしよう。長い間働き続けたことに慰労と感謝の意を込めてね」
と提案した。
「そうですね」
子玉の表情が僅かだがようやく晴れてきた。
「では、まず針子を布で包んで…」
青郁が言うと子玉は折れた針を端切れで丁寧に包んだ。
これを見届けると青郁は机上に紙を広げ
「針子のための祭文を書くわね」
と言いながら筆を執り、流麗な宮体で文字を書き始めた。
維歳次某年某月某日、婢子某氏が謹んで針子君に申し上げます。
針は世の女人たちにとって必要不可欠というのに尊重するものはほとんどおりません。そうした物に対しても情を感じるのは生まれ持った性質ゆえかもしれません。
汝を手にして幾年月、どうして情が移らぬものでしょう。悲しみにあふれる涙を今は留め置き、心を落ち着かせて我が思いを述べることにより永訣といたしましょう。
かつて内人(宮女のこと。ここでは青郁を指す)某氏の父の大監が唐の都に行かれし際、針数包を入手し、内人の母に贈られました。その一部を内人が譲り受け、そののち内人より我が手中に至りました。
汝は我が手に馴染み、縫い仕事は頗る捗りました。この間、我が手元には多くの針が来たりては逸しましたが、ただ汝のみはこうして残りました。深き縁で結ばれしゆえなのでしょう。
我は貧しき身ゆえ、汝に生活の糧を託し、支えられてきました。そんな我が身にとりて汝は分身のごとき存在であり、生涯を共に過ごす心算でした。なのに、このように別るる事になろうとは…。
汝と我のこうした睦まじき仲を鬼神は猜疑し、また天の恨みを買ったのでしょうか。
惜しきかな針子君、哀しきかな針子君。
銀色に輝く優美なその姿は硬質の金属とは思えず、その才知は神妙なものでした。汝により綾羅や緋緞の上に孔雀や牡丹が見事に描き出され、我が技量も評価されました。汝無しで拙き我が技能をどうして発揮出来ましょうか! 汝と我はこれから先百年、喜怒哀楽を分かちたきものを。嗚呼、針子君よ。
今年七月初十日戌時に、薄明き灯火の下にて厚地の上衣を一心に縫いし時、にわかに折れてしまいしゆえ、どうして驚愕せずにおれましょう。嗚呼、針子君よ、壊れてしまった針子君よ。驚きのあまり我が意識は遠退き、魂魄は散乱し、心は奪われ、頭骨が壊れる程に気塞昏絶せしが、ようやく意識を取り戻し、汝と向かいしところ、虚しきかな、
我が不注意によりて罪無き汝の生命を終らせてしまいしは、伯仁の由我而死の如くであり、誰を怨み誰を咎めましょう。
汝は物ではあるが、もし無心ならぬなら、後世にて再度出会いし時は、共に暮らせしことを思い出し、百年の苦楽を共にし、生死も共にいたしましょう。
「出来たわ。読んでみて」
青郁は書き上げた紙を子玉に渡した。黙読し始めた子玉の顔が緩み始めた。
「少し大げさではありませんか? それに難しい言葉が多くて…」
「いいのよ、こうした文章は難語を使い表現を誇張した方が有り難味があるのよ」
青郁は悪戯っぽく笑った。
「さて、針子の永訣式をしましょう」
こう言うと青郁は机上の筆記道具を片付け、部屋にあった果物を飾り祭壇を作り始めた。子玉は外に出て木槿を始めとする何種類かの花を摘んできた。果物と花をきれいに並べ、中央に端切れで包んだ針子を置いた。
二人は机の前に並んで座ると、まず平伏した。続いて、子玉が祭文を読み始めた。
―いつ聞いても子玉の声は可愛い。小鳥がさえずっているみたい。
青郁は愛しげに子玉の横顔を眺めている。だが、子玉は祭文を読むのに一生懸命で注がれる眼差しに気が付かなかった。一字一字間違えないようにしなければならないのだから。
祭文の朗詠が終ると
「次は針子を埋葬しましょう。あの桃の木の下がいいわね」
そこは二人にとって大切な場所だった。
針子を手に二人は部屋を出た。途中で子玉は
「青郁さま、少し待っていて下さい」
と言ってどこかへ走っていった。まもなく、移植ごてを手に戻ってきた。
「これは必需品ね」
青郁は微笑んだ。
周囲は暗くなり始めた。急がなくてはと二人は歩みを速めた。
目的の場所に着くと子玉は素早く地面を掘り、青郁が手にしていた針子の包みをそこに安置した。子玉が土を被せると埋葬は終わりである。二人はその場で手を合わせ針子の冥福を祈った。
部屋に戻る道すがら子玉は
「先程は大げさだと思った祭文ですが、実際に声を出して読んでみると素敵な文章でした。私が死んだ時にも青郁さまが祭文を書いて下さい」
と言うと
「何言っているの。私たちは百年の苦楽を共にし、死ぬ時も一緒だと誓ったじゃないの、忘れたの」
と青郁はわざと怒った口調で答えた。
「そうでした。桃の木の下で誓いました、二人で」
子玉が言うと、青郁は彼女を引き寄せ肩を組んだ。
―青郁さまは好い匂い。ずっと一緒にいたい。
主人の横に身を寄せて歩けることに子玉は幸福を感じるのだった。
『死ぬ時も一緒よ』
彼女たちの誓いは、哀しいことにその後まもなく実現するのである。
サークル名:鶏林書笈(URL)
執筆者名:高麗楼一言アピール
朝鮮半島の歴史と古典文学の紹介と研究と昔の朝鮮半島を舞台とした物語を書いています。今回は拙「桃花祝願」の番外編です。朝鮮の古典作品「針祭文」をアレンジした内容です。「葬祭」も祭ですよね(苦笑)。