夏蚕(抄)

「村の奥には神社がありました。坂の上にある、村で一番大きな神社です。
 村人がその神に願うのは、魚の大漁や、海上の安全です。年に一度、八月の末。夏の終わりに村人たちは、海上に飾り立てた船を浮かべ、沖に向かって漕ぎ出します。それが、私の故郷のお祭りでした」
 一郎は、懐かしそうに目を細めた。
 大がかりな祭りなので、準備には手間がかかる。まずは船の用意だ。これは毎年、新しいものを拵えることになっている。一艘ではなく大小の、何艘もの木船を組み立てるのだ。山で一番立派な新木を選んで作られた、最も大きな木船は「親船」と呼ばれる。花飾りや五色の吹き流しで、いっとう美々しく飾り立てられる船だ。小さな船は、「子船」と呼ばれる。
 完成した親船は、祭りの当日に「海の神」の船となる。
 そして、面を被って衣装を身に着けて、この海の神に扮する者が祭りの主役となる。その役に選ばれることが、村の若い男たちにとっては最大の誉なのだ。
 海の神に選ばれた若者は、衣装を着て刀を佩き、面を着け、親船に乗り込む。親船に乗ることが出来るのはこの若者一人と船の漕ぎ手のみだが、そのとき一緒に、「山の神」と呼ばれる、藁で編まれた女の人形が乗せられる。
 山の神には、その年の夏に取れたばかりの絹で織り上げられた、美しい花嫁衣裳が着せられる。

(中略)

 辺りが薄暗くなり、祭りの始まりが近付くと、村中の家々は示し合わせたようにぽつりぽつりと家の灯りを消していく。
そういうしきたりなのだ。何十年、何百年と続けてきた、誰が言い出したのかも分からぬ祭りの決まり事を、村人たちは今も無言で守り続けている。
 そうして村中の火が消えたら、いよいよ祭りが始まるのだ。
 坂の上の神社の境内では、大きな篝火が煌々と燃え盛っている。めらめら、ごうごうと燃える篝火を取り囲み、若い男たちが汗ばむ額に爆ぜた火の粉を浴びながら、声を殺して炎を見つめている。
 若者たちは皆、その手に松明を持っている。神社の者が手伝い、若者たちの持つ松明に篝火から炎を移していく。
 篝火から少し離れたところには、親船を先頭にした祭りの船たちが、坂の麓に向かって列を作って並んでいる。そして松明に火を移された者から順に、親船を守るように、子船に付き従うように、静かに決められた配置に並んでいく。その間も、口を聞く者はいない。

(中略)

 潮騒と、虫や蛙の鳴く声と、笛や鼓の音だけが聞こえる暗闇。その暗闇の底を、絵巻物のように豪奢に飾った船が、火と村人に守られながらゆっくりと滑っていく。
 若者たちは行列を崩さないようにしながら一歩、また一歩と浜に向かって静かに歩みを進める。そして行列に加わらない、女や子供、年寄らも行列から少し離れて、無言で船を見守りながら浜に向かって歩いていく。
 潮騒の音だけが聞こえる無音の中、幽かな笛の音を頼りにして、やがて子船の上ではお囃子が始まる。
「行列が浜辺に辿り着くと、海の神が翳す松明から火が移され、砂浜に篝火が焚かれます。波打ち際に船が寄せられ、順番に海の上に浮かべられます。全ての船が海上に漕ぎ出すと、子船の上で囃子と、それに合わせて祭文が始まります」

 諏訪の海 みなそこ照らす 月影の 綾や錦と 織りなして 糸おだまきに 繰り返し…… 

 幼い一郎は、いつも浜辺を少し離れた小高い丘から祭りを見ていた。村に暮らす人々は、この日は全員祭りに参加するため浜に出ている。けれど一郎と母親は浜に出ることなく、離れた丘の上から祭りの様子をじっと眺めている。
 一郎は、母親と手を繋いでいる。幼い一郎ははしゃぎ、母親に興奮を伝えようとその袖を引く。一郎の幼い手を、母親はそっと押さえて咎める。
 不服を訴えようとして一郎が母親の顔を見上げると、母は困ったように微笑んで、そっとその白い人差し指を一郎の小さな唇にあてがった。
 声を出してはいけない。火を灯してもいけない。禁を破ったら、海の神の怒りをかってしまう。
「私は毎年、浜には出ずに、母と手を繋いで丘から祭りの景色を見ていたのです。美しかったなあ。私はこの祭りが好きでした。特に舞を見るのが楽しみだった」
 親船の上では、いかめしい面を着けた海の神が、お囃子に合わせて静かに舞を舞っている。この舞が、祭りの一番の見せ場となる。
 海の神は始め、非常に緩やかに舞う。神楽歌や祭文、それから海上を吹く潮風に、静かにその身を馴染ませるように。そして徐々に手足の動きを速め、華やかな刺繍と絢爛な織に彩られた袖をひらめかせ、大ぶりで勇壮に舞う。舞はどんどんと急速になり、最後には手にした刀を抜き、荒波を切り裂くように大きく真剣を閃かせて健強に舞うのだ。
 この舞の終わりが、すなわち祭りの終わりでもある。囃子も舞もその熱量が最高潮に昂ぶった瞬間、海の神は抜き身の刀を天に向かって大きく突き上げる。そのとき神は片腕に、花嫁衣裳を着せた藁人形を抱いている。その場にいる人間たちは、村人も、一郎も、一郎の母親も、全員が静かに熱狂している。
 口を聞いてはいけない、声を出してはいけないという絶対の禁忌を、あと一しずくほどの小さな刺激で破ってしまいそうになりながら、手に汗を握り、歯を食いしばり、祭りがいよいよ最後まできたのだという興奮を堪えている。
 渦巻く人々の熱がそうさせたような鋭い重さで、神は振り上げた刀を、女の人形に勢いよく振り下ろす。人形の体に、太刀の重い刃がぐさりと深く食い込む。波の音と、風の音と、音楽だけが満たしていた空間を、重く残忍な響きが切り裂く。ぐさり、ぐさり、ざくり。静かに何度も、神は人形を刺す。
 それを見つめる村人たちは熱狂したままだが、一郎はいつも、その一刺しごとの音を聞くたびに何だか祭りの興奮が冷めていくような心地がした。神は執拗に、何度も何度も手に持った太刀で、女の人形の腹を突き刺したり切りつけたりする。その動きには、迷いや躊躇が無い。浜辺中に渦巻く狂いそうに張りつめた興奮の最中、彼はこの浜辺で一番狂った存在に思えた。海の神に扮した若者の表情が面のせいで分からないのが、ここに至ると何か急にとても恐ろしいことのように一郎には感ぜられた。
 美しい、闇夜に浮かび上がるほど白い絹の花嫁衣裳を身に着けた人形が、そのように何度も切ったり刺されたりすることが、本当の殺人のように残忍な行為のように幼い一郎には思えて仕方がなかった。

(中略)

「母が亡くなってからは、祭りには行きませんでした。懐かしいな。母もこの祭りを見るのが好きだったのです。毎年二人でこの祭りを、いつも同じ丘から見物していました」
 昔を思い出しながら目を細める一郎に、葉子もつられて懐かしいような気分になった。
 今まで一郎に家のことを訊ねても、曖昧にはぐらかされることが多かったが、今夜の一郎は饒舌だった。
「弟さまとは、お祭りには行かれなかったのですか?」
 話題の続きを探して葉子が口にした疑問に、一郎は少しだけ表情を曇らせた。
 一郎は視線を逸らし、ちょっとの間だけ口を閉じた。一郎は唇の端に曖昧な、困ったような笑みを浮かべた。
 一郎はやがて葉子を見つめながら、静かに再び口を開いた。諦めたような響きが何故かその言葉にはあった。
「私と弟は、母が違うのです。私は物心つく前の時分から、母の生まれ育った村で、母と二人きりで育ちました」

(中略)

 いよいよ祭りの終わり近くになって、海の神が勢いよく刀を振り上げたのを見て、一郎は母と繋いだ手に汗を握った。すると母も力強く一郎の手を握り返してきたので、ああ、母さんも祭りを楽しんでいるのだ、と一郎は嬉しくなった。
 思わず一瞬、祭りの光景から目を逸らし、一郎は母の顔を見上げた。するとそこには、一郎が想像していたのとは少し違う、固く険しい母の顔があった。
 元々人形のように白い顔が、そのときは一層白く、血の気が引いているように見えた。
 具合が悪いのだろうか、と幼い一郎は心配し、声をかけたく思ったが、祭りの最中の禁忌がある。一郎は困って、無言で母の着物の袖を引いた。しかし母は、そのことにも気が付かず、じっと食い入るように祭りを見つめていた。
 ぐさり、と太刀の刃が花嫁人形に食い込む音が、潮風に乗って耳元に届いた気がした。それほどの静寂であった。
「あの、藁人形になりたい」
 一郎の母は、ぽつりと呟いた。小さな声だが、確かに、一郎の母はそう言葉を発した。
 祭りの最中は言葉を発してはいけない。禁を破った者は、神の怒りをかってしまう。

(中略)

 その夜のこと。祭りの興奮や最後に見上げた母の顔を思い出し、なかなか眠れなかった一郎は、魘されるように夢を見た。隣で横になる母は、死んだように静かに眠っていた。
 半覚半睡の状態で見たその夢の中で、一郎は海上に立っていた。空と海が同じ色をした真っ暗な夜の海の上で、一郎はたった一人で船に乗っていた。飄飄と吹く潮風と、打ち寄せては引く静かな波の音だけが聞こえる、とても静かな夜だった。
 一郎は片手に刀を持っていた。抜き身の太刀である。鋼の刀身が月の光を照り返し、眩い。
 ぎょっとして一郎は目を見開いたが、途端にもう片方の腕の中がずしりと重いことに気が付いた。
 その腕の中には、母がいた。母は、美しい絹で出来た白い花嫁衣裳を着て、にっこりと微笑んでいた。
 母は何かを囁くように、花のつぼみのような唇をそっと開いて、たったそれだけで満足そうにまた唇を閉じた。
 そして一郎は雷に打たれたかのように、この母の腹に刃を立てたい、と思った。けして逆らえぬほど、強く強くそう思った。腹の底から噴き出るような、抗えぬ欲望であった。
 そして一郎は夢の中、手にした太刀で花嫁姿の母を、祭りの藁人形のように惨殺した。


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サークル名:チャボ文庫(URL
執筆者名:海崎たま

一言アピール
上手くするとテキレボ6で出せる「夏蚕」(かさん)という短編より、主人公の一人である一郎という青年が故郷の夏祭りについて語るシーンの抄録です。大正十二年、山奥に育ち海を見たことのない少女・葉子と、自らを死者と称する海辺の村で育った一郎が、山中の屋敷で二人、夏を過ごす話です。

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