アーブの9日
AD19××年
熱い陽光の照りつける夏、アーブの9日はユダヤの歴史にとって最も悲劇的な日だと、現代に至るまでユダヤ教徒は教えられている。
モーセと共にエジプトを出た世代が、カナンに絶望しカナンに入れなくなった日。
バビロニアのネブカドネザル王がエルサレムを攻め落とした日。
ユダヤ戦争が終わり、ヘロデ王の神殿がローマに壊された日。
その後長らく残っていた神殿跡すら、ローマによって更地にされた日。
バル・コクバの乱が失敗に終わり、ユダヤ教がローマによって根絶された日。
ティシュア・ベ=アーブは、全ての日だった。奇しくもこの夏の日、5つの時代で、悲劇が起こったのだ。
シフラという少女も、敬虔なユダヤ人の家に生まれたため、勿論その事を知っていた。
BC586年
「どうした、バルク」
壮麗なエルサレム神殿に背を向け、青々と茂るアーモンドの木を眺めるバルクに一人の男が問いかけた。
「エレミヤは無事だろうか」バルクは彼の方など見向きもせずに呟く。彼はいつも、預言者エレミヤの事を気にしている。この戦に勝ち目はない、バビロニアに降伏してくれ、ユダヤの誇りと意地を張らずに、と主張し続け、王宮に捕らえられた「売国奴」を。浅ましくも神の預言者を自称し、その神の国イスラエルを侮辱した、イスラエル人として最も罪深い存在を。
「ゼデキヤ王は慈悲深いお方だ。エレミヤ殿が心を改めさえすれば、死ぬことは……」
「正しい事を言っている者が、何故心を改めなくてはならない」
バルクの返答は頑なだ。バルクは、イスラエルの中で数少ない、エレミヤの預言を真実と信じている人物だった。
「イスラエルは神の国。なぜ、異教徒ネブカドネザルなどに辱めを受けるものか」
「見ろ」バルクは木を指さす。
「エレミヤは、いつも言っていた。自分はこの樹に咲く花を通じて神に見守られていると」
「なるほど。読んで字のごとく、アーモンド(ヘブライ語では「シャーケード」)を通じて見守られ(ヘブライ語では「ショーケード」)ている訳か」男は納得する。
「春に先んじて咲くのがこの花。ならば真夏のこの月は、最も神がイスラエルを見放す時期ではないのだろうか」バルクは、彼の慕う預言者の愛した薄紅色の花が一本も残らないアーモンドの木を見て、ぼそりと呟いた。
「今日にでも、ネブカドネザルは攻め込んできてもおかしくはない」
後ろでは彼の言葉に意を介さぬように、偉大なるソロモン王の築いたエルサレム神殿が、誇り高そうにそびえたっていた。
AD70年
轟々と燃えるエルサレムを、最後のユダヤ王は見下ろしていた。
「これで、よろしかったのですか」彼のギリシア人の小姓が、主人の望郷の念を懸念し声をかけた。だが、彼は悲鳴を聞きながら、炎の光を浴びながら、疲れた顔で優しく微笑み言った。
「良いのだよ。イスラエルはこうなるべきだったのだ」
ヘロデ・アグリッパ二世。イスラエル最後の王朝となったヘロデ王朝最後の王は、そのまま自分の国が灰燼と化す様子を満足気に見守っていた。ユダヤ人でありながら、ユダヤの王でありながら、ユダヤ人革命軍に全く手を貸さず、イスラエルを滅ぼさんとするローマに最後まで忠実だったユダヤ王は。
彼は何を愛し生きてきたのだろう。彼の祖国はどこだったのだろう。小姓には主人の意図が分かりかねた。主人は、滅びゆく祖国を見て、ただ本当に満足そうだった。
崩れゆく神殿を指さして、彼は小姓に語りかける。
「知っているかね。あの神殿は、私の曽祖父が築いたものなのだ。昔壊された、ソロモンのようにとね」
「存じております」小姓は頷く。
「築かないほうがよかったのに」彼は悲しげに、しかし柔らかな口調で言った。
「どこの世界に、こんな無駄なものが存在したろうね、君」
ヘロデ王朝初代王、ヘロデ大王は、ソロモンの神殿を改築した。ソロモンの神殿よりも更に大きく、さらに豪華なものに。
それが今、崩れ去ろうとしていた。ソロモンの神殿と全く同じように。
「これも、知っているかね」アグリッパはさらに続ける。
「ソロモンの神殿が壊れた日も、何百年も昔の今日だったそうだ」
アグリッパは、幸せそうだった。小姓には彼の心がようやく、少し解った。
AD19××年
テュシュアー・ベ=アーブの悲劇を、ラビの説法を丹念に聞くシフラは他のユダヤ人同様よく理解している。だから彼女はまだほんの子供でも、大人たちと一緒に断食することに少しも疑問を感じてはいない。それがユダヤの誇りだと彼女は信じているからだ。
祈りの後彼女は、家族とともに嘆きの壁に向かった。
BC××××年
「カナンは地獄だ、行きたくない」
カナンの偵察に行った十二の斥候のうち、十人はそう震えあがっていた。
遠路はるばるエジプトを抜けてカナンまで上がって来たというのに、一体ヘブライ人たちはどれほどその言葉に落胆しただろうか。
キョトンとする子供たちはともかく、大人達が震えあがり、やはりカナンにはいきたくないと思い込んだのも多少は無理のない事であった。
だが、預言者モーセを通じ神から下った言葉は、彼らの意志に逆らうものだった。
何故、恐れるか。なぜ、約束の土地に行きたくないとお前たちは言うのか。
お前達を人間扱いしないエジプトから逃れさせたのは誰だ。お前たちが人として生きられる土地に、お前達を導いたのは誰だ。
「あんな所に行きたくない」だが、斥候達はそう繰り返すだけだった。
「あんな所で、暮らしたくない。エジプトか、荒野で死んだ方がましだった。あの地には悲しみしか待っていないんだ」
モーセはそんな彼らに、彼らの言葉を信じた者達に、神の言葉を伝えた。お前達は、約束の地に入るな。その資格を失った、と。
AD135年
ラビ・アキバ・ベン・ヨセフは「もはやここまで」と呟いた。ローマの支配下を受け、王朝すらも失ったユダヤ人が心の支えと信じてきた人物は、反乱軍のリーダーが戦死したという知らせを聞いてうなだれた。
「バル・コクバは」彼は再度力なくつぶやいた。
「死んだのか。あの星の子は死んだのか」
「はい、先生」力なく、一人のユダヤ人は答えた。
「私は救世主ではなかった。そんなことは知っていた……だが、2年前のこの日はじめて彼に会った時、シモンは、バル・コクバはそうであると私は信じていた」
アキバは泣いていた。救世主だと信じた男の死を受けて、唯一無二の戦友の死を受けて。
自分はきっとローマに殺される。属国人の分際で、ローマに逆らった反乱の主導者格なのだから。
アキバは涙ぐむ目で、エルサレムを見つめた。愛する故郷を。
もう一度神殿のあるエルサレムを見たかった。それが、アキバの夢だったのだ。
「救世主は、救世主は、どこにおられるのですか」
アキバの視界は徐々に滲み、やがて見えなくなっていった。
AD133年
やめてくれ、と声が飛び交う。ローマ人は属国人の悲鳴など聞きもせず、ただ淡々ととある廃墟を更地にしていった。こんな物になんの未練があるのかと。
華やかだったエルサレム神殿の成れの果てを、彼らはただの更地へと変えていった。
「先生……」と話す言葉も見当たらない弟子たちを、アキバはただ慰めるしかなかったのだ。
「酷い物だ」と声がした。
「貴方がアキバ・ベン・ヨセフですね」
「はい」
「貴方のお力を借りたい」
そう恭しく例をしてきた自分よりもずっと若い男が、アキバの目には輝いて見えたのだ。まるで星(コクバ)の子(バル)であると、彼の目には写った。
アキバの目には、確かに見えた気がしたのだ。彼のその光を通じて、神殿が輝くエルサレムが見えた気がしたのだ。
BC××××年
ヘブライ人たちの間で、謎の疫病が流行した。
カナンに行きたくないと言ったものが、次々に疫病で倒れていったのだ。もちろん、あの地獄を見てきた斥候たちも。カナン行きを否定しなかった。ユダ族のカレブとエフライム族のヨシュアを除いて。
何故、お前たちは無事なのかと問いかけられた民衆たちに、ヨシュアはこう返した。
「俺達は奴らとは違うものを見たからさ」
「お前たちは何を見たんだ」
「カナンには神様がいらっしゃった」ヨシュアはボソリと吐き捨てた。その言葉を聞いた 無事だった若者たちは、やはりカナンを目指そう、自分たちの国を作ろう、と思い立った。そこには、神がいるのだから。
BC586年
炎上するエルサレム。
バビロニア兵たちは容赦なく襲いかかり、ソロモン王朝の誇りであったエルサレム神殿を叩き壊した。
バルクはただ立ち止まったままだった。知人が逃げようと言っても「エレミヤは無事だろうか」と脈絡のない返事をしてきた。
「エレミヤ殿なら心配はない。親バビロニア側とみなされて、バビロニア兵に保護されたと情報が入った」
そうか、と漸くバルクも重い腰を動かす。知人は安心したようだった。
バルクはバビロニア軍に投稿しようとする道中で燃え盛るエルサレム神殿を見つめた。
「神は、イスラエルを見捨て給うたのだろうか」知人は言う。バルクはじっと、崩れ行くイスラエルの誇りを見つめ、はっきりとした声で言った。彼を励ますように。
「案ずるな。またアーモンドの花が咲けば、神は戻ってこられるさ」
彼は至極落ち着いていた。まるで此れが当然であるかのように冷静だった。
AD19××年
嘆きの壁を前にして、シフラは父母と一緒に思いを馳せていた。昔、ここに神殿があったのだ。イスラエルは何度も滅んだ。この夏の日に。何度も闘いを経て、何度も滅び、何度も再生してきた。
それがこの民族の誇りだ。シフラは、ユダヤ人に生まれたことを誇らしく感じていた。
少し離れた土産物屋に、シフラはきれいな装身具を一つ見つけた。父親に見に行きたいとねだり、許可を貰う前に彼女は人混みの中駆け出した。
次の瞬間、彼女は人混みの中で刃物に刺されたような激痛に襲われた。
シフラの意識が急に遠のく。「女の子が刺されたぞ!」という声は、聞こえなかった。シフラが人生最期に聞いた声を、彼女は理解できなかった。彼女は、アラビア語を知らなかったのだ。
サークル名:クリスマス市のグリューワイン(URL)
執筆者名:檜一言アピール
聖書やキリスト教伝説を題材にした創作小説を主に書いています。今回のアンソロではキリスト教ではありませんが、ユダヤ教の式祭「ティシュア・ベ=アーブ」を題材にしました。作中にも描いたとおり、ユダヤ教の歴史の中で5つの悲劇が奇遇にも同じこの日に起こったそうです。