色のない猫
蒼い山羊
ソレは在った。
ソレは、目を閉じたまま、全身を震わせた。
周囲の空気が揺れて、ソレの形がぼんやりと窺い知れるようになる。
ソレは、全身を大きく振った。四本の足でしっかりと自分を固定しながら。
三度目の身震いを終えて、ソレは瞼を開いた。水晶柱のような瞳が内側から鈍く輝いている。ここに在る唯一の光。
ソレは息を吐いた。上唇が揺れて、ぶごごぅと音をたてた。
音は、生まれるそばから消えた。
照らす対象のない瞳の光も消えつつあった。
ソレの瞼はまた瞳を塞ぎはじめた。
やがて、瞳の光は完全に失われ、『世界』は再び無を取り戻そうと。
ソレの頭部にはツノがあった。
ソレは自分に頭があることとツノがあることを突然同時に思い出したように、まるで『世界』に抗うように、四肢に力を込め、全身を延ばして、頭を空に突きあげた。
ソレの二本の鋭いツノが無を刺しあげた。
ツノ先から漏れる光が、ソレに注ぐ。
ソレの全身を覆う蒼い毛が艶々と力強く輝く。
ソレは頭を振り下ろし、ツノを抜いた。
小さな裂け目が生じていた。
裂け目の向こうから、明るく温かな光と、にぎやかに愉しげな音が溢れてきた。音は時に強く振動さえ伴っている。さまざまな匂いがソレの鼻をくすぐる。
ソレはそれらの気配を味わうように、鼻を振った。
そして、目を大きく見開いた。ソレは、夢を見始めた。
『世界』は無ではなくなった。
* * *
カラスはいつまで黒いのか
太陽が沈んだあとの夕やけ。青かった空はゆっくりと群青色を染み込ませていく。月はまだない。
初秋の生温い風がきまぐれにそよぐ。道端の落ち葉が小さく円を描いてひとまわりする。背の高い木々の枝葉の揺れる音に顔を上げた。
電柱の上に一羽のカラスが羽ばたき降りたところだった。
空にはまだ明るさが残っていて、まばらな街路灯の途切れた電柱の上にあるカラスは黒かった。
目が合った気がした。
なにか、カラスの声にならない声が聞こえた気がした。
ぼくは立ち止まらなかった。
すぐに目をそむけたので、そのあとのカラスのことは知らない。
家路を急ぐぼくの脳裏にことばが過ぎった。おうまがとき。
「逢魔が時」
口に出してみた。さっきのカラスの声と同じ程度の音で。
道沿いの家のテレビの音が、音割れするほどの大音量で聞こえている。
角を曲がってきた太ったシーズー犬が、シルバーカーに寄りかかるように歩くおばあさんに連れ添って歩いてくる。
どこかのお祭りの太鼓や笛の響きが、ぼくの頭を激しく苦しめる。
ぼくはカラスのことをもう思い出さない。
* * *
色のない猫
強い視線を感じて振り返ったけれど、そこに見えたのは静まり返った住宅地の家々と電信柱だけ。なんだ、と視線を戻しついでに空を見上げたら、薄く暗い雲の切れ間で月がこっちを見ていた。
親しげにまとわりつく月の光を振り落とすようにわざと面倒臭げに両手を使って全身を払った。
月は、文句を言わない。いつものように、ちょっと困った風な視線をよこす。憐れみの表われだ。
私は立ち止まって月を見据えた。
雲は流れていくのに、月の光は途絶えない。
時間か。
忘れたくない、土や草や木々の匂い、人の汗の匂い、酒の匂い、楽しさを沸き上がらせるお囃子の音色、屋台の喧騒、子どもたちの声、大勢の笑い声、たくさんの人、人の顔、人の姿、それから……
戻れば全て忘れてしまう。
観念して目を閉じかけたとき、なにかが私と月の間を横切った。一瞬、月光が遮られた。
どこからともなく降ってきて、私の胸元に飛び込んできて、はっきり「にゃあ」と鳴いた。
その声を聞いて、腕の中にその温もりを感じて、私はそこに立っていた。
一瞬は、去っていた。
見上げると、月も困惑した光を発しながら、流れ始めた雲に隠されて見えなくなってしまった。
にゃあ、か。
そうつぶやきながら見下ろすと、猫はいない。温もりの余韻はたしかにまだあるのに。
にゃあ、と、かすれた小さな声が聞こえた気がして、なにか猫に呼びかけてやろうと声を発して、知った。「にゃあ」
祭りの終わったこの『世界』にまだ自分が在ることの不可思議。
見知らぬ猫が身代わりになってくれたのか、それとも猫なんて実際には居なかったのかもしれないと思うのは消えた猫への罪悪感からくる願望か。
どちらにしても、私にできることなんてなにもない。そうだよね、『世界』。
私は夜を歩き始めた。月はまだ見えない。
サークル名:アンプロトコルネット(URL)
執筆者名:石川月洛一言アピール
おもに短めのお話を読んでいただいています。