雲の切れ間に
真っ赤な夕焼けに包まれた町を眺めている。岬の先の灯台も、思い出の残る駄菓子屋も、かつて通った小学校も、すべてが茜色にラッピングされたようで、その一つ一つが思い出せる。私はこの町に育った。私はこの町が好きだ。
そんな赤の視界に不釣り合いな、黒い影が一つ。
「雨、止まないなあ」
そうつぶやく彼女は眩しい夕焼けの中、傘を差していた。紺色の大きな傘に入った彼女の顔だけは、昏く影になっている。
私は思わず手に持っているものを握りしめる。
私がこの町にいなかった四年の間に、彼女は変わってしまったのだ。
彼女の視界に雨が止むことは無いという。
転勤は唐突に、私が小学五年生の頃に訪れた。転勤した先から戻ってくるまで四年。その四年間、天咲水零に何があったのかを私は知らない。
私が帰ってきた日、この町の中学校に初めて足を踏み入れた日、転校生として紹介された私を見て、呆然とした顔の彼女を私は覚えている。幽霊を見たような目で私を見るのだ。それから、彼女が変わってしまったことを知った。雨でもないのに傘を差している彼女は独りぼっちで、クラスの腫れ物だった。
それでも私が真っ先に話す相手は彼女だった。快活な彼女はどこへ行ってしまったのかと思うほど、同じ名前の違う人になってしまったのではないかと思うほど、彼女は静かに声を発する。深窓の令嬢のような、いや、お屋敷に取り憑いた幽霊のような彼女は、私の知る人じゃなかった。
「水零、私がいない間に何があったの?」
「あなたの知ることではないわ、関根さん」
由梨、という名前で呼ばれないことが悲しい。
私を私だと認識していないかのような、そんな感覚。
彼女は外ではずっと傘を差している。晴れている日に大きな紺色の雨傘を差す様子は異質に見える。
なぜ彼女が傘を差すようになったのか、私は知らない。
ただ、彼女は一人雨の中にいる。
私が転校してからひと月経った頃には、彼女はある程度話を聞いてくれるようになっていた。
拒絶はしない。私の話を流れる雲のように眺める。その程度。彼女の話を彼女はしない。私の話を黙って聞くだけ。私の心にはもどかしさばかりが募っていく。
遊びに連れ出すこともできるようになったが、彼女は傘を差して歩くので歩きづらいことこの上ない。それでも私は毎週末遊びに誘った。彼女のほうは嫌がらなかった。けれど、何をしても何に誘っても彼女は喜ばなかった。いつもの調子で『おいしいね』『楽しいわ』と生返事を繰り返すのだった。
「あれ、由梨ちゃん帰ってきてたんだ」
彼女の母親が私たちが帰ってきたことを知ったのはしばらく後になってからだった。
「うちの子しゃべらなくなっちゃってね。教えてくれれば良いのに」
私は思い切って聞く。
「水零ちゃん、何があったんですか」
おばちゃんは顔を曇らせる。
「小六の夏だったかしら、そのときから突然傘を差すようになってね。最初は気持ち悪いからやめてって言ってたんだけど、あの子、ほとんど何も聞いてないみたいになっちゃったじゃない。『うん、そうね』とか言ってそれだけなのよ。でも、そういえばあの夏は毎日のように出かけていた気がするわ。ごめんね、由梨ちゃんも水零があんなんじゃ仲良くし甲斐がなくて。早く普通になって欲しいわよね」
普通って、何だろう。彼女にとっての普通って何なんだろう。
「ねえ、水零」
「なあに?」
彼女の傘を見るとおばちゃんの『普通』という言葉が出てきてしまうのだ。
「あなたにとっての普通って何?」
「雨が降ってないことじゃないかしら」
彼女の目が少し遠くを見る。
「でも、私に雨が降らない日はないわ。私が許さない」
彼女が許せないのは雨雲か。雲の切れ間から見える太陽か。それとも晴れた空の下にいる自分か。
通っていた小学校に戻ったとき、担任の先生は笑顔で迎えてくれた。
「由梨ちゃん大人になったね。向こうは楽しかった?」
「そうでもないです。向こうはうるさくて」
そういうことにしないと収まりが悪い私は苦笑いした。
「水零ちゃんと同じ学校、よね?」
「そうです」
「お節介かもしれないけど、あの子のことずっと心配でね。ずっと一緒にいたでしょ、水零ちゃんと由梨ちゃん。あの夏休みに何があったんだかわかんないんだけどさ、由梨ちゃんなら変えてくれるかもって思っちゃってさ」
私が黙ると、先生は焦ったように付け足す。
「いや、ごめんね。自分ができないことを人にやらせようとしちゃダメだよね」
両手を振る先生の目は、私を見てはいなかった。
水零がどうして傘を差すのか、私には分からない。関根由梨は天咲水零と同じ人間じゃないから、同じ景色なんて絶対に見ることができない。わかっている。けれど、雨の中にいる彼女はいつも一人だ。私は同じ傘の中には入れない。
彼女と同じ景色を見ることは叶わないのだろうか。同じ景色を願うのは間違っているのだろうか。わからない。けれど、私がどう思っているかなんて、彼女は知らない。ただのご機嫌取りの本当の思いなんて、伝わるはずがない。お星様に願うだけじゃ何も叶わない。そんなことを真面目に信じるほど、私はもう子供じゃない。
小学校の頃、お祭りの日に丘から見た夕焼け。私の好きなこの町の夕焼け。水零と林檎飴を食べながら見た夕焼け。
もう一度見たいと思った。
あの日と同じ景色をもう一度、見たいと思った。
夕暮れに包まれる彼女の後ろ姿は真っ黒で、そこだけ雨雲に隠れているようだ。
「雨、止まないなあ」
この町の夕暮れは彼女には見えない。私は手に持ったものをぎゅっと握りしめる。
「水零、明日のお祭り行こうよ」
私は意を決して言った。
「嫌よ」
彼女の拒絶は私の心を見透かしたように。
「傘差してたら人混みには入れないって、前にも言ったでしょう?」
私はそれを差し出す。
「明日はきっと晴れるから、信じて」
「てるてる坊主?」
私は何も言えない。ただ首を縦に振るだけ。
「子供みたいね」
彼女はあきれたように溜息をつく。
「私のためなんでしょう? 私に話しかけるのも、私と遊ぶのも、今、私にそれを渡すのだって、私のため。そうやって、自分の価値観を誰かに押しつけて、それが優しさだと思ってる。あなたは良い子でいたいだけなのよ。誰かのための行動をしていれば良い子でいられるもの。他人を踏み台にして、自分だけ良い子になってるの。そうやって価値観を押しつけるのはもうやめて」
彼女は蔑んだような笑顔を見せる。
「関根さん、私をあなたの踏み台にしないで」
「押しつけだよ」
私は大きな声で言う。
「私の気持ちはただの押しつけ。迷惑かもしれない。でも、私はあなたと同じ景色が見たいの。同じ夕焼けを見て、綺麗だねって言って欲しいの。私はあなたが自分一人で雨雲の下に閉じこもっているのが嫌。あなたに何があったのかは知らない。けど、あなたが閉じこもるなら、私にも同じ景色を見せてよ。一人きりにならないでよ」
伝えたい。私の思っていること、全部言わなきゃ伝わんない。
「あなた一人だけ雨の中にいて、周りの人がどう思ってるか考えたことある? あなたの雨の中に一緒にいられない私の気持ち、考えたことある? 私は私の気持ちを押しつける。あなたの友達だから。あなたは私の友達だって思うから言う。友達が私の気持ちを知らないのは嫌なの。雨が止むか止まないかなんて私が決めることじゃない。けど、私があなたのそばにいたいと思うのは私の勝手よ。私はできるだけあなたのそばにいたい。そう思ってるって伝える。私はそれしかできない」
言い切った頃には、彼女はもう笑っていなかった。
「明日の五時、ここで待ってるから」
彼女はてるてる坊主を受け取らずに傘を差したまま帰っていった。
翌日、私は四時から公園にいた。
浴衣を着て、水零のことを待っていた。
五時になっても、彼女は来なかった。十分後、ぽつりぽつりと降り出した雨が、少しもしないうちに土砂降りになった。私は雨の中、てるてる坊主を握って彼女を待っていた。
二十分後、息を切らして現れた浴衣姿の彼女はびしょびしょで、それでも傘を差してはいなかった。
「少し走ったら汗をかいてしまったわ」
彼女は頬を染めて笑う。
私も笑う。
「今日、暑いからね」
くしゃみをした私は「風邪かなあ」と言ってまた笑った。
彼女が笑うのが、嬉しかった。
「あっ」
彼女が声を上げる。
西側の空が少しずつ明るくなっていく。
ここには雨が降ったままなのに、向こうの方は晴れているみたいだ。
明るい夕焼けが包む町は、雨に濡れてキラキラと輝く。
その景色は、魔法の解けていく町を眺めているようだった。
「こんなことってあるのね」
彼女は呟く。
「少し、悔しい」
「ごめんね」
私は舌を出す。
「私じゃなかったらこんなことにはならなかった」
水零は苦笑いする。
「あなたのせいよ。私の気持ちを滅茶苦茶にしたのはあなた以外の誰でもない」
そしたら私はきっと、重罪人だ。
「罰として、林檎飴おごりなさいね。由梨」
光を浴びる水零の目が眩しそうに細められているのが嬉しかった。
彼女の雨はまだ止まない。きっと、これからも降る。それでも私たちは屋台に向かう。
サークル名:ソライロシェルター(URL)
執筆者名:真夜猫一言アピール
文字書きの真夜猫と絵描きの雨時時雨の同人サークル。文芸では、真夜猫が毎日綴った掌編小説集『四季差異環状進化論』のシリーズや、現代が舞台のショートショート作品を中心に執筆。今回の作品では、故郷を離れている間に変貌を遂げていたかつての友人と主人公、二人の女子中学生の友情を描いた。