そこは港の街

「港への道を、教えていただけませんか?」
 賑やかな街の通りで、通りかかった人の良さそうな方に私はそう訊ねる。にこりと笑ったその人は、街を歩くことに慣れていない私にもわかりやすく、港への道順を教えてくれた。

 私はこの街に有る修道院で暮らしている、修道士だ。この土地に昔からある裕福な家の生まれで、十歳になる頃に修道院に入った。
 家に居た頃は両親に可愛がられていて、けれども家の外にはあまり出ることが無かった。なので、私はこの街に一体何が有るのか、どんなところがあるのかを殆ど知らずに育った。そしてそのまま、修道院という閉ざされた環境に入ってしまったので、何が有るかを知る機会を失ったも同然だった。
 私の修道院での仕事は、野菜や薬草を育てる畑の手入れ。その手筈は、修道士見習いの時から面倒をみてくれている一つ年上の修道士から教わった。
 畑仕事の休憩時間に、彼からこんな話を聞いた。
「この街の港には、異国の船が沢山やってくるのですよ」
「港、ですか?」
 港というのがどういう物なのかは本で知っていたけれども、この街にそれが有るとは思っていなかったので、驚いた。
 港が有ると言うことは、海が有ると言うことだ。私は海を見たことが無かったけれども、いや、だからこそ、海というのは自由の象徴のように思っていた。海を渡る船は、私の想像が及ばないほど広い世界を旅して、噂にしか聞かない異国を知っている。いつしか私は、入口であり出口である海に、憧れを抱いていた。

 ある日のこと、私は隣の教区にある教会へお遣いに出ることになった。こう言った用事があるときでもない限り、私たち修道士は修道院の敷地から出ることは無い。そして、そう言った用事で外出するときも、余計な寄り道は禁じられていた。
 行きは真っ直ぐ、目的の教会へと向かった。相手方をお待たせしてはいけないし、寄り道をするという考え自体が浮かばなかったのだ。
 用事を済ませ、少し休憩させていただいてから、教会を出る。するとどこからか、今までに嗅いだことの無い匂いが漂ってきた。野菜や果物の匂いにしては生臭く、肉の匂いにしては爽やかな香り。そしてどことなく無機的だった。それを感じて、私は思わず足を止め、周りを見渡す。匂いの元となるような物は見当たらず、直感的に思った。
 これは海の匂いだ。
 それは思い過ごしなのかも知れないけれど、私は港を、海を見たくなった。
 あとで戒められるかも知れない。そんな考えも浮かばず、私は来た道から外れた場所を、街の中を歩き回った。港はどこにあるのだろう。あの匂いは既に消え果て、辿ることも出来ない。自分がどこに居るのかもわからなくなり、通りかかった優しそうな少年に声を掛けた。すると、布の入った大きな袋を抱えた彼は、にこりと笑って、ここから港までの道筋を教えてくれた。お礼を言い、教わったとおりの道を歩く。時折細い道を通ることもあったので不安になったけれども、次第に、先程感じたあの生臭く、爽やかで、無機的な匂いが漂うようになってきた。そして少し広い道に出て、突然視界が開けた。
 煉瓦を積んで作られた沢山の倉庫、その前に広がる石畳で舗装された広場、そしてその端には途中で途切れた橋があり、更に向こうには、打ち寄せては引く大きな水溜まりがあった。
「これは……これが?」
 傾き始めた陽を照り返すその水溜まりには果てが無く、その上を飛び回る白い鳥の大きな鳴き声が広がって消える。嵐の時の木のさざめきのような音が静かに響く。それは、そこは、あまりにも広かった。こんなに広い場所は今まで私が生きてきた世界の中には存在していなかったけれど、これですら外界への入口であり出口であり、ほんの一部なのだ。
 さざめきと鳥の声、それらが響いて溶け合うこの場所で、私は何も言う事が出来ず、考えることも出来なかった。
 暫く呆然と波立つ水を見て、あの匂いを感じて、ようやくそれが海で、この匂いが潮の香りなのだと理解出来た。理解するまでに時間を要するほど、目の前の光景と香りは、今までの生活からは想像出来ない物だった。
 赤味を増した陽が海の水面に近づくのを見て、帰らなくてはという思いと、ずっと見ていたいという思いが交代に浮かんでは消える。
 太陽が半分ほど海に身を隠した頃、やっと修道院に帰ろうという気持ちになった。周りには誰も居らず、このまま暗くなったらほんとうに帰り着けなくなると思ったのだ。来た道に戻り、少し狭い所に差し掛かったその時、幾つかの足音が聞こえてきた。何事かと思い足を止めて周りを見渡すと、薄汚れた服装の男性が数人、私を取り囲んでいた。一体何の用なのかと思う間もなく、その中のひとりに口を塞がれ、体を抱えられてしまった。
 人攫いだと気づき抵抗しようとしたけれども、非力な私は容易くねじ伏せられてしまう。口の中に布を詰め込まれ、声を上げたくてもそれが出来ない。恐怖で涙を零すと、突然私を捕まえていた男が倒れた。地面に膝を付き、口に入れられた布を手で引っ張り出す。それから周囲を見渡すと、他の男達も次々と光の矢に貫かれて倒れていった。
 一体何が起こったのだろう。突然の事が次々に起こるので呆然としていると、目の前にクロスボウを持ったひとりの少年が降り立った。彼は羽を模った仮面を着け、その背には輝く翼を背負っていた。
「て……天使様?」
 私がなんとか絞り出した声で言えたのはそれだけで、彼は仮面で覆われていない口元で微笑み、こう言った。
「夕暮れ時に人気のないところを歩くのは危険ですよ。
私が大通りまで送りましょう」
 脚が竦んでいる私が立ち上がるのを助けてくれ、彼は言葉の通り、大通りまで送ってくれた。大通りに着くと、彼はすぐさまにどこかへ飛び去ってしまったけれども、そこではたと気づいた。お礼を言うことも出来ていなかったのだ。無礼なことをしてしまったと恥ずかしく思いながら、私は大通りを歩いて修道院へと向かった。

「こんな遅くまでどうしたのですか? まさか寄り道をしてきたのではないでしょうね」
 修道院に着くと、門のすぐ側で私の帰りを待っていたらしき修道士に声を掛けられた。彼はいつも私の面倒をみてくれている方で、お遣いに出たままなかなか帰らない私のことを心配していたのだろう。私は素直に頭を下げ、謝罪をする。
「申し訳ありません。お察しの通り、寄り道をしていました」
「寄り道は禁止されているというのに、まったく。あとで私と一緒に謝罪に行きましょうね」
「はい」
 彼だけでなく、沢山の方にご迷惑をお掛けしてしまったのだと痛感する。いけないことをしてしまったとしょんぼりする私に、彼がまた問いかける。
「ところで、服が随分と汚れていますけれど、本当に寄り道だけだったのですか?
なにか、危険な目に遭ったと言う事は?」
 そう言われて自分が着ている服を見ると、膝や腕に土汚れが付いている。これは先程人攫いに遭ったとき付いた物だろう。
「実は、途中薄暗い道を通っているときに人攫いに遭ってしまって。
でも、天使様になんとか助けていただいて帰ってこられました」
 天使様に助けていただくだなんて、不思議な話も有る物だと感じるけれども、よくよく思い出すと、この街には人々を守ってくれる天使様が時折現れるという噂が少し前からあるらしく、その話はこの修道院の中でも囁かれている。噂話を利用していいわけがましいことを言うなんてと、彼は怒るだろうか。そんな心配をしたけれども、彼は安心したような表情で私にこう言う。
「ああ、天使様に助けていただけたのですね。それは良かったです。
でも、もうそんな危険な目に遭わないように、こんな遅くまで出歩いてはいけませんよ」
「はい、肝に銘じます」
 先程の厳しい言葉も、私を思ってのことだというのがすぐにわかる。先導するように少し前を歩く彼の後を付いて行く。もう夕食の時間も終わってしまい、今日の分の夕食を食べられるかどうかもわからないと、冗談めかしている彼。ふと、足を止めないままに私の方を向き、にこりと笑う。
「ところで、海はどうでしたか?」
「……え?」
 私はいつ、海を見て来たと彼に話しただろうか。思わず驚いていると、彼はくすりと笑って言葉を続ける。
「海の香りが残っていますよ」
 なるほど、そう言う事か。合点のいった私は、初めて見た海の話を彼にする。他に誰も居なくなった食堂で、冷めた料理を食べながら、海がどんなところだったか、どんな景色だったか、食事を終えて食器を片付けるまで話し続けた。それから、ふたりで部屋のある棟まで歩いて行き、手前にある彼の部屋に着いたところで、彼が優しく笑ってこう言った。
「それは良かったですね。今日の日のことを忘れないようにしましょうね」
「はい」
 それから、お休みなさいと言って彼は部屋に入りドアを閉める。その後に残り香があった。馴染みの無い、けれどもどこかで覚えのある匂い。
「あ」
 彼が残した香りは、今日初めて見た海の物だった。


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サークル名:インドの仕立て屋さん(URL
執筆者名:藤和

一言アピール
現代物から時代物まで、ほんのりファンタジーを扱っているサークルです。
こんな感じの歴史物風から現代物まで色々有ります。
いっぱい集めるといっぱい楽しいよ。

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