最大のミニマム

 人類が地球に住んでいた頃、少なくとも呼吸することは無料でできた。大昔の話だ。今は水を飲むことや灯りを点けることはもちろん、酸素呼吸――生きるという前提にさえ、何らかのコストがかかるようになってしまった。
 カノープス・スペーステクニカ社は、ご多分に漏れず社員寮をいくつか持っている。アルキメデス・シティには及ばないけど、ここネクタリス・シティにも人が増えて、家賃は値上がりする一方。難解な申請書類と格闘しなきゃならないとはいえ、社員寮は有り難い。
 寮は水や電気の使用制限が厳しくて、清掃当番やごみの分別にもちょっとうるさい。企業イメージは大事だからね。あたしは宇宙での勤務が多いから、毎日寮に帰るわけではないし、たいして気にならないけど。
 あれこれ文句を言ったって、メリットが大きいと判断しての入寮だから、みんな少々のことには目をつぶる。シャワーの使用時間が短いことや、メールボックスが小さいこと。それから……おっと、企業イメージを傷つけちゃうかな。
 でも、変わり者というのはいつの時代にもいるもので、相棒のユーリは「海のそばにいると落ち着くんだ。ヒトは海から生まれたからね」などとのたまって、地下二層、二番街にコンパートメント個室を借りている。
 彼の言う「ヒトを生んだ海」が、地球の水の海を指すのか、それとも地球そのものを生んだ星の海――つまり宇宙のことなのか、訊ねたことはない。どっちでも構わないけど。
 ユーリはあたしの幼馴染みで、小さい頃から強固なルールの中で生きている。水面に顔を浸けてはいけないとか、靴をはくときは必ず右足からとか、シャツを着るときは左腕から通すとか。全部を挙げれば相当な数になるはずで、さぞかし窮屈だろうと思うのだけど、ルールがないと不安だと彼は言う。
 二層二番街といえば、ひと仕事終えて宇宙港を出て、ユーリの金髪が低G下みたいに揺らめかなくてつまらない、なんて詮無いことを考えているうちに着く距離だ。家賃は推して知るべし。
 リフトを降りて、適当に買い物をしてからコンパートメントまで歩く。いつもと同じ、あたしにとっても家路と呼べるほどに馴染んだ道筋だ。ほとんど無言のままだけど、一緒に過ごす時間が長すぎて、もう沈黙なんか気にならない。同期の友だちなんかは、熟年夫婦かよって笑うけど、常に喋ってないと気詰まりだってほうが疲れない?
 おもちゃみたいなキッチンとリビング、宇宙船のキャビンと大差ないベッドルーム、棺桶並みに狭いシャワールーム。ままごとセットのような部屋だけど、彼の創意工夫で窮屈さは覆い隠され、びっくりするほど居心地がいい。
 コンパートメントに着いてまず何をするかといえば、テレビを点ける。宇宙にもニュースは配信されてるから、月に戻ってきて時代の変化に取り残される、なんてことはないけど、タイムラグなしに映像や音声を楽しめるのは、やっぱり嬉しいものだ。
 買ってきたお惣菜やサラダを開封していると、視界の端に赤いものが閃いた。緊急ニュースの通知音が静寂を乱し、ふたりして反射的にテレビに向かう。職業病だ。
 キャスターが強張った面持ちで電子ペーパーを手にしている。よくないニュースだ、と察して唾を飲んだ音が、やけに大きく聞こえた。

『接触事故 月軌道上 アストロニクス社の補給港大破』

 テロップが目に焼きつく。
 キャスターが原稿を読み上げると、画面が事故現場の固定カメラ映像に切り替わった。軌道港の事務局に設置されたもので、突然の衝撃、激しく振動する室内、アストロニクス社員の悲鳴、状況はと叫ぶ男性の声、外部と通信を試みるコール音――事故のショックと動揺が混乱へと発展し、パニック寸前にまで高まる様子がありのままに記録されていた。
 現場周辺を撮影したライブ映像は、青く眩しい地球、ひしゃげた軌道宇宙港のシルエット、それに半ばまでめり込んだ船の残骸、周囲に漂う漏出エアと大量のデブリ宇宙ゴミを鮮明に映し出している。控えめに言って、大事故だ。さっきの事務局だって、どうなっていることか。気密シャッターと防護壁の強靱さに賭けるしかない。
 喉がからからで、舌がうまく動かない。
 言葉を失って立ち尽くしていると、会社の支給品である携帯端末がメールの着信を知らせた。素早く手を伸ばしたユーリが、ニュースと同じ内容のメールが配信されてる、と震える声で呟く。
「出勤?」
「追って連絡するって」
 接触事故は大なり小なり起きていて、決して珍しいものではない。人類が地球で暮らしていた頃、水の海でも事故が絶えなかったように。海を隔てては暮らせないのも、まったく同じだ。
 ただ浮かんでいるだけに見える軌道港だけど、それはあくまで見かけ上の話で、軌道港も宇宙船も秒速何キロという速度で動いている。そんな運動エネルギーを持った数トン、数十トンの質量がぶつかりあうのだ。もちろん、ただでは済まない。
 船員や補給港職員の安否は伝えられていない。ニュースは周辺宙域の航行を禁止する旨、そして軌道上の港や船は高度を上げてデブリへの警戒を強めるようにと繰り返すばかりだった。
 あたしたち宇宙船乗ふなのりは、こういった事故の際に率先してデブリ処理を引き受ける義務がある。よその会社の補給港だから、今はオフだから、そんな理屈は通らない。接触事故で生じたデブリが周辺宙域の船にぶつかりでもしたら? 船は傷つき、またデブリが生まれる。そしてそのデブリが他の船にぶつかり……連鎖は、月軌道がデブリに覆い尽くされるまで続く。
 それはつまり、天蓋と化したデブリ群をどうにかする画期的な手段が実行されるまで、あたしたちがこの月面に閉じ込められるということを意味する。緩慢な死と言ってもいいだろう、月面だけでは都市機能を維持できないから。
 ほぼ間違いなく、出勤要請がある。帰港したばかりで、船はメンテに出しているけど、補給を受けただけですぐカタパルトに移されるに違いない。
 同じことを考えたのだろう、ユーリは開封したばかりの食べ物を実に芸術的な手捌きで片付け、ちらりと視線を投げて寄越した。
 携帯端末のコール音が静寂を揺らす。はい、と応じる彼の声は完全に落ち着いていて、衝撃的な事故の映像を見た直後だとは思えなかった。
「はい、すぐに出られます。……ええ、大丈夫」
 ふたたび投げかけられた視線を、今度はきちんと受け止めて頷いてみせた。きっと、バディであるあたしと連絡がつくかと尋ねられているんだろう。
「行こう、ほたるちゃん」
 ほんのわずかな時間で通話を終えたユーリは手を伸ばして、ほつれたあたしの髪を掬いあげ、きちんとひとつに束ねなおした。穏やかな笑みを浮かべる。
 笑っている場合じゃないでしょうと怒るのは簡単で、でも笑ってくれたことで力が抜けたのも本当で。
「ありがと」
 あたしもなんとか微笑んで、ちょっと汗くさいユーリのシャツにおでこを押しつけた。すぐに体を離して、でも名残惜しくて広い背を叩く。痛いよという抗議は放っておいて、肩を回した。
「さあ、仕事よ、ユーリ」
 部屋を出るにも、ルールがある。彼が水周りやブレーカーのチェックを(ルールに基づいて)している間、あたしは携帯端末を立ち上げて、事故関連のニュースに目を通した。
 そう、ユーリはルールを守らずにはいられないけど、あたしがルールを破ることは何の問題もないらしいのだ。
 無限に広がる星の海、暗黒の大海原で、ちっぽけな社用船にふたりきり。そんなストレスフルな状況でも、大きなトラブルもなく過ごせているのは、あたしの短気を彼の余裕とルールが補ってくれているからだ。
 彼のルールには、必ずあたしひとりぶんの余裕がある。そう気づいたのはつい最近のことだけど、それがどんなに幸せなことかはわかってるつもりだ。ルールの数と強制力を知ってるからね。
 宇宙船操縦免許を取り、船外作業員として採用されてから、心理テストやシミュレーション、ストレステストを繰り返し受けた。その結果でチーム編成が行われるのだ。さらには、宇宙服を着たら自動的にモニタされるバイタルのログまでも定時報告とともに本社に送られて、チーム編成の資料になる。
 こんな複雑な審査を何度も経ているのに、あたしはユーリ以外の誰ともバディを組んだことがない。ユーリもあたし以外の誰とも組んだことがない。一応断っておくと、編成に関与するのは特別部署のお偉いさんだ。
 あたしと彼の関係を何と呼べばいいのか、よくわからない。幼馴染みだろうと言われればその通りなんだけど。
 偶然。運命。奇跡。どれも、ちょっと違う。
「赤い糸、とか?」
 ユーリは冗談めかして小指を立て、紫の眼を細める。アンビリカルケーブルかもね、と返しておいた。
 それはあまりにも身近で、けれどかけがえのないもの。小さくて大きなぬくもり。
 ――ああ、そうだね、ユーリ。
 ヒトは海を隔てては生きてゆけない。海のそばにいると落ち着く。本当に、その通りだ。

 ミネラルとアミノ酸をシェイクした水。それはあたしたちに、ひどく近い。
 あたしたちは、海から生まれた、ちいさな海だ。


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サークル名:灰青(URL
執筆者名:凪野基

一言アピール
理屈っぽいファンタジー、文系SFを書いています。今回は初の再録、完売した「Candlize」より海の話を手入れしてお届けしました。同じ世界観のゆるいお話を短編集に掲載しています。ピピピと来た方はwebカタログをご覧くださいませ。

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