井の中の魔法の海

 およそ八年ぶりのメールがヨッちゃんから届いたのは、五限の授業が終わってちょうど大教室を出たときだった。記憶の奥底に沈み込んでいた名前を表示するスマートフォンの画面に目を落とし、一瞬だけ親指の動きを止める。
 ――今、東京の大学に通ってるんだ。急に懐かしくなっちゃってさ。近くに住んでるなら、今度久々に会わないか。
 そういう内容が、ヨッちゃんらしい簡潔な文章で記されている。僕は思案するように左手で顎を撫で、細く息を吐いた。けれど、本当のところは思案なんてしていない。込み上げる懐かしさや嬉しさといった感情を、少し落ち着かせたかっただけだ。
 僕は了承の返事を打ち込み、送信の文字をタップした。

 ヨッちゃんと出会ったのは、小学二年生のときだった。
 親の仕事の都合で幼い頃から引っ越しの多かった僕は、小学校生活二年目にして早くも転校を経験することとなった。引っ越し先は、茨城県にある小さな町。どこまでも広がる水田くらいしか見るところのない、田舎の町だった。転校先が田舎か都会かというのは関係のないことだったが、ともかく、僕は人並みに不安を覚えていたと思う。
 そんな僕に出来たクラス内で最初の友達が、ヨッちゃんだった。黒縁の眼鏡をかけ、良く通る声で話すヨッちゃんは、当時の僕の目から見ても頭の良さそうな子供だった。ヨッちゃんは転校初日から僕に声をかけ、途中まで一緒に下校する約束を素早く成立させた。町のこと、クラスの他の子達のこと。他愛もない会話を交わしながら歩いた後で、ヨッちゃんは別れ際に言った。次の休みに、連れて行きたい場所がある、と。僕はすぐに承諾した。
 清々しく晴れた土曜日の朝。ヨッちゃんに連れられて到着した先は、海だった。
 綺麗な海だよね。ヨッちゃんに言われて、僕は頷いた。まばらに建つ民家と水田の間を通り抜けた先にある、信じられないほど広大な水面みなも。左右を見渡すと、遠くで岸が海へとせり出しているのが見え、ここが丸みを帯びた湾の奥だということが分かった。視界一杯に伸びる水平線はどこまでも真っすぐで、その向こうに続く無限の海原を想像させる。家の近くに海があるということすら、僕は知らなかった。
 海岸すれすれを走る人気のない片側一車線道路を渡り、砂浜に足を踏み入れる。砂浜と言っても、波打ち際まで小学生の足で十歩とかからない小さなものだったし、砂には石が多く交じっていて見た目も悪かった。それでも、人生で初めて海を見た僕は、一定のリズムで優しく打ち寄せる波に心を奪われた。
 この海は、魔法の海なんだ。ヨッちゃんはそう言った。どうして、と僕が訊ねると、ヨッちゃんは答えず僕に質問を返す。この浜辺を歩いて行ったら、どこに着くと思う、と。僕は戸惑った。町のことすら良く知らないのに、町の外のことなんて答えようがなかった。何も言えないのが、少し悔しかったのだろう。僕は、とにかくどこか遠いところに着くんだよ、と言った。
 そう思うよね。ヨッちゃんが、我が意を得たりとばかりに笑った。でも、違うよ。この海は魔法の海だから。たまに、砂浜をずっと歩いていると、どこか遠い別の場所に着くはずが、いつの間にか元いた場所へ戻って来てしまうことがあるんだ。もしそうなったら、その人はラッキー。願い事が、何でも一つだけ叶うんだって。僕達も、今から試してみようよ。
 僕はヨッちゃんの話を信じきってはいなかったが、その提案を却下しようとも思わなかった。木の棒を拾い、目印にするための文字を砂に書きながら、ヨッちゃんは僕に訊いた。
 願い事、何にする?
 僕はぼそぼそと答えた。
 学校で、友達が沢山出来ますように。
 ヨッちゃんは、今度は笑わなかった。ヨッちゃんの願い事が何だったのかは、聞きそびれてしまったので分からないままだ。
 結論から言えば、魔法は存在した。
 砂浜を歩き、時々休憩し、歩き、持って来た昼ご飯を食べ、歩き、また歩き、ひたすら歩いた。がらんとした砂浜、薄く青みがかった海、静けさに包まれた道路。道路の向こうにも相変わらず水田が広がるばかりで、人家は一軒も現れない。辺りには高い建物も山もないので、自分達がどのくらい移動したのかも分からない。ずっと変わらない景色の中で、だんだんと日没が近付く。僕もヨッちゃんもすっかり疲れきった頃、ヨッちゃんが突然叫んだ。
 駆け出したヨッちゃんに追い付いた僕が見たのは、橙色の夕日に照らされた砂の上の文字だった。
 ――スタート。
 僕達は大喜びで家に帰った。そして、魔法の海のご利益かはともかくとして、それから僕にも次々と新しい友達が出来た。けれど、ヨッちゃんが一番の親友だったことは変わらない。だから、たった一年で再び転校することになってしまった僕は、ヨッちゃんにだけ引っ越し先の住所と電話番号を伝えた。たまの電話と年賀状のやり取りは何年か続いた。五年生になり携帯電話を買ってもらったときには、メールアドレスも交換した。それでも、中学に入る頃には互いに連絡をすることもなくなり、僕の中のヨッちゃんは次第に思い出になっていった。
 時間の流れに逆らい続けることは、とても難しい。
 僕はそのことを知っているし、多分、ヨッちゃんもそのことを知っている。

 午後一時五十五分。駅前の高層ビルの一階にある、チェーンの喫茶店に入る。アメリカーノの載ったトレイを受け取り、店の奥へ。赤いフレームの眼鏡をかけて茶色のジャケットを羽織っているというその人物は、一瞬で見つかった。
「よ、久しぶり」
 タブレットから目を上げたヨッちゃんが、軽く手を挙げる。その声や表情はすっかり大人のそれになっていたが、あの頃の賢そうな顔立ちは今も変わっていない。
「久しぶり、ヨッちゃん」
 挨拶を返しながらヨッちゃんの向かいに座ろうとして――僕は、ヨッちゃんの隣にいる人間に目を向けた。ヨッちゃんは、二人席ではなく四人席に座っていた。
「あ、こっちは大学の先輩。親切な人でさ、いつも何かとお世話になってるんだよ。そこの道で偶然会って、折角だから話をしてたところ」
「……へえ、そうなんだ」
 すぐに、その先輩がにこやかに自己紹介をする。いかにも爽やかな好青年といった感じだ。
「まさか、ヨッちゃんも東京に住んでるとは思わなかったよ」
「高校を出た後、下宿して来たんだ。やっぱり、都心の大学に行きたくてさ」
 しばらくの間、近況報告とそれに関連する雑談が続いた。ヨッちゃんは、大学で経営を学んでいるそうだ。将来はCEOか、なんて軽口を叩くと、ヨッちゃんは頬を掻きながら曖昧に笑った。
 会話が一段落し、僕はアメリカーノを口に含む。すると、ヨッちゃんが不意に真剣な表情を見せた。
「ところでさ、俺、最近面白いビジネスを始めたんだよね」
「どんな?」
「簡単に言うと、生活用品の通販みたいな感じかな」
 さっきまでよりも饒舌になったヨッちゃんは、そのビジネスに関する説明を始めた。僕は、微笑みながらその話を聞く。ずっと黙って僕とヨッちゃんの会話を聞いていた先輩も、自然な流れで話に入って来る。僕は、先輩の言葉にも笑顔で頷く。労働収入より権利収入。ヨッちゃんの先輩が何度も強調した言葉だ。ヨッちゃんの口にした会社が、マルチ商法で有名な企業だということを僕は知っていた。
「俺は目覚めたんだよ」
 ヨッちゃんが熱っぽく主張する。
「井の中の蛙大海を知らず、って言葉もある。世の中、知らなきゃ損することばかりだ」
「話は変わるんだけどさ」
 穏やかな声色を崩さず、僕は訊ねる。
「僕がヨッちゃんと同じ小学校にいたとき、近所の海に連れて行ってくれたことがあったよね。覚えてる?」
 唐突な質問に、ヨッちゃんは当惑の表情を浮かべた。
「いや……。そもそも、あの町は海に面してないだろ?」
「ああ、そうだったね。ごめん、今のは忘れて」
 三分の一ほど残っていたアメリカーノを、一気に胃へ流し込む。過剰な苦味が喉にこびり付き、僕はわずかに顔をしかめた。
「じゃあ、僕はもう帰るよ」
「え?」
 ヨッちゃんが素っ頓狂な声を上げる。先輩が、ヨッちゃんに睨むような視線を向けた。それに気付いたヨッちゃんは眼球を忙しなく動かし、ずり落ちてきた赤い眼鏡を押し上げる。
「ヨッちゃんは将来、大物になれると思うよ。僕やその先輩には想像も出来ないような大物にさ。だって、ヨッちゃんは昔から頭が良かったから」
 トレイを持って立ち上がり、二人に背を向ける。
 ヨッちゃん、僕はもう何年も東京にいるし、高校生の頃から月に一度は新宿の映画館へ出かけていたんだぜ。その僕が、ヨッちゃんよりも世間知らずなはずがないじゃないか。

 喫茶店を出て駅へ向かい、電車に乗る。自宅とは反対の方向へ行く電車だ。何度か電車を乗り換えて目的の駅に着く頃になっても、ヨッちゃんからの連絡はなかった。
 無人の木造駅舎を出た僕は、見覚えのある景色を眺めながら早足で進み、やがて歩みを止めた。靴底の下に小石交じりの砂を感じながら、眼前の水面に目をやる。夕日を反射してきらきらと輝く湖面は、十二年前とまるで同じ光を放っているように感じられた。
 賢くなることなんて、本当に簡単だ。この町にほぼ完全な円形の湖があるということを、今の僕は知っている。水平線までの距離は三平方の定理を使えば簡単に求められるということも、そしてその距離が案外近いということも、今の僕は知っている。けれど、十二年前のヨッちゃんが湖のことをどこまで知っていたかどうかだけは、今の僕にも分からなかった。
 僕は湖の対岸をじっと見つめながら、中腰になる。対岸が水平線の向こうに消え、湖は再び魔法の海へと姿を変える。でも、その単純な現象に意味はない。
 対岸が見えなければ、そこで手を振っているかもしれないヨッちゃんの姿を見ることも出来ないのだから。
 そうだろう、ヨッちゃん?


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サークル名:虚事新社(URL
執筆者名:田畑農耕地

一言アピール
作家・編集・デザイナーの3人組文芸サークル、虚事新社です。今回の作品に何かしら好意的な感想を抱いてくださった方がいらっしゃいましたら、準新刊(テキレボ初出し)の長編小説『なお澄みわたりパシフィック』を是非どうぞ。そのほか、既刊として短編集『忘れえぬ生涯』などがあります。

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