ひとり島

 カンカンカンと、くもりのある高い音が響いてきた。おや、と、首をかしげながら軒をのぞくと、今年六十五になる父親が、かんなの尻を叩いて刃を調節していた。
「なにしとるん?」と、尋ねたあとで、丸太のようなあぐらに隠れていた鰹節を発見した。
「納屋から出てきた」
「なん年前のなん、それ」
「さあ? ええ鰹節やな、ひとり島に祀るような」
 私がまだ小学生だったころは、村は遠洋漁業で成り立っていた。村の男らがとってきたかつおを女らが炊いて鰹節をつくる。村は、どこでもかつおを炊くにおいがして、村人の体にもそのにおいは染みついていた。そんなにおいも、ほとんどかがれなくなったが、ときどきふっと、かつて充満していたむせかえるような生臭い蒸気を感じることがある。
 かんなを目の高さに持ってきて、水平に眼差して刃をたしかめると、
「さて」
 と父がつぶやいた。漁師ばかりのこの村で、郵便局の局員だった父は、年の割にはひどく若い。おかげでやわな扱いを受けているが、村の男が南洋へ漕ぎだしているあいだ、村の数少ない男手として、父はことあるごとに駆り出された。それも、昔の話だ。
「Мももうすぐ帰港やろ」
 父の隣で私は新聞を広げ、航海の通信欄に目を通す。
――升連丸 風良く進路順調
 予定通りの入港だ。清水行きの新幹線の手配をしなくてはならない。
「こっち来るんか」
「たぶんな。――ひとり島、いきたいな」
 父が鰹節を削り始めた。出汁をひいているときには気づかないが鰹節は黴臭く、角ばった匂いがする。
「おぼえとる?」
「なにを」
「遠泳大会のことさ」
「ああ、あったな。あのときは、さすがにおまえらふたりとも死んだと思たわ」
 父は、手元に視線を注いだままだった。五指のそろった拳骨を食らったのは、あの時が最初で最後だった。

   ***

 ひとり島は、村の浜の南西に位置する小さな無人島だ。テトラポットの向こう側に、ポツンとひとつ浮かんでいる島は、江戸時代の地図を見れば村と地続きで小高い山だったことがわかる。この山が、島になったのはなんとかいう大地震のあと、つまり、津波によって村の半分が海に沈んでしまったためだった。今、私たちが棲んでいる場所は山だった。土地を海に飲まれてしまってから切り開かれた土地だ。
 ひとり島には小さな社がある。年始に奉鰹祭をする。ホウケンサイ――祭りの起源は新しく、江戸末期に始まった。村を臨んで建つ社に前年の一番出来のいい鰹節を奉納する祭。
 夏にも祭りがある。村の中学校の遠泳大会を兼ねて、白い浴衣を着た中学生に島までの速さを競わせる。一番乗りの生徒は社から鰹節を取ってきて海に投げ入れるのだ。奇祭として取り上げられることもない、体育祭のような行事だ。
 件の遠泳大会の日、私は十三であった。三月三十一日生まれのMはまだ十二だ。開会式の体育教師の、異変があれば無理せずすぐに助けを求めること、という訓戒を聞き、互いを小突きあっていた。
 おざなりな準備運動ののち、上級生から順に海に入った。
 五月の海は気温のわりに水温はぬるい。自信のない級友たちを横目に私とMは入水した。白い衣はすぐに水を吸い、手足にまとわりつく。普段、水中で俊敏に動く体は、浴衣のせいで手足に海藻が生えたように波や海中のうねりに翻弄される。いわしの群れのような生徒の塊を私たちはすぐに追い越す。脱落者は一年生だけでなく三年生からも幾人も出る。
 目と鼻の先ほどの島とはいえ、着衣水泳は酷だ。私とMだとて自力でといわれれば厳しい。そこで潮流だ。ひとり島へ向かう潮にのれば体力を使わずに往復できる。生徒の大半は潮の存在を知っているが見極めが難しい。私はMについてゆく。彼は海のうねりと潮目を知り尽くしていた。
 ちょうど半ばまで来た頃だ、先にもぐったのはMだった。島を目指す潮でなく海底へ沈んでゆく冷たい潮流があった。海藻の森をかき分けて、十メートルほど。
 視界がひらけると、そこは砂地。村と私たちは呼んでいる。建物は朽ちてなくなっているが、住宅の基礎の部分や、井戸はまだそれとわかる形をとどめているので。村では誰もが知っていることだった。
 不思議なことに村までたどり着くと、目玉や臓腑を押しつぶす水圧や競り上げてくる息苦しさがなくなった。
 これは江戸時代には陸地だった集落だ。砂色のイソギンチャクやフジツボのついた井筒も、朽ちた大黒柱も。津波に沈んだ集落は、アワビやサザエを探しに潜る磯よりも、ずっと殺風景でつまらない。だが、皆が生真面目に遠泳をしている間に、寄り道をしている背徳感が快い。
 海藻の庭木のそよぐ庭先を、アワビの隠れ家になっている辻の地蔵を、私たちは泳ぎ抜ける。――ト。
 鼻腔に鰹節を炊くにおいが香った。
 水中だ。
 においを感じるなど、ありえない。それも、火を使ったにおいなど。Mがあたりを見回す。かれもその匂いを感じたのだろう。
 匂いは家屋跡から漂っているようだ。私もMも、そちらのほうへと水を掻く。濡れた浴衣が重い。そして、寒い。
 Mが振り返る。そして、ごぼり、と空気を吐いた。苦しそうに喉を掻きむしる小さな体に泳ぎ寄ろうとして、私も、肺にためていた空気を吐き出してしまった。
 見えたのは、鮫。それも、大群だ。なますやさめのたれにするドチザメだけでなく、ナヌカザメやアオザメもいる。ゴンズイの群れのように大きな塊になって、私たちめがけて泳いできていた。
 逃げなければ。
 海の異変で、一番してはいけないのがもがくことだと知っているはずのMが恐怖で、足をばたつかせている。あれではだめだ、沈む。私は、Mの後ろに回り込んで、わきの下に腕を差し入れて抱きかかえると、水面を目指した。
 体が重い。――浴衣だけでなく、肺の空気を失ったことも要因だ。
 ごつん、ごつんと体に鮫の鼻先が当たった。アオザメの鋭い歯の口に、ひ、と悲鳴を上げかけて水を飲んだ。塩辛さも感じない。ただ、鮫の肌のざらざらとして痛いことと、浴衣が足に絡みつく恐怖ばかりを感じていた。鮫は、私たちに向かって次々に突進してくる。
 たった十メートルの海面が、遠いと思ったのは後にも先にも、あれきりだ。
 海面に顔を出した最初の一呼吸は、潮だった。せきこむ私の横っ面をやすりのような鮫肌が引っ掻いた。海面にも鮫は無数にいて、私たちには逃げ場がなかった。鮫の群れは津波になって私たちを押すようにひとり島に運んだ。

   ***

 ひとり島には、生徒は誰も到着していなかった。なんとかMをはなさずに陸地に連れきたが、親友は蒼白な顔で動かない。口から息を吹き込んで水を吐かせたが、呼吸は浅い。――助けを求めてくちぶえを吹こうとして、塩からい息を飲みこんだ。砂浜には、ぞろりと頭をならべて鮫がいた。うつろな丸い目。鋭くギザギザな一度食いつかれたら肉を食いちぎられるしか、逃れられない歯。ひ、と今度は悲鳴を漏らせた。しりもちをつき、後ずさりしかけたが、気絶しているMを放っておけず、引きずって波打ち際から遠ざける。潮が引いている。満ちてくればMを横たえているここにも潮が来る。食われる。
 土手にあがれば潮は来ないが、気を失った親友は陸では重い。Mの体を土手に上げることができなかった。畜生、畜生と何度も怒り狂い、鮫の群れに石や貝殻を手当たり次第に投げた。その中には、白地に青色の模様のある石も混じっていた。柄石、と私たちは呼んでいた。茶碗などの破片だ。――そう、海に沈んだ村の、人々が使っていた。
 鮫を追い払おうと投げる石もなくなって気づけば私の足を、波が濡らしていた。潮が満ち始めていた。
 ――逃げなければ、と私は思う。Mを置いて? なんども首を振る私の鼻に、また、鰹を炊くにおいがかおった。
 社まで走った記憶はない。遠泳大会で一番乗りに島に上陸したものは、社まで行かねばならない。そして、社に祀られている鰹節を取って、海に投げ入れる。そんなことは忘れていた。
 大昔から鰹節を炊いて生計を立てていた村だ。津波で土地の大半を失っても、村人は、かつおを炊きつづけた。そのにおいは、村の大気であった。祭が始まったのは、津波で村が沈んでしまってからだ。
 無我夢中で社からひっつかんできた鰹節を、私は鮫の群れに投げつけた。
 さあっと、波が引くように、鮫たちが去ってゆく。去っていった。

 迎えの船が来たのは日暮れ前だった。鮫の群れが出たから、遠泳大会は中止になったと聞かされたのは船に乗ったあとで、島を目指さずに寄り道をしていた私とMを、教員たちは見つけられなかったのだという。学校でこっぴどく叱られた後、私は父にも拳骨を食らった。
 ――苦い、苦い思い出だ。

   ***

「ん」
 と、父が削りたての花かつおをひとつまみ、差し出した。懐かしい、懐かしい味がする。村の味だ。
「Mちゃん迎えに行く用意するわ」膝に手を当てて立ち上がる。「ひとり島いっしょに行ってくれるやろか」
「海はもう見たないんちゃうか」
 遠洋漁業船に乗っていったツレらはみなそうやと父は寂しそうにつぶやく。毎日海に潜っていても、毎晩陸で眠る私にとっては、海はやはり特別なものだ。Mには、もう、食傷気味なものかもしれない。
「話したいことあるから」
 鮫の大群を気を失っていたMは見た覚えがないという。だが、私は、Mとひとり島へ行きたいと思った。
「なあ、まだ村のあとあるんか」
 父がつぶやく。漁師たちの船の下の舞で金を稼ぐ私とちがい、父は、今の村の海底を知らない。
「あるよ」
「そうか」
 短い返事だった。父は、鰹節を見つめていた。かつお船に乗り、一年のほとんどを海の上で過ごす男らとは違い、父は、村に満ちていた鰹節を炊くにおいが薄れてゆくのを、感じながら老いた。
 Mはひとつき、ふたつき滞在し、また海に出る。かつお船に乗るものも、今では村ではMと、定年前の数人になった。
「花かつお、パウチにしたるから、荷物に入れてけ。Mにも食わしたらんせ」
 父の、穏やかな声に、私はうなづく。


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サークル名:ヨモツヘグイニナ(URL
執筆者名:孤伏澤つたゐ

一言アピール
ファンタジーや幻想小説をつくっているサークルです。2018年1月刊行の語り直し日本神話合同誌『常世辺に帰す』ほか既刊にて委託参加です。もしかしたら新刊あるかも

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