海景

「おーっ、この景色を見ると、帰ってきたって実感湧くなあっ! ……メルっ!」
 桟橋をドカドカ踏みならす音に、ああ、ヤツがまた来たか──と、メルの口から溜息が零れる。それに連れて小柄な彼女の足下の板越しに、海までも所在なさげに波打って感じた。
頑丈な丸太に支えられている、海へと突き出た桟橋の上に作られたちいさな小屋の前に、メルはぽつねんと立っていた。うっかり歩を踏み外せば、たちまち幾重もの青と、美しさに相反する苦い塩をこれでもかとブチ込んだような海に総身をくまなく洗われることになる、ちょっとばかり危ない場所であるにも関わらず。
「……また何しに来たんだ、ランカイ」
 燃えるような赤毛が目立つ、用心棒くずれめいた容姿の来訪者を、メルはじっと睨む。
酒が好き、ヴァイオリンはその数倍も好きで、陽気にも程があり過ぎるかつての許嫁は、旅の伴侶にメルではなく、祖父譲りの一挺のヴァイオリンを選んで、このちいさな港町を離れていった──はずなのに。
「『ヴァイオリン一挺で世界を巡る! その旅が終わるまで俺は再び故郷の土を踏まない!』 ……なんて息巻いていた割に、ちょくちょく帰ってくるな」
「あーっもうメル、そこは『お帰りなさいランカイ、わたし、寂しかったの』ってカワイく出迎えて──」
 ランカイの口説を、メルは固く握り締めた拳ひとつ繰り出し、封じた。
「袖にした相手に今更の優しさを求めるなどクズの極み」
 唐突にランカイに去られ、耳にしたくない噂話で港町が持ちきりになっても、メルはこの町からも、海からも離れないとひとり誓っていた。寄せて返す海、砕ける波飛沫。見慣れているようで、けして同じ像を結ばない海は、幼い頃からランカイと見てきた景色で、これからもずっと二人で見続けられると、メルは信じて疑いもしなかった。それなのに彼は故郷を後にしてしまい──自分だけが思い出の海に背を向けられないことに気づかされた、その分だけ、メルはつよくなろうと決意したのだ。
 ……強くなりすぎた感は否めないが。
「まったく、帰るたびにどんどん拳が硬くなって」
「そうさせているのは誰のせいだ、まったく」
 メルの、肩まで伸びた栗毛色のゆるやかな髪が、ふわりと波打つ。
「……とりあえずビールで良い?」
 我ながら甘いな、と思いながら、そう問いかけるメル。
「俺、メルのそういうトコ大好き」
「調子に乗るな」
 憎まれ口を叩きながら──メルは、ふと微笑んでいた。

「……それで、今回は」
 ざざ、と砂浜を洗う波の音を遠くに聞きながら、メルはランカイに尋ねる。
「おー……今回の土産は、こいつな」
 大柄な身体をもぞもぞさせ、ランカイが洗いざらしのジーンズのポケットから取り出したのは、ひとかけらの宝石だった。春の陽光に一瞬照らされ、海波の先にほんの一瞬浮かんだような薄水色の石に、メルがふう、と息をつく。
「またアクアマリンか」
 わたしの誕生石──と言いかけたメルに、ランカイが笑う。
「どうしても、あちこちで目につくんだよな。それにさ……『海に連れていってくれ、そこで解いてくれ』なんて、か細い囁きが聞こえちまったら、お願いごとを聞いて叶えてやるしかないような気が毎回しちまって」
ああ、とメルが得心した。
「そのたびにわざわざここまで戻ってくるなんて──ご苦労なことだ」
「まあ、俺としてはメルに会いたかったから、ってのも、もちろんあるけどね」
 また調子の良いことばかり、と伸ばした拳を、今度はランカイがすっと上体をそらしてかわす。大きな手のなかのアクアマリンが、かすかに身じろいだと見えたのは、気のせいだろうか。
「でも、俺が知ってるなかでいちばんキレイな海ってのは、やっぱここしか思い浮かばないんだ。笑っちまうだろ? ヴァイオリンと連れ立って、あっちこっちの海を巡っているのにさ」
午後の傾く陽の光が、波濤の白と、その下に潜む青を複雑な重ねに染め上げる。
 ランカイはくるりと踵を返し、右手にアクアマリンを、左手にヴァイオリンを取り、桟橋の端ギリギリに石を置いた。
「お前さんはどうだい? ここが、見たがっていた海のイメージに重なってくれりゃいいんだが」
 返る答えは、ない。けれど、ランカイが満足そうに笑む横顔を、メルは満更でもなさそうな表情で見つめていた。
「さて、始めるか」
 ランカイが手にしている、一挺のヴァイオリン。塗り手の異なるニスが琥珀と飴色の複雑な融合を成しているそれを、ランカイは無造作に構え──容貌に似合わぬ繊細な手つきで、弓を弦へと落とした。
 波の、否、深い深い海の奥から、こぽりと湧いたちいさな泡沫が、ぷつりと消えるさまを想起させるあえかな音色。たゆたいながら、遠い記憶を──懐かしい、と言えるところまで昇華された想いを、やさしく目覚めさせてくれるような旋律。
 メルの右目から、ふいにひとつぶの涙がしずかにこぼれた。そこにゆるやかに吹きつけた悪戯風が、涙をさらって、海へとまぎらせる。
 このアクアマリンは──
 どんな想いを抱えて、でも、抱えることに耐えかねて、ランカイに救いを求めたのだろう。酒とヴァイオリンが何より好きで、でも、それ以上にまつわる由来や曰わくに負けそうになっているものたちに好かれやすい、かつての許嫁に──どうして、縺れ絡まった想いを解く場所に、海を選んだのだろう。
 ……まるで。
 ランカイの奏でる音が、ゆっくりと海に消えていく。あまりに淡い残響を、メルはずっと、ずっと遠くまで追いかけるように耳をそばだて──波の音だけが二人の間に戻ってから、やっと口を開いた。
「どうしてアクアマリンばかり拾ってくるの?」
 先刻と打って変わってやわらかい口調と声音に、ヴァイオリンを肩から外したランカイが眩しそうに目を細める。
「……お前の分身だから、かな」
 そのまま子どものように、くしゃっと笑顔を浮かべようとしたランカイ──だが。
「まだガキの頃に、メルと手を繋いで一緒に見た真っ青な海。親を流行病で喪ったときの、どんよりした灰色の海。互いのことをもっと深く識ったあとに見た、夜明けの真っ赤で、息を締め上げられそうなほどの海──どんな時も隣にいたのは、確かにメルだった。
そのお前がさ」
 いつもは闊達極まりない彼の表情は、
「俺の知っているメルの姿は、本当はもうとっくにこの世界のどこにもなくて……この指で触れることも、抱きしめることも叶わないなんて信じられないでいるんだよ。俺は、今でも」
 求めるものがすでに無いことを知りながら、それは在ると無理矢理信じようと己に言い聞かせながら、むきになって宝探しをする子どものような、泣き顔へと変わっていった。

 ああ、このアクアマリンは……
 ようやく合点がいった、そう告げるメルの溜息と同時に、小柄な身体は蜃気楼のようにあやふやな線を揺らがせていく。陽光がゆっくりと幻を解いていくさなか、メルは記憶を紡ぎ出す。
 刻々と色を変える青と、二人で見た海の記憶に蓋をできないなら、桟橋の小屋でランカイを待とうと、つよくなろうと誓いながら──受け止める相手は近くにいず、ただくるしくつのるばかりの想いと溜め込んだ涙は、いつしか心のなかで塩をとどめた海へと変わっていた。そしてあるとき、とうとう溢れてしまったそれは、ランカイを抱きしめた記憶があざやかにこびりつく小柄な身体を押し流した後で、いくつものちいさな石へと変じ、ランカイの歩む世界にばら撒かれてしまったことを。

「ランカイ」
 あのとき、このちいさな港町でヴァイオリンを日々鳴らすだけで満足していたら──と、うずくまって嗚咽するランカイの赤毛を、潮の香が濃い大気に溶け込んだメルが、やさしく指先で撫でる。
「それでも、あなたは戻ってきてくれる。わたしの心のかけらに出逢うたびに、二人で見た海のある、この港町に」
 でも、それじゃ意味がない。そのことに気づかなかった俺はどうしようもない馬鹿だ。
くぐもるランカイの声に、メルは陶然と囁いた。
「わたしは、ここでずっと待っているわ……砕けてしまったわたしのこころのかけらを携えて、あなたがまた、この海を訪れてくれるのを、ずっと」
 

 ──午後の陽が傾くなか、港町を訪れた人が目にする光景。
 海に突き出た桟橋の先に、ちいさな小屋がひとつ。誰住むことなく寂れた家の前で、赤毛の男があふれる涙もそのままに、ヴァイオリンを弾いている。懐かしいひとの名を、いとおしげに囁きながら、ひとりきり奏でるその曲は──海が行き着く果てに成す泡沫めいてはかなく、脆い。


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サークル名:絲桐謡俗(URL
執筆者名:一福千遥

一言アピール
はじめまして、絲桐謡俗の一福千遥と申します。
筆の向くまま気の向くまま、洋の東西飛び越えて、ほろ苦い幻想風味短編を書いています。
どうぞよろしくお願いします。

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