ホマレ
その日も少年たちは連れ立って釣りに出掛けていた。皆それぞれに自分専用の小舟を出し、思い思いの場所で釣り糸を垂らしては釣り上げた魚の大小や珍しさを競って楽しんでいた。
彼らにとって朝父親たちと漁に出る海と昼過ぎに友人たちと遊びに行く海は別物だ。場所は同じだが心構えが違う。朝に獲る魚は母親や姉妹たちを食わせるためのものだが、昼に獲る魚は仲間内で見せびらかして遊ぶためのものだ。
「見ろよ! こんなでっかいのが釣れたぜ!」
少年のうちのひとりが立ち上がって言った。見ると彼の手の平ふたつ分ほどの大きな魚が掲げられていた。
オグマはすぐさま「すっげー!」と叫んだ。オグマにとって釣りは遊びであり本気で競うものではない。自分より大きな手柄を立てた相手に嫉妬する必要はないのだ。仲間を手放しでたたえた。
オグマの兄であるアラクマにとってはそうではないようだ。彼は面白くなさそうな顔をして釣り竿を振った。先ほどから磯の一ヵ所を占拠して動こうとしない。オグマはそういうアラクマが好きではなかった。アラクマは頑固で負けず嫌いの面白くない奴だ。そんな顔をするくらいなら最初からついてこなければいいのにと思う。
しかしアラクマのことをそんなふうに思っている人間は少数派のようだ。
双子のアラクマとオグマより五つ年少の九歳であるイサナは、アラクマをとても無邪気に慕っていた。どうやらアラクマの意地っ張りなところを意志が強くかっこいいと評価しているらしい。年長の少年たちの遊びへの同行を許可された時はいつもアラクマにまとわりつく。何かあるごとにアラクマを褒めたたえて「アラクマみたいな男になりたい」と言う。それがまたオグマからしたら面白くない。
今回もそうだ。
「ねえアラクマ、そっちは釣れる? おれもそっちに行ってもいい?」
言いながらイサナは自分の乗っている舟をアラクマの舟へ寄せようとした。
だがアラクマがいるのは潮の流れが複雑な磯だ。アラクマの腕があるからそこにとどまれるのである。
イサナの舟が突然転覆した。
最初のうちはふざけているのだと思っていた。海辺で生まれた彼らにとって海へ落ちるのなど日常茶飯事で騒ぐことではない。
しかし、いつまで経ってもイサナは舟へ戻ろうとしなかった。
「おい、本気で溺れてるのか」
誰かが言った。
皆が手を止めた。誰もが沈黙して近くにいる誰かと顔を見合わせた。
イサナが静かに沈んでいく。かろうじて海面から出ていた手がそのうち見えなくなった。
まずい。イサナを助けなければならない。
オグマは急いですぐ近くまで移動した。櫂でイサナを殴らないよう慎重に、だが渾身の力を込めて舟を寄せた。潮の強さに腕の肉がきしんだが耐えた。
「イサナ!」
浮くことができないのだ。慌てているのかもしれない。彼はまだ小さくて海底に足が届かない。
オグマは跳び込んだ。誰かが「オグマ!」と叫んだのが遠くに聞こえた。
透き通る水の中で、イサナの周りだけが白く泡立っていた。魚たちがイサナを避けて海藻の林の中へ逃げていく。陽の光が差して底を照らす、その美しさも今ばかりは構っていられない。
イサナの体を抱き締めた。
イサナはまだ何が起こったのか分かっていないようだ。足をばたつかせて逃げようとする。その力が思いの外強い。押さえられない――抑えられない。
このままでは浮けない。
さすがのオグマもイサナが気づくまで息が続く自信はなかった。しかも胸や腹を蹴られて痛む。
オグマの口から大きな気泡が漏れた。
どうしたらいいのだろう。
とりあえず一度浮き上がって――イサナから手を離すのか、もしかしたら今にも息が止まってしまうかもしれないのに――だが一緒になって溺れるのは賢いやり方ではない――さてどうするのが正解か。
その次の時だ。
突然、イサナの動きが止まった。
とうとう力尽きたかと思ったが――
イサナの左手が、オグマの肩をつかんだ。
イサナの体が浮いた。
オグマも海面から顔を出した。
イサナは右手で縄の輪をつかんでいた。縄をつかんだことで安心したのだ。
右手で縄の輪を握り締めたまま、左腕をオグマの首に回して、大きな声で泣き出した。
泣けるということは元気が残っているということだ。
胸を撫で下ろしたのも束の間だ。
イサナの右手にある縄、その続く先を見た。
縄を握っていたのは、アラクマだった。アラクマが投げたのだ。
誰かが言った。
「すげえやアラクマ!」
それを皮切りに誰もがアラクマをたたえ始めた。
「やっぱりアラクマは頭がいい」
「こういう時に落ち着いていられるのもアラクマだよな」
「アラクマがいてくれてよかった」
オグマはイサナを抱いたまま呆然とするしかなかった。
浜に辿り着くと、騒ぎを聞きつけた一族の者たちが詰めかけていた。
人の波を掻き分けてイサナの母親が飛び出してきた。
イサナは母親の姿を見つけると駆けていって勢いよく抱きついた。先ほどまで溺れて死にかけていたとは思えない元気さだ。
「アラクマが助けてくれたんだ! アラクマがなわを投げてくれたから助かったんだよ!」
イサナがそう喧伝する。周囲を囲んでいたおとなたちはそんなイサナの言葉を鵜呑みにして頷く。
「そう、さすがアラクマ」
「こどもたちはみんなアラクマに任せておけば大丈夫ね」
「やはりこの子たちの代の族長はアラクマだ」
アラクマが舟を浜に上げて固定し終えると、おとなもこどもも皆がアラクマを囲んだ。
その様子を、オグマは少し離れたところから眺めていた。
アラクマはまったく濡れていない。汗ひとつかいていない。
自分はずぶ濡れで、しかもとても疲れている。
圧倒的な敗北感だった。釣れないことよりずっとつらく悲しく悔しかった。
泣きながら我が子を抱き締めるイサナの母親の肩を、女の華奢な手が叩いた。
首に幾重も貝の首飾りをさげ、長い髪を高く結い上げて櫛を差しひとつにまとめている。大きな目にはまだ若さが感じられるが、穏やかな笑みはどのおとなよりも落ち着いていた。
「無事でよかったです」
星見の巫女ククイだ。
ククイはゆっくりとした足取りでアラクマに歩み寄った。アラクマは手にしていた縄を舟の中に放り込み、まっすぐ立ち、ククイに向かい合った。
「さすがですね、戦士アラクマ」
アラクマは何も言わなかった。普通のこどものように照れていた。ククイと目を合わせないようにうつむく。それから頷く。
ククイは泰然と微笑んでいてそんなアラクマをとがめなかった。アラクマの裸の胸、成人の儀の前に入れた刺青を撫でるように手を置いた。
「あなたは我々一族の誇りです。これからもその判断力を磨いてこどもたちの手本とおなりなさい」
アラクマがようやく「ああ」と呟いた。小声だったがククイには届いたようだ。彼女は満足げに頷いた。
「それでは、夕食の支度を始めましょう」
ククイのその言葉を聞き、浜に集まっていたひとびとがそれぞれ自分の家に向かって歩き出す。イサナも、イサナの母親も、一緒に釣りへ出ていた少年たちも、皆めいめいに自分の目指すところの方を見ている。
オグマを見ている者はいない――そう思っていた。
「オグマ」
気がつくと、ククイが目の前に立っていた。
差し入る夕陽が彼女の滑らかな頬を照らす。波の音だけが聞こえる。風は穏やかに潮の香りを運んでいる。
ククイはオグマに向かって微笑んでいた。
「最初にイサナを助けようとしたのはあなたですね」
そう言われた途端、
「あなたも一族の誇りです」
視界が歪んだ。
強い戦士の男が涙を見せるものではないと頭では分かっているのに、止められなかった。
言葉が出なかった。歯を食いしばっていたから、もある。けれどそれ以上に、何も頭に浮かばなかった。
誰も見ていないわけではないのだ。
自分の口元を押さえて下を向いたオグマの頭を、ククイの手が撫でた。
「あなたの勇気もたたえましょう、戦士オグマ。あなたも立派です」
そして「ただし」と続ける。
「知恵を磨きなさい。知恵と勇気を兼ね備えてこそ戦士は完成するのです。さすればあなたには恐れるべきものなど何もなくなるでしょう」
オグマは頷いた。
「賢くなれば、俺でもアラクマに勝てる?」
盗み見るようにククイの顔を見た。
ククイは目を細めて楽しそうに笑っていた。
「ええ、きっといつかそんな日も来ることでしょう」
「来てたまるか」
見ると、誰もいなくなったと思っていた浜にアラクマが立っていて、面白くなさそうな顔でオグマとククイを眺めていた。
「ククイはオグマをひいきする」
オグマは驚いた。アラクマがオグマにそんな感想を抱くとは思っていなかった。アラクマはすべてにおいてオグマより優位に立っていると思っていたのに――
「やっと褒めてもらえると思ったのに、俺は一瞬だけか」
嫉妬しているのだろうか。
アラクマがオグマとククイに背を向けた。
「困った子ですね」
ククイが苦笑する。
アラクマはククイにとって困った奴なのだ。
オグマの心は急激に軽くなった。一瞬にしてすみずみまで晴れ渡り、気分がすっかり良くなった。
「見てろよアラクマ! 俺、絶対お前より賢くなってお前のこと出し抜いてやるからな!」
投げ掛けると、アラクマはちょっとだけ振り向いて、「させるか」と怒鳴った。
アラクマが本気で怒鳴っている。
嬉しい。
「オグマ」
ククイが言う。
「アラクマと対等になれるのはこの世で唯一あなただけなのです。努めなさい」
オグマは力強く頷いた。
サークル名:イノセントフラワァ(URL)
執筆者名:丹羽夏子一言アピール
丹羽夏子(HN:SHASHA)の一人楽しいサークル。架空の国や地域を舞台にした歴史ものっぽいファンタジーを書いています。双子の兄弟が一人の女性を奪い合って戦うのサイコーにエモくないですか? 双子の兄弟喧嘩が世界を破滅に導くエスニックファンタジー長編『イヤサカ』、よろしくお願いいたします。