電車が海に着く

 机に突っ伏したまま遠くから窓越しに届く蝉の声を聞いて、またこの夢かと思う。
 知っている。顔をあげても高校時代のように辺りに同級生が散らばり、思い思いの友人と語らっている訳ではない。無人の教室だ。
 しかし放課後ではない。何しろ太陽は真上にあって、校舎や校庭を真っ白に照らしているのだから。顔を伏せているにも関わらずその光景を目にすることができる。いや、頭の中で想像しているだけなのだろうか。
 もうすぐ振動がある。
 そう、知っている。震度一程の揺れが、床から机まで伝わってくる。
 内心では最早驚かなかったのに肩はびくついて、起床を余儀なくされる。俺は息を吐いて徐ろに顔を上げた。いつもと同じ行動だ。すぐ前の席には俺と同じ半袖の開襟シャツを着た男子生徒が横向きに座っていて、背凭れに頬杖をついてこちらを観察している。
「悪い…いつの間にか寝てたな」
 俺は寝起きの嗄れた声で言って相手を見た。
 男子中学生にしては長い、肩に届きそうな髪は直線的に切り揃えられている。いつもは眉の上で一直線になっている前髪は、今は暑さのためかピンで留められて額が露になっていた。気の置けない仲だから彼もそうしているのだろうと、いつもを知ることがない、見知らぬ顔を見ながら思った。
「いいよ。行こうぜ」
 彼は優しく笑みを浮かべて言う。どこにという疑問も浮かばずに、俺は相手について廊下に出る。中庭を挟んだ向かいの校舎に照り付けた陽光が白く反射して眩しい。俺は目を細めながら、自分たちのいた教室のみならずこの学校内に誰もいないことを察する。
 夏休みだとしても、当番の教師や部活動に励む生徒の気配があってもおかしくない筈なのだが。
 疑問を口にしようとすると、彼が立ち止まって彼を振り返っていることに気が付いて歩みを止めた。俺がこの状況を怪しんでいることに気がついているのだろう。今度は困ったように微笑んで、しかし何も言ってはくれずに彼は階段を登り始めた。
 出た先は屋上だ。視界が足元の白と頭上の青で埋め尽くされる。遠くのほうに入道雲の見える以外は、恐怖を覚える程の濃い青空だった。
 海岸の砂浜に来たような錯覚があった。
 しかし左手にグローブが嵌まっているので、友人とキャッチボールをしに来たのだと思い出す。同時に白球が飛んできたので受け止める。
「ここってさ」
「うん」
 お互い、投げる度に口を開くのが何となくルールになる。
「地震多くないか」
「地震?」
「何か、毎回揺り起こされてる気がする」
 毎回。
 俺は頻繁に、キャッチボールをする相手以外いない中学校で寝ているのだろうか。
 疑問を遮断するかのように少しだけ高い球が来たので、彼は飛び上がって受け止めた。たん、と軽快な音が耳に残った。いつの間にやら蝉の声は止んでいる。
 球が屋上から落ちると取りに行くのが面倒ではないか。
 少しだけ苛立って視線を向けたが、相手は平気な顔をしている。彼の筋肉の付き始めた、しかし病的に白い肌が目に焼きつく。
 俺は仕返しに無言で山なりの球を放った。
「地震じゃない、地下鉄が走ってんだよ」
「地下鉄?学校の下を?」
「そう、海辺の街に通じる地下鉄」
「こんな山の中から?あり得ないだろ」
 球を投げつつ言いながら、ここは山の中なのだと知る。
「俺、海見たことないんだ」
 相手は手を下ろして、黒髪を耳にかけながら遠くを見る目をした。
「なら見に行こう、地下鉄で行けるならさ」
 もし本当に行けるものなら、と疑うような口調になってしまったかもしれない。後悔しながら窺うと、しかし彼の目は俺を捉えてぱっと輝いた。
「本当か、一緒に行ってくれるのか」
「あ、ああ」
 彼はキャッチボールに飽いたと見えて、フェンスに手をかけて校庭を見下ろした。俺も真似をする。
「なあ、あそこが海面だったらどうする?」
 相手は眼下の白い校庭を指さしながら行った。
「どうするって…」
 どうするだろう。自分ならば写真を撮るだろうか。
 俺は不意に、自らの手元にあるのがカメラではなくグローブであることに抗いがたい違和感を覚えた。
 お前はどうすんの。そうはぐらかそうとして俺は息を飲んだ。彼がフェンスの上に立ったことに気付かなかった迂闊さと、その危険な行動に悲鳴に近い声をあげそうになる。
「俺は、海に飛び込んでみたい」
 彼は両手を翼のように広げて笑いながら言って、後ろ向きに倒れ込んでいった。まるで背中に待っているのがふかふかの寝床であるかのように、海面に打ち当たった時に体に走る痛みを知らない者のように。
 いや、彼を待ち受けるのはシーツでも液体でもない、固い校庭だ。もし屋上から飛び降りたら。
 砂の飛沫が高く高くあがって、俺の頬に生温い海水が当たった。空を切った腕が悲しくて思わず彼の名前を呼んだが、それはすぐに記憶の彼方へと飛んでいってしまった。
 後には静寂が訪れて、俺は屋上に一人きりになった。

「またうなされてた」
 彼が眠りから覚めて額に落ちた汗を拭っていると、向かいに座しているハレルが指摘した。
「どこまで来た」
「あと三駅。でも今は急行の追い越し待ち」
 彼が外に目を向けると、錆びた鉄製の柱に白く駅名が浮き上がっているのが見えた。無人駅だろうか。日射しを浴びてアスファルトを突き破り、逞しく伸びる雑草があちこちに見られる。ホームの真ん中に小ぢんまりとした駅舎が建っていて、改札代わりの切符を入れる箱の構えた先は何人かが座れる椅子の設えられた待合室のようだが、外から見ると影に覆われていてよく見えない。
「鈍行じゃなくて、飛行機で行ったほうが向こうで休めて良かったかな」
 彼が外を見詰めているのを焦れているとでも思ったのか、ハレルが言った。
「いや、空港から遠くてバスで何時間もかかるから、どちらにしろ長旅だ。乗り換えが少ないほうがまだいい」
「安上がりだしね」
「…次の仕事で稼げればもっと」
「そういう意味で言ったんじゃないよ」
 ハレルはそれがさして深刻でもないと言いたげに肩を竦めて見せた。彼は傍らに置いた旅行鞄を無意識に撫でた。それだけで中身の仕事道具に触れているような気になれた。
 沈黙の間に急行列車が通った。速い風圧で電車が傾いて、彼はつい先刻地下鉄の震動を感じたことを思い出した。
「そう言えば、また同じ夢を見た」
 急行の去った後で彼が言った。
「聞かせて」
「また?」
 彼は億劫そうにしたが、実のところこの時間は嫌いではなかった。
 口を開くと同時に電車が動き始めた。車輪の回転に合わせて景色が加速していくのを眺めながら、空いた車両のボックス席で二人向き合って語らっているこの環境も泡沫の夢なのかもしれないと戯れに思う。
 彼は同じ夢を頻繁に見る。一ヶ月程前に寝床で微睡んだハレルが「海に行きたい」と呟いたことが切っ掛けになったと彼は思っているが、もしかすると違うのかもしれない。
 見知らぬ中学校、覚えのない友人、屋上の青空と踏みしめる白、キャッチボール、広げられた両手。
 仔細は日によって違うかもしれないが、概ね同じことを彼はハレルに話して聞かせた。そしてハレルは決まって言う。
「その相手は自分で、貴方と結婚出来るように今回は女に生まれ変わったんだ、仕方なく」
 ハレルの唱える説に彼は賛同しかねていた。そもそも二人は結婚の手続きをしていないし、彼は生まれ変わりという現象には懐疑的だ。それに、夢の中の男子生徒と眼前のハレルには似たところはないように見えた。それは外見の特徴だけではない。受け答えや相手の表情を思い出すに、まるで別の人物だ。
 ただ、それでハレルの気が済むなら、と言わせるままにしておいた。彼個人としては、前世だ何だという理由に縛られているより、法則も由縁もなく出会ったのだと捉えたほうが性に合っていたが。
 二人が出会ったのは偶然だ、それでも惹かれあったのだと言葉にしてしまうとこそばゆくなる。彼は唇を噛んで別のことを考えようとした。
「あ」
 ハレルが不意に声をあげて目を輝かせた。彼がその視線を追うと、深緑に覆われた山の風景が一気に開けて海が広がっていた。空と海の二つの青の狭間に遠く入道雲が伸びている。
 もしかすると、あの中学校の地下を通る電車に揺られれば、案外短時間で海岸の街に出られるのかもしれないと彼は呆やりと想像する。
「窓開けていい、」
 他人が見ても判別はつかないかもしれない程穏やかにだが、ハレルは珍しくはしゃいでいる。彼は窓のつまみを押さえて手伝いながら、気付かぬうちに微笑んでいた。凶暴なまでの風がどっと吹き込んで、二人は声を張り上げた。
「新しい家見えるかな」
「まだまだだろ」
 新居の灯台は海岸線にあるので目立つ筈だ。
 人の少ない環境でのびのびとカメラを構える自分の姿を想像して、彼はまた鞄を撫でた。ハレルは穏やかな表情で目を細めて青を眺めている。ハレルのシャツが風にはためいて眩しい。
「何で」
 何で海に行きたいんだ。と、彼は言いかけてやめた。問う相手がハレルなのか屋上にいた友人なのか分からなくなった。
 電車が曲線を走って陽光の角度が変わり、窓のサッシが反射して銀色に光った。思わず目を閉ざした一瞬の視界に、夢と同じ広げた両腕が映る。
「っ」
 彼は思わず腕を伸ばした。手首を掴まれたハレルは肩をびくつかせた。
「あ、いや」
 寝ぼけていたと恍けるのも気恥ずかしい。
「大丈夫、飛び降りたりしない」
 ハレルは彼の思考を見透かしているかのように呟いた。ハレルの声は全く張り上げられていないのに、不思議と彼の耳に響いた。
「良かった」
 彼は手を握り直して握手の形にするとハレルを見据えた。
「えっと、引き続きよろしく」
「うん」
 ハレルが頷きながら妙に嬉しそうな顔をするので、何か告白の類いをしてしまったような気になってしまう。それでもいいかと思いながら、彼は窓の外に目を向ける。
 もうすぐ電車が海に着く。


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サークル名:キンシチョウコ(URL
執筆者名:谷水春声

一言アピール
恋愛ものを標榜しつつも失恋していたり今一歩のところで踏み出せなかったり、若さゆえに懊悩する人たちの短編小説を書いています。全体的に和風、幻想贔屓。恋愛に性別は関係ない派。今回は新刊『とうだいもとくらし』と微妙に繋がっている前日譚を書かせていただきました。

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