平日、春の海
自宅から最寄り駅の改札を入って、先頭車両の方へホームを小走りに進む。端に置いてあるベンチに座っていた彼女に声をかけた。
「お待たせ、映子」
「あ、桃子。私も今来たところ」
読んでいた本を閉じ、映子は私に微笑みかけた。
映子の自宅の最寄り駅は二つ前。平日は毎日このベンチで待ち合わせをして学校に行くのが日課。
「今日は少し涼しいね」
「朝は寒くて、起きたら丸まってたよ」
「桃子らしい」
何気ない会話をしながら映子が読んでいた本を鞄にしまう。ベンチから立ち上がった彼女と一緒に、先頭の「ドア付近」の印がついているところまで移動した。
ホームで電車を待っていると、映子の腰まである黒髪のポニーテールが風になびいた。それとほぼ同時に、私達の前を快速電車が通過していく。
「あ……」
髪に引っ張られるように、映子の身体が電車の方に傾くのが見えた。そのまま倒れると電車と接触してしまう。それくらい彼女と電車の距離は近くて、危ない! と手を伸ばそうとした。
「…………」
しかし、伸ばしかけた手は行き場をなくし、隠すかのようにその手を引っ込める。
映子が私を見ていたのだ。
漆黒の大きな瞳は目力の威圧とは違って、吸い込まれるような強さをもち、唇は血の紅を塗ったように真っ赤。
金縛りにあったかのように動けなくなる彼女の視線に引っ込めた手をギュッと握り、電車が通り過ぎるのを黙って眺めていた。
「快速かぁー。なんでこの駅停まんないのかな?」
電車が通過し、音が遠くの方に流れていく。それを見て、映子が笑いながら私に尋ねた。さっきとは違う、こどものような純粋な瞳で。
「この駅、乗り換えがないからね」
私の答えに「なるほど」と映子が反応する。程なくして到着した各駅停車の電車に乗った私達は、本来なら降りるはずの学校がある最寄り駅を通り過ぎ、流れる景色をぼんやりと眺めながら終着駅まで電車に揺られていた。
「海だー!」
終点である小さな駅を出ると、目の前には白い砂浜と青い海が広がっていた。電車で一本なのになかなか行く機会がなかった私は久々の海にテンションが上がり、靴を脱いでタイツのまま砂浜を駆け出した。
「桃子ー、転ばないでよ」
映子はまるでお母さんのよう。彼女は微笑みながら脱ぎ散らかした私の靴を拾い、白い砂の上に腰を下ろした。
乾いた白い砂から海水で湿った砂へと交互に歩く。タイツ越しだけど足裏の感覚が変わり、音が鳴る度、足裏に砂が絡まる。その感覚が新鮮で、夢中になって音を鳴らしながらしばらく歩いていた。
自分達の時間が止まるまで、あと少し。
ある程度歩くと、その音にも飽きてきた。海水で足裏についた砂を軽く落として、映子が座っている場所へと移動する。砂を落としたばかりの足裏に再び白い砂がついたが、気にせず彼女の横に腰を下ろした。
「おかえり」
「ただいま」
優しく微笑んだ映子の黒目は純粋だ。この後に自分の時間を止める事なんて考えているようにはみえない。彼女とは逆に、自分の瞳が大きく揺れている気がした。
二人きりの浜辺。波の音を聞きながら潮風が私達の間をすり抜ける。そんなロマンティックな雰囲気に、映子の顔が私に近づいた。漆黒の瞳が私を捉え、紅い唇が私の薄い唇に軽く触れた。
平日の春の海。まわりには私達以外に人はいない。
柔らかくて細い映子の手が、私の頬を優しく包んだ。
「好きよ、桃子……」
柔らかな笑みで彼女が呟き、再び唇が触れた。
人前ではできない、秘密のキス。触れては離れてを何度も繰り返し、最後の感触を互いの唇に刻み込んだ。
……嗚呼、これで最後なの?
これからも二人で時間を進めるという選択肢は残されていないの?
迷いの感情が一瞬、私の脳裏を掠める。
それと同時に、ほろりと涙が一粒、彼女の細い指に触れた。
「ごめんなさい……」
呟いた映子の瞳が大きく揺れたのと同時に、私の頬から彼女の手が離れる。
その手を今度は私の手で包むように握り、涙が溜まりはじめた彼女の目尻にそっと口づけをした。
「謝らないで……」
「だって……」
なにかを言おうとした映子の言葉を遮る形で彼女の唇を塞ぐ。
深く、深く。このまま呼吸が止まってしまえばいい……そう思えるくらいに深いキスを何度もかわした。
映子が、自らの時間を止めようとした事なんて、以前から知ってたよ。
私なんか、映子よりもずっとずっと前から同じ事を考えていたんだ。
貴女も私も、まわりが思っているよりも弱くて脆いのに、みんな気が付いてはくれなかった。
でもね、映子。なんで私がその考えを実行しなかったかわかる?
……それは、貴女がいたから。
映子がいつも私の隣にいたから、今日まで時間を進める事ができたんだ。
だけど、それも今日でおしまい。
唇を離すと、赤く染まった頬に潤んだ瞳の映子が肩で浅い呼吸を繰り返していた。
その表情も息遣いも「生きている」映子がとても愛しくて。
「私も好きよ」と彼女の耳許で、そっと呟いた。
踝まで浸かったところで足を止めると、映子がポニーテールの髪をほどいた。長い黒髪が風になびく。
「桃子、手繋ごう?」
「うん」
映子の声に頷く。繋いだ手首を彼女が髪ゴムできつく結んだ。少し痛いけれど、彼女の体温で痛みが和らいでいく。
家から勝手に持ち出したウイスキーの小瓶を開けて交互に飲んだ。喉が焼けるように熱くて痛いけれど、全てを麻痺させる為には仕方ない。
半分ずつ。二人で一本を空けると目の前が歪みはじめた。上手く立っていられなくなるほどに頭がボォーっとしてくる。かろうじて手首に結んだゴムが二人のバランスを保っていた。
「桃子、行こうか……」
「うん。映子……」
感覚のなくなってきた足で、一歩ずつ前へ進む。
海面は思ったよりも穏やかで、私達を中へと招き入れているようだ。
風よりも温かい海水の中。二人で奥へと下りていく。
これからは何も気にしない。
ずっとずっと、貴女と一緒だね。
唯一、彼女と繋いだ手の感触だけは時間が止まった後も残っていた。
おわり。
サークル名:紅茶とケーキ(URL)
執筆者名:砂塩香味一言アピール
アンソロは初百合っぽいお話ですが、サークルでは男女の恋愛を中心にお話を書いております。
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