海のばかやろー

 浜辺の楽しげな雰囲気から遠ざかるように歩くと、波の音は、私と喧騒とを切り離した。
 でたらめに走った後なせいか足取りがおぼつかない。スニーカーの中に砂が好き放題入り込んでいる。いい加減歩くのも嫌になって、私は砂浜の手頃な位置に、制服姿のままぺたんと尻をつく。遊泳禁止区域の砂浜に打ち捨てられた、腰の高さほどある舟。その陰になる位置に寄りかかるようにして。
 夏なのにひんやりして、昼なのに静か。そんな空間にようやく落ち着きを取り戻した私は、そのまま目を瞑って波音に耳を傾けてみる。するとたちまち陸も太陽も何もなくなって、目の奥にはどこまでも深い青色だけが広がる。その青の中に、ぽつんと佇む影は私だ。そんなイメージの中をたゆたっていたら、なんだか急に怖くなってきた。
 ここは、世界の果てだな。波音以外にはなーんにも無くて、独りぼっちでさ。何もかもが終わってしまった世界では、きっとこんな音だけが響くんだろう。そんな気がする。
 なんて、ちょっと大げさだったかな。
 閉じていた目を開けると、鳥も、海も、光も、のどかな町の風景は変わらずにそこにあった。尤もそれを確認したところで私の気はちっとも晴れやしない。
 だって、この町が私の世界の限界だってことは、悔しいぐらい疑いようがないことだったから。
 ここじゃない、どこか別の街。この町から出たことがない私には、それは想像も及ばない世界だった。
 それなのにさっき友達から聞いちゃったんだ。ずっと憧れだった一個上の先輩、学校一お洒落なあの子を連れて東京へ行くんだって。
 聞いた瞬間に頭がくらくらした。それで、気付いたら走り出してた。どれだけ潮風を受けても、火照った顔の熱だけは引いてくれなくて。
 何やってるんだろ、私。ほんと、あれもこれも。急に全部が恥ずかしくなった。
 お似合いだな、って思う。素敵な二人組は、私よりも十歩も百歩も先を歩いてたんだ。そういう人じゃなきゃ憧れる資格すらなかったんだ。
 手が届くわけないじゃんか。私はちっちゃい、本当にへんぴでちっちゃい人間なんだぞ。
 想いの一つも伝えられない、大学に行きたくたって成績良くないし、受験勉強なんかする根性もない、かといってやりたいこともなくて、毎日ただなんとなく生きてて。
 この先も、こんな風なのかな。周りに流されるまま就活をして、目的もなく、生き甲斐も見つけられないまま、この町で生きていくのかな。
 何だかそれは悔しいなって思う。この海に縛られ続ける人生は、負けな気がした。
 だけど、きっと大多数の人生はそんな取るに足らないものなんだろうな、っていうのも分かる。その中にも、きちんと幸せはあるんだ。
 それも、複雑な話だな。
 どうしたって今の私じゃ、この町に、海に、そして私自身に対しても、漠然とした不安しか抱けそうにない。それなのに海ときたら、あくまで人間の都合などお構いなしというような顔をしている。
 ううん、たぶん海だけじゃない。こんなゆらゆらした悩みなんて誰に話したって悩みとも思われずに、なんでもないことのように流されちゃうに決まっている。
「なんだよ、もう」
 私は穏やかのんきな海原へ、拗ねるように目を向ける。
 そんなに悠々広々されてたら、ちっぽけなことで日々立ち止まっている私がバカみたいじゃないか。
 まとまらなくて、救われなくて、むしゃくしゃばかりが募るから。私は一度大きく潮風を吸い込んだ。
 そしてそのまま、
「……ばーか」
 尖らせた口から、結局それだけを捻り出す。
 こんなときぐらいドラマみたいに思い切れたらいいのにな。ちっぽけな私にできるのは、これが精一杯だった。
 もし、ここで叫ぶことができたなら、何か返ってきたのかな。ここで吐き出せたなら、少しは救われていたのかな。
 海に落ちた私の涙を、一体誰が見つけてくれるって言うんだろう。
 世界の果てに声が飛び込んできたのは、そんなときだった。

        ◇

 また些細なことで弟と喧嘩をした。
 家を飛び出て、行く当てなど当然なかった。そうしてなんとなく辿り着いた、町の端っこの海水浴場。
 俺はこの、シーズンになるとどこの誰とも知れない人間でごった返す海が好きになれなかった。ここにお前の居場所はないぞ、と町に言われている気がした。
 騒がしさから逃げるようにそそくさと歩く。次第に海の音が鮮明になるにつれ、心には荒波が立っていく。波音が俺を落ち着けるどころか、追い詰めるように押し寄せて感じられたからだ。だから、行けど歩けど立ち止まれる場所がない。
 嫌な町だ。家でも学校でもいいことなんか一つもない。こんな町いつか抜け出してやる、と何度心に誓ったことだろう。
 俺の願いはただ一つ。
 居場所が欲しかった。確かに俺の居ていい場所だと、胸を張って言える居場所が。
 ざぶり、ざぶり。
 耳障りな音がいつまでも続く。俺はすっかり町に嫌がらせされている気分になっていた。
 そのうち周囲に人っ子一人いなくなった砂浜で、ほとんど朽ちかけの舟を一艘見つけた。もう役目を与えられることもないだろう、誰からも見放された小舟。乗り込むでもなくただ眺めている。
 いっそこの舟でどこか遠くへ行ってしまおうか、そんな考えが頭を過ぎった。そうすればいつか見つかるんじゃないか。俺の存在を認めてくれる、そんな海だってきっと。
『そんなに嫌なら、出て行けよ』
 ざぶり。俺の考えを見透かしたかのように、海が言う。
 そうだ、今に出て行ってやる。
『そうやっていつも場所とか人のせい』
 ざぶり。次はお説教か。
 出て行ってやるって言ってるだろ。
『自分から逃げてる』
 ざぶり。鳴り止まない。
 知ったようなこと言うな。余計なお世話なんだよ。
『言い訳ばかり』
 ざぶり。何度も何度も。
『何も変わらない』
 ざぶり、ざぶり、ざぶり。
『兄貴なんて、どこに行ったってどうせ同じだよ!』
「分かってるんだよ、この――ばっかやろぉぉ!」
 叫んだ。言い返す言葉がなくて。かき消してしまいたくて。叫ぶしかできなかった。
 ほんとは分かってるよ。馬鹿野郎の居場所なんて、この海の向こうのどこにだってありはしないことくらい。
 ただ、それを認めるのは怖いことだった。
 叫び声は海へと吸われていった。後にはざぶり、ざぶりと波音だけが響く。まるで何事も無かったみたいな海を見ながら思う。もしもこの海に飛び込んで、体から心まで塩水に揉まれたなら、こんな俺でも生まれ変わることができるだろうか。この町でもやっていけるような、全く違う自分に。
 いっそ誰か今すぐに、この背中をひと思いに押してくれたらいいのに。
 ああでも、こんな幼稚で情けない”海の馬鹿野郎”が、誰かに聞かれでもしていたら――。
「海の、ばかやろおー!」
 聞かれていた。
 舟を挟んで向こう側に、突然見知らぬ女の子が現れた。いや、俺がそう感じただけで、ずっと舟の死角に座っていたらしい。
 呆気に取られた俺の横で、彼女は叫んでいる。その語尾は永く、永く続いた。目をぎゅっと瞑り、潮風に乱され放題の長い髪を気にする様子もない。
 いつまでも続くかのように思えた声もやがては波音に飲まれていく。
「はあ。もう限界だ」
 再び訪れる静寂の世界で、こっちを向いた彼女は笑っていた。
 やけに印象的だったのは、その頬を伝う二筋の雫。ぽたり、落ちていく粒を俺は目で追う。
 ただそれだけのことで、心はどうしようもなく衝動に溢れた。なぜだろう、様々な感情が湧き起こっては織り交ざる。それらの正体は掴めないのに、自分の顔が赤くなっていることだけはなんとなく分かった。
 居ても立ってもいられなくて、気が付いたら俺は駆け出していた。
「あれ、ちょっと、どうしたの!」
 背後で女の子の戸惑う様子が分かる。だけど足は止まらない。一目散に海を目指していた。そして俺は飛んだ。両手足を思いきり広げ、服も脱がないまま。もう、半ばヤケだった。
 全身が海に包まれる。ちょっと浅瀬過ぎたせいで膝や肘をぶつけたけれど、構わないことにした。息を止めて目を閉じて、水の冷たさを肌で感じ、泡の弾ける音を聴いた。
 飛び込んだ海は思いのほか気持ちがよかった。火照った体によく効いた。
「ぷはっ」
 しばらくして顔を上げると、傍に女の子が立っていた。
「大丈夫? いきなりでびっくりしたよ」
 そう言って手を差し伸べる、彼女の靴も脚も海に濡れていた。
「ごめん。ほんとどうしたんだろう。馬鹿だ、俺」
 申し訳なくてその手は握り返せなかったが、飛び込んだことに不思議と後悔は無かった。
 自分でも驚いている。情けないところを見られたこっ恥ずかしさからか、それともただの照れ隠しか、もしくはもっと別の何かか……それははっきりしないけれど。
「へんなの。でも、すごいな。すごいよ」
 町に、海に、どれだけ嫌われても構わない。目の前で物憂げに微笑む、この子にだけは好かれる自分でいたいと強く思った俺は。
 たぶん、見事に一目惚れしてしまったんだ。


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サークル名:睡水庭園(URL
執筆者名:長渕水蓮

一言アピール
“どこにいるか”よりもずっと大事なことがあるはず。
こんにちは。テキレボ、ドキドキの初参加です。よろしくお願いします。
日々の中にあるほんのささやかな成長物語が書きたい。一人称視点で書きたい。あとかわいいも書きたい。そんな感じの人です。

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