いつか、約束の海へ
折り鶴を大量生産するのをやめてからも、サトルが一之江と落ち合うのは決まって中等部の美術室だった。他の教科の宿題とか学習塾の課題とか、おおよそ美術とほど遠いことをやっていても、美術教師は咎めない。やぶ蛇になりたくないので何故なのか聞きはしないが、放課後の学校に居場所があるのはサトルにとって有り難いことだった。
サトルが勉強をしているうちは、一之江も勉強しているらしい。参考書を開いてノートに何か書いてるから、まあ勉強しているのだろう。一之江は高校三年生で、大学に行きたいと言っていたのだから、きっと受験勉強だろう。塾には通っていない様子だけど大丈夫なんだろうか。中学生のサトルからは、一之江の勉強がどんなものでどれくらいのレベルなのか、さっぱり分からなかった。
サトルがその日やるべき課題を終えて、教科書やら資料集やらノートやらを鞄に詰め込むと、集中していた一之江も顔を上げる。
「もう終わったの?」
サトルが頷くと、一之江も片付けを始める。勉強しているときは驚くほど静かな一之江は、勉強が終わると目をキラキラさせてこう言うのだ。
「サトル君、今日は塾の日じゃないですよねえ?」
「そうだけど」
「ねえ、だったら? ねえ?」
期待に満ちたまなざし。サトルは答える。
「どこかに遊びに行く?」
待ってましたという一之江の表情。
「行く! 行くよ! どこですか? お不動さん? 河川敷? 図書館? アイス? お団子? ハンバーガーですか? たこ焼きかな?」
途中から全部食べ物になったな。どれもこれも今までサトルと一緒に行った先、一緒に食べたものだった。春にこの街へ引っ越してきたばかりの一之江は、サトルが連れて行く場所はどこでも喜んだ。一之江がテンション高く騒いでいると、サトルもなんだか嬉しい。一之江はサトルより四つも学年が上で、一之江の解いてる参考書の問題の一つだってサトルには分からない。でも地元のことはサトルの方がよく知っている。一之江をあちこち案内しているときは、サトルは得意な気分になれるのだ。
「今日は鯛焼きを食べよう」
サトルがそう言うと、一之江はぴしっと敬礼のポーズをして「了解です! 隊長!」とか言ってサトルの後をヒヨコみたいについてくるのだった。
お不動さんの近くにある鯛焼き屋のイートインスペースで、向かい合って座る。一之江ルリは鯛焼きを頭から食べるタイプらしい。もぐもぐと幸せそうな顔で咀嚼する一之江を見ていると目が合って、にっこり微笑まれた。
サトルはゆっくり目を伏せて、ゆっくり顔をそらす。こういうとき慌てて目をそらすと、一之江は面白がってサトルの顔をのぞき込むので、なるべくゆっくり何でもないような感じで目をそらした方がいい。全く一之江は、黙っていれば美人だってこと、自分で分かっているのだろうか。幸せそうな笑顔がかわいいって知ってるんだろうか。サトルが一之江と一緒にいて、いちいち感じるドギマギを適切に処理する苦労について、おもんぱかってくれてもいいのでは。いや、サトルがドギマギしているなんて恥ずかしいから知られたくないのだけど。
とにかく鯛焼きに集中しよう。しっぽからかじりつく。ここの鯛焼きは美味しい。注文してから焼いてくれるので熱々だし。
「鯛焼きって不思議ですよね」
一之江が言う。
「なんで鯛の形をしてるんだろう? 大判焼きは丸いのに」
「さあ? 鯛は縁起物だからじゃないの」
サトルは鯛焼きのしっぽが好きだから、鯛焼きが鯛の形でよかったと思う。まん丸じゃあ、この食感にはならないだろう。
「とにかく魚ってところがいいですよね。しかも鯛は海の魚だし」
一之江はよく分からないことを言う。魚、海の魚、海。一之江が何か海にこだわりがあるらしいことはサトルも感じていた。以前からよく「海に行きたい」と言っていたし。でも海なんて、行ってどうするというのだ。海水浴にはまだ少し早いし。そもそも放課後の時間だけでたどり着ける海ってどこなんだ。
「一之江はなんで海に行きたいの?」
何の気なしに言ってみたのに、一之江はずいぶん驚いた顔をした。
「私が海に行きたいって、サトル君、覚えててくれたんですか?」
あれだけ何回も言われて覚えてないわけないだろと思ったけど、でもそうか、サトルが覚えてないと思ったから一之江は何度も言ったのかも知れない。
一之江は「私が海に行きたいのは……あー、なんでだっけ」なんて口に出して自問自答している。理由が自分でも分からない、というよりは、サトルに話してもよい内容を吟味しているように見えた。なんだかモヤモヤする。いや、いいんだ。一之江が話してくれることだけ聞けばいい。
「ああ、そうだ。私、海って行ったことないから」
適当な答えが見つかったらしく、一之江はドヤ顔だった。
「一回も? 小学校で臨海学校とかなかった?」
「えっ、臨海学校ってなんです?」
ドヤ顔はすぐきょとん顔になった。
「……なんか学校の、合宿みたいなの……林間学校の海バージョン」
「えっ、都会はそんなのあるんですね?」
「いや……都会っていうか……」
サトルは店の外へ視線を移す。通りの向こうにお不動さんの塔が見えて、更に奥には木々が茂っている。この街は都会と言えるのだろうか。サトルの思う都会まで電車で何十分かの距離だけど、ここら辺は緑も多く穏やかなところだ。それでも一之江が以前住んでいた場所よりは都会なのかも知れない。しかし都会かどうかと臨海学校があるかどうかは関係ないだろう。単に一之江の故郷が海から遠かっただけではないのか。
「じゃあ……、旅行で海水浴とか行ったことないの?」
「そもそも旅行って行ったことないですよ」
一之江の答えに、サトルは詰まってしまう。目を伏せる。そうなのだ。サトルは当たり前に家族旅行に連れていってもらえるけれど、一之江はそうではない。旅行をするような家庭環境ではないのだ。
事情があって、両親とは一緒に暮らせなかった。家族と呼べるのは双子の姉だけ。その双子の姉とも別れて暮らさなきゃならなくなって、この街へ引っ越してきた。
親とも、きょうだいとも離れて暮らすってどんなだろう。サトルには想像もつかない。いや、サトルの兄は地方の大学に進学したから、今は一緒に暮らしていないけれど。でも夏休みと冬休みには帰ってくるし……。一之江が双子の姉と会えなくなったのとは、きっと全然違う。
これ以上聞くのはよそう。サトルの知っている世界と一之江の生きてきた世界はあまりに違い過ぎる。その違いをいちいち確認して、なんになるというのだ。そしてきっと、今は。
(一之江と俺がどんなに違っても、今は一緒にいるんだ。海にはこれから一緒に行けばいい)
サトルは口を開いた。
「あのさ、一之江」
「はい」
「今度一緒に海に行く?」
ちらりと、視線を向けると。一之江の目は今まで見たことないくらい輝いていて、眉はだんだん下がってきて、口角はどんどん上がってきて、くちゃくちゃの笑顔になった。
「嬉しい! 行きます!」
ああ、なんだ、こんなに喜ぶなら、もっと早く言ってやればよかった。ああもう、手を握るのはやめろ。恥ずかしいだろう、流石に。サトルが目をそらしても、一之江は面白がらなかった。それだけ感激していたのだろう。
次の次の日。サトルが美術室で待っていると、いつも通り一之江はやってきた。今日は勉強はしないでこのまま海まで行こうと言うと、一之江は深く頷いた。
モノレールに乗って、電車に乗って、乗り換えて、また乗り換えて。片道一時間半かかるから到着は夕方になってしまう。一之江はモノレールに乗るのも初めてだと騒いでいた。終点の駅に着いて、外へ出る。風が湿っている。一之江はすんすん鼻を鳴らして、「これが潮の匂いってやつですか?」なんて言った。空は曇っていて灰色だし、海だって特別きれいな海ではないだろうけど、放課後に電車で来られる海なんて、それほど選択肢があるわけではない。以前家族と来たときの記憶を頼りに、橋を渡り、地下道のようなところを通ってビーチへ出た。
海だ。灰色の空を映す、重い色の海。波がはじけて白い筋を残す。一之江は「わあ」と声を上げて、目を見張っている。サトルが一之江の持ってる鞄を手に取ると、一之江はローファーと靴下を脱いで、砂浜を駆けだした。
「気をつけろよ! なんか踏むかも!」
一応声をかけたが、一之江は聞いていないかも知れない。波打ち際で「冷たい!」とか叫んでいる。
「サトル君! 海ってホントにしょっぱいんですね!」
「あんまりなめるなよ! そんなにきれいじゃないぞ!」
サトルは家から持ってきたレジャーシートを砂浜に敷いて、靴と鞄を重しにして腰掛けた。一之江はひとしきり暴れるだろうから、暴れ終わるまでそっとしておこう。
しばらくして、潮風になぶられたぼさぼさ髪の一之江が帰ってきた。
「サトル君……、海って結構ハードですね」
テンションがた落ちじゃないか。スカートの裾からしずくが落ちてる。波を被ったのだろうか。サトルは鞄からタオルを出して渡してやった。一之江はスカートを絞って、砂を払って、タオルで足を拭き、レジャーシートに座った。
少しの間、一之江は黙って海を眺めていた。だんだん空が暮れてきて、雲の間から一番星が輝いた。ぽつりと言う。
「来てよかった」
サトルは「そう」と返した。
「ありがとう、サトル君」
一之江はそう言うけれど、別にサトルは何をしたわけじゃない。電車を調べて、レジャーシートとタオルを持ってきただけだ。一之江に感謝されるのは、もちろん、嬉しいけれど。
「私、本当は――」
一之江は言って、そして言葉を飲み込んでしまった。でもサトルには分かる。
「――本当は、エリちゃんと来たかったんだろ」
エリちゃん。一之江の大切な人。双子の姉、ずっと一緒だったたった一人の家族。もう会えない、でもいつか、もっとしっかりした人間になれたら、また会いたいと言っていた相手。
一之江はあふれる涙を両手でぬぐいながら言った。
「約束したんですよぉ……ううっ……いつか大人になったら一緒に海に行こうってぇ……エリちゃん『うん』って言わなかったけどぉ、私は行きたかったんですよぉ」
その内に手を顔から離して、空に向かってわんわん泣いた。
「一方的でもぉ、約束は約束なんですよぉ……! だってエリちゃん私が何言ってもあんま返事しないしぃ」
まあエリちゃんの気持ちも分かる。何かにつけて騒々しい一之江とずっと一緒にいれば、返事したくなくなるときもあるだろう。
「私、エリちゃんをおいて海に来ちゃった……」
サトルは一之江の背中をなでてやった。ポケットティッシュを差し出せば、一之江は盛大に鼻をかんで、涙を拭いた。
一之江の言う「いつか」「大人になったら」は、きっと今じゃない。高校生で、サトルより四つも年上で、大人びて見える一之江は、こんな風に子どもみたいに泣くのだし、泣いてもまた立ち直れるのだし。まだこれから先、一之江は大人になれる。大人になっていけば、きっとその「いつか」にたどり着けるだろう。そう思う。だからサトルは言った。
「また来ればいいよ。約束なんだから」
涙に濡れた一之江の顔はぐっちゃぐちゃで、でもサトルに向かって笑ってくれた。潮風の中、サトルは目をそらさずにその笑顔を見ていた。
サークル名:アリスチルス月面研究所(URL)
執筆者名:青川有子一言アピール
人の願いを叶える流れ星と、それを追う「流れ星ハンター」が登場する、ちょっと不思議な学園ものとかを書いています。このお話は、おねショタアンソロジー『∞-infinity-』に寄稿した「流れ星と雨上がりの色彩」の続編にあたるお話です。他にも流れ星シリーズの本を頒布予定です。