菫の牢獄
そこは一筋の光が射す菫の花畑。
周りには誰も居ない。鳥の声も聞こえない。森の中にぽつんとある、紫色の花畑。
ここが一体何なのか、俺にはわからない。わかっているのは、これは夢だと言うことと、夢でしか訪れることのないこの場所が、自分にとってどうしようも無く大切な場所だと言うことだけだった。
この花畑を夢に見るようになったのは、いつからだろう。時折訪れる菫の園は、あまりにも当たり前の風景となってしまって、初めて足を踏み入れた時のことを、全く思い出せなかった。
夢の中、菫の花畑に座り込み、指でそっと一輪撫でる。そうしながら、俺がまだ小さかった時のことを思い出した。
俺がまだ小さかった頃。一番上の兄ちゃんがまだ家に居た頃まで、うちで毎年菫の花をプランターで育てて、それを砂糖漬けにして食べていた。お菓子にしたり、ソーダ水に入れたり。食べ方は色々だったけれども、甘く、どことなく大人びた香りの菫は、俺達兄弟三人、全員が楽しみにしていた物だった。
菫の砂糖漬けを作り始めたきっかけを、俺は知らないし、知るつもりもなかった。ただ菫の甘さが毎年楽しみで、菫を砂糖漬けにするときは、部屋に籠もり気味な一番上の兄ちゃんも、いつも外に遊びに行ってあまり話す機会の無い二番目の兄ちゃんも、みんな一緒でそろって、籠いっぱいの菫の花を優しく洗ったり、水気を取って丁寧に卵白を塗ったり、砂糖をまぶしたりしていた。
そうしているとき、確かに、いつもの生活では見逃してしまいがちな、しあわせ、というものを目の当たりにしてこの身で感じていたように思う。
砂糖漬けを作って、それからたっぷり一週間、菫に砂糖が馴染むのを待ってから、家族みんなでお菓子を作った。
あの時作ったのは、菫を乗せたクッキー。俺と二番目の兄ちゃんで型を抜いて、一番上の兄ちゃんが菫を飾って、母さんが焼いてくれた。
あの時作ったのは、菫を混ぜ込んだスコーン。父さんが生地を作って、兄弟三人でたっぷりと菫の砂糖漬けをその中に混ぜ込んで、ひとつずつ丸めたものを、やっぱり母さんが焼いてくれた。
あの時作ったのは、菫を浮かべたゼリー。ゼラチンを溶かすのを母さんがやって、俺達が炭酸水に菫の砂糖漬けを入れて作った青いソーダに、ゼラチンをそっと混ぜ込んで、それを冷やしている間、何度も冷蔵庫の前にしゃがみ込んだりした。
何故だろう、兄弟が三人もいれば、喧嘩したことなどいくらでもあるはずなのに、菫の花畑の中で昔を思い出すと、ちいさな不幸せのことなど消え去ってしまって、ただただ菫の味と香りの、幸福な日々だけが思い起こされる。
ああ、この菫の花畑は、なんて幸せな景色なのだろう。俺達兄弟が過ごしていた幸福な日々を彩る物は、きっと、いや、間違いなく菫の花で、他の物では変えることの出来ない幸せの象徴なのだと思う。
それなのに、夢の中にある菫の花畑は、どこかもの悲しさがあった。
なぜだろう。こんなにきれいな幸福が、たくさん風に揺れているのに。
でも、本当は気づいているんだ。これは過去の幸せにしがみついているだけで、今の時を生きている俺自身の幸せは、なにも映していないのだと。
周りが明るい。目を開くとそこは、いつもとなにも変わらない部屋の一室だった。
学校を卒業してから無事に就職もできたし、今の仕事にはなにも不満はない。偶に忙しくて残業はあるけれど、それはいつもある事ではないし、休みもきちんと取れている。
今生きているこの時間は、不幸な物だとは思わない。それなのに何故、何度も菫の花畑に行ってしまうのだろう。
確かに、兄弟三人で、家族みんなで揃うことは少なくなってしまったけれど、それが成長という物だと思うし、自立でもあると思う。
ふと、菫の花畑を思い出してぞっとする。
あそこはあまりにも居心地が良くて、あそこにいることさえできるのならば、ずっと過去の幸せの中で過ごすことができる。それがあまりにも恐ろしかった。
あそこに行くことを辞めない限り、自分は今生きている時間で、現実の世界で幸せになれない気がした。
ある休日のこと、輸入食品が沢山取り扱われている店に行くと、瓶に詰まった菫の砂糖漬けが売っていた。
思わず手に取って中身を見てみると、その菫は分厚く、丸みがかった砂糖の層に覆われていて、昔俺達が作っていたような、砂糖の粒が見えるような物とは随分と印象が違った。
どうしよう。
思わず棚の前で迷い、立ち尽くす。頭の中に浮かんでくるのは、幼い頃の幸せな記憶と、夢の中で訪れる菫の花畑。
口の中が乾き、喉が痛む。これを棚に戻すべきか、それとも買って帰るべきか。記憶と夢が入り乱れる頭で考える。
ふと、背中を押された。他の客が通路を通るのに邪魔だったようだ。
それで気持ちが現実に戻り、他に買う物はなかったかと、その場を離れて店内を見回し始めた。
手に菫の砂糖漬けを持っていることを忘れたまま。
買い物を済ませ家に帰り、買ってきた物を整理した。その中に菫の砂糖漬けがあったけれども、いざ買ってしまえば、何故店頭で見たときに、あそこまで動揺したのかがわからないほど、心が落ち着いていた。
買ったはいいけれど、これはどうやって使おう。それを考えながら、昔兄弟三人で食べていた菫のお菓子を思い出す。
そうだ、焼き菓子にすれば、兄ちゃん達にも分けられるかもしれない。それに思い至り、次の休日にでもクッキーを焼こうと決めた。
それから一週間、片時も菫の砂糖漬けが頭から離れることは無かった。他のことを考えているときでも、仕事をしているときでも、端のどこかに、その花は甘い香りを放って居座り続けた。
やっとやって来た休日。台所と部屋を整えて、クッキーを作る事にした。
生地を捏ねるのも、寝かせる時間を見るのも、もう慣れきってしまっていて、ほとんど感覚でできる。しかし、兄ちゃん達にも配るかもしれないと言う思いがあったせいか、つい多めに生地を作ってしまった。
しっかりと生地を寝かせ、伸ばして長方形に切っていく。それをオーブンの天板に乗せて、菫の砂糖漬けをあしらっていった。
子供の頃とはだいぶ形を変えたクッキーだけれども、あの時の気持ちの高まりが甦ってくるようだった。
沢山有るクッキーを全部焼き上げ、まだ熱いそれをひとつ手に取って囓る。小麦と、バターと、砂糖、それに歯ごたえがある菫の砂糖漬けの、甘く大人びた香りは昔となにも変わらないように感じる。
ふと、涙が零れた。菫の花はここに有るのに、何故兄ちゃん達がここにいないのかがわからなかった。
クッキーを盛った木のボウルが置かれた机の前で、泣き崩れる。泣いて、泣いて、どんなに泣いても、誰も話し掛ける人はいなくて、今ここにひとりで居るということと、今まで気にも留めていなかった孤独という物が急に背中にのし掛かった。
その日の晩、泣き疲れて早めに眠りにつくと、菫の花畑の夢を見た。
花畑に射す一筋の光。菫を揺らす穏やかな風。鳥の気配すらない深い森。どれもいつもと変わらなくて、その事にほっとする。
やはり俺にとってこの花畑はかけがえのない大切な物なのだ。
けれども、本当にいつまでもここにいてもいいのだろうか。座り込んで菫を一輪撫でると、幼い頃の記憶が優しく甦る。記憶の中で、兄ちゃんはふたりとも優しくて、甘える俺のことをあやしてくれて、その事に甘えてしまいそうになる。
でも、それはきっといけないことなんだ。兄ちゃん達には兄ちゃん達の人生があるし、勿論俺にも俺の人生がある。あまりにも甘くて優しい、この菫の花畑にいつまでもいてはいけないんだ。
菫が風で揺れる。大人びた香りが鼻をくすぐる。
どうすれば、この菫の花畑から抜け出すことができるのだろう。
どうすれば、この菫の花畑から抜け出す決心が付くのだろう。
自分で歩けるようにならないといけないのに、この花畑はそれを妨げるように優しく包み込んでくる。俺はいつまでここに囚われているのだろう。
ここはまるで牢獄だ。
サークル名:インドの仕立て屋さん(URL)
執筆者名:藤和一言アピール
現代物から時代物まで、ほんのりファンタジーを扱っているサークルです。
こんな感じの少し堅めの物からゆるっとした物まで色々有ります。
基本読みきりですが、いっぱい集めるといっぱい楽しいよ。
過去の幸せなひと時の、象徴だった菫の花。
いつまでも入り浸ってはいけないと思いつつ、ふとしたときに戻ってしまう。前を見ないといけないのに、もう過去には戻れないというのに。
そんな主人公のもどかしさが、滲み出て伝わってくる作品でした。