カンタベリーの墓標を見る。小さな花束が添えられていた。野草の花だった。
「誰が…」
貧相なコップに活けられた花は小さく、園芸種とは違って華やかさはなかった。それを見つめる。身なりのあまり良くない青年がその界隈を熱心に掃除していた。いつもの奉仕の人たちとは違い、その青年はこの墓標のまわりばかりを丁寧に掃除していた。そして、コップを取り上げるとそれを手に出ていった。しばらくすると新しい花に取り替えていた。野草のささやかな花。
「またおまえは…」
司祭がやってきてそう言ったが、咎める含みはなかった。
「金ないから」
「いいけどなあ…なぜブラックプリンスのお墓のまわりだけなんだ、掃除も献花も」
「さあ…よくわかんない」
「そうか」
司祭はそう言うと去っていこうとした。青年はへたりこんでいた。
「おい」
そのまま、崩れ落ちた。気絶したらしい。
「誰か、救急車っっ」

「いつから食事してないって」
「覚えてないそうですよ、栄養失調による貧血ですね」
医師がそう言う。
「それで」
「名前も言わないんですよ、覚えていないの一点張りで」
青年の顔立ちは西洋人のものとは少し違っていた。どちらかと言えば、中近東の顔立ちだった。肌の色は白人種よりやや浅黒かった。
「難民かも知れないな」

言わない言葉。忘れてしまった故郷。父も母も忘れた。そして、自分の名前さえも。この大聖堂に祀られる神を信じていなかった事だけは覚えている。跪き、頭をたれて祈った神は姿を見せないものだったはず。なのに、何故、この大聖堂に参じてある人のお墓にだけ、掃除をし、花を捧げてきたのだろうか。騎士道の花と讃えられた人。その人だけに花を。
「何故、私にだけ花をくれる。何故祈りを捧げる、何故清掃をしてくれるのだ、異教徒の君よ」
「わかりません、殿下」
夢の中でも野草の花を差し出し、跪く。
「ありがとう」
受け取る花の可憐さ、素朴さ。それに華麗な王子が微笑んだ。ケープの中の白い顔。東欧の血からもたらされた黒褐色の髪が揺らいだ。それなのに、瞳は青かった。フランスの端麗王と讃えられた王の子孫らしく、整った顔。

目が覚めると王子の姿はない。当然だ、彼の人は遠い昔に息絶えた人だ。合掌する墓像の横顔にひどく惹かれた。以前に出会ってひと目で恋に落ちたかのように、愛おしい横顔だった。
「君の医療費は司教が出してくださったよ」
「ほっとけばいいのに」
「命に関わるんだ、ほっとくか」
「異教徒なのに」
「それは関係ない」
医師はそう言った。
「弱っている人間を見捨てるのは人道に反する」
あの王子が微笑んだ気がした。
「あの王子様」
「ん」
「カンタベリーの王子様だよ、ベケットの隣の」
「ああ、ブラックプリンスか」
「どんな御方だったの」
「司教がその墓の傍らに倒れていたと言ってたな、おまえのこと」
「俺、いつもあのお墓だけ掃除してた」
医師はそこで彼を見つめた。
「百年戦争の英雄だ、が…英雄ということは」
「敵国の人を殺した」
「そうなるな」
「何百年も前に今の常識って通じるのか」
「通じないな」
「なんで王様になれなかったんだ」
「王様より早く死んだから」
「思い出した…父さんが弟が…政府軍に殺された時、半狂乱になった…」
「君」
「母さんと俺だけ逃して多分、父さんは死んだ、国の名前思い出せないけど…この国に来る前に母さんも死んだ。俺は自分の名前、いつから知らないんだろう」
難民だ、この男は。が、身分も名前もわかる品は何も身に着けていなかった。薄汚れた服だけ。洗濯する側からぼろ布になりそうな服しか持っていない。
「司教が、な」
「ん」
「退院したら、手伝ってほしいそうだ、自分の仕事の」
「俺の神様は違うよ」
「それでもいいそうだよ」
「生きていていいの」
「もちろん」
当然だと医者は言った。青年はふっと息を吐いた。
「退院したら、飯はちゃんと食え」
「はい…」
飲まず食わずで王子様の墓を掃除していた。柵の向こうは仕方ないけれど。野草を摘んで、拾ったコップに挿して捧げた。王子様は受け取ってくれた。そう思いたい。

「名前つけないとなあ…」
司教はそう言って悩んでいた。
「こっちの名前でもいいかな、私にはムスリムの名はわからない」
「名前…」
「名無しでは仕方ないだろう、名前は大事だよ」
「大事…」
「ブラックプリンスにちなむか」
「え、滅相もない」
「かの御方の名前の意味は「平和の守り手」という意味があるんだよ、いい意味だろう」
「平和の守り手…」
「省略してネディにしようか。まあ。私の母の旧姓つけてエドワード・スミスとでもしておこう」
「いいんですか」
「思い出したら、変えればいい。名前は大事だぞ」
いわゆる寺男になった彼は司教の側で働いた。いつまでたっても彼は名前を思い出せなかった。寺男の給料から花を買う。そしてあの貧相なコップにいれて金色に輝く墓像に捧げる。

「私は野の花が好きだぞ」
夢の中で甲冑をまとった王子が言う。
「冬の間は勘弁してください」
そう言うと王子は微笑んでいた。
「いいだろう」

季節は巡る。彼はカンタベリーの小さなアパートで暮らし、庭仕事に従事するようになった。彼を救った司教はすでに亡くなった。故郷は…未だに戦火の中にある。
「ネディ、種まきのことだけど」
庭の管理者が声をかけてきた。
「そっか、もうそんな時期か」
管理人の設計図を覗き込む。
「ここは原種のほうがいいな、強いし」
「日当たりと水はけはどうにもならないし、いいと思いますよ」
「原種の薔薇も植えようかと思ってるんだ」
「どうして」
「強いんだよ、園芸種と違って」
候補の薔薇は東洋原産のもので、気候風土はカンタベリーに似ていた土地のものだという。
「華やかさはないけどな…」
原種の花。
「あの御方は野の花の方が好きだとおっしゃられた」
「え」
「夢の中の幸福な王子様の事」
「では、そうしよう。幸福な王子の御為に。けれど、いいかな、ブラックプリンスという薔薇だけは植えるぞ、お前の為に」
「え」
それは深紅の薔薇だった。いくらか黒味を帯びた紅のクラッシックな薔薇。
「なんで」
「おまえのために、だよ」
管理人はそう言って笑うだけだった。

心に咲く花を。

花は咲く。彼の故郷の戦火にさらされた大地にも。災害に泣いた大地にも。


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執筆者名:つんた

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” に対して1件のコメントがあります。

  1. 雲鳴遊乃実 より:

    敵国の難民であろうと、花を愛でる気持ちは同じ。むしろ国境さえ気にしなければ、なんの気兼ねもなく王子や司祭、他の誰をも敬愛することができる。
    終わらない戦争の中、それでも花は変わらず咲いている。上質な、沁み入る感動をありがとうございました。

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