アナトリアやパミール高原に自生していたその花に、最初に魅せられたのは、トルコ人だったのかもしれない。
 オスマン帝国の皇帝たちは庭をその花で埋め尽くし、細密画の装飾に、陶器を飾る模様に使った。
 十六世紀、スレイマン一世統治下のオスマン帝国の廷臣たちのあいだで、ターバンに花を挟み込んで飾るのが流行った時も、その花を飾るのは特に人気があった。
 葉は縮れ、花弁は刺突剣の如く細く尖り、色合いは燃えるように紅いものが好まれたが、この花は人智の及ばざる神慮によってよく変異ブレイクし、葉にの交じったもの、花弁がふくよかなもの、八重咲き、花の色合いが二色、三色になったもの……さまざまな姿で、王侯貴族の目を楽しませた。
 オスマン帝国では、その花は「ラレ」と呼ばれていた。
 しかしヨーロッパにはべつの名称で伝わることとなった。
 オスマン帝国を訪れたヨーロッパの商人や外交官がターバンを飾るその花のことを訊ねたとき、訊かれた人がターバンのことを訪ねられたのだと勘違いしたのかもしれない。
 トルコ語ではターバンのことを「ツルバンド」といい、その花は、ヨーロッパ諸国においては「ツリパム」として伝わったのだ。
 ヨーロッパに伝わったその花は、高値で取引され、富の象徴として王侯貴族の庭を飾り、変異した株にはヴァイスロイ総督センペル・アウグスツス無窮の皇帝などの特別な名前が付けられ、珍重された。
 そしてこの花は、おおくの人びとの希望と欲望を孕み、十七世紀、植民地を獲得したことによる好景気と、スペインのくびきから逃れ得た自由に沸くオランダで不思議な花を咲かせることになる。
 熱狂の果てにある絶望の断崖に咲く……奇怪でありながらも美しい、異形の花を。
 その花の名は、ツリパ。
 「tulip」……チューリップと言う。

 1636年2月、煉瓦職人ヘルテ・クーマンはチューリップの取引に手を染めた。
 チューリップの売買が儲かるという話は二年ほど前から噂になっていて、ヘルテも興味を持っていたのだが、妻の長患いと、彼自身の慎重な性格もあってずっと様子見だったのだ。
 しかし煉瓦職人仲間はもとより知り合いの織物商、ヘルテの妻が世話になっていた医者、煉瓦の運搬を手伝ってもらう馬引……みな、チューリップ相場で儲けていた。
 彼らがヘルテにその羽振りの良さを見せつけるに至って、慎重なヘルテもとうとう一枚噛んだと言うわけだった。
 元手はあった。
 彼の住むアムステルダムには東インド会社の本社があり、年々拡大する植民地貿易に携わる人びとが各地から移り住んできて、郊外に家がどんどん建っているところで、煉瓦は作る端から売れた。
 そのうえ、1633年から1635年にかけて中央ヨーロッパで猖獗しょうけつを極めた黒死病によって働き手が失われ、労働者の賃金は上がりに上がり、以前と同じように働いていても、収入は何倍にもなった。
 賃金は上昇していても食料品を初めとした物価は、人口の激減による需要減であまり上昇せず、ヘルテのような職人は賃金上昇の恩恵を充分味わうことができた。
 ヘルテがチューリップ相場に片足を突っ込んだのは、十六になる娘に、充分な持参金を用意してやりたかったのもある。
 しかしそれだけなら、地道に働いていてもいまの工賃相場なら問題なかった。
 一番の理由は、長患いの妻が昨年の冬の始めに他界したことにあったろうか。
 持病があっても明るく、愛情深い、ヘルテにとってはかけがえのない妻だったから、彼女のいない冬の長夜は、いやがおうにも物寂しさが募ったのだ。

 実際にチューリップの取引をやってみると思いのほか簡単に儲けが出た。
 やり方も簡単だ。
 夜、仕事の帰りにチューリップの取引を行っている酒場に行く。
 参加料を支払い、酒場にいる売り手の提示する球根の種類と重さと希望価格が、自分の意向と合えば売買成立だ。
 しばらく寝かせた後、今度は自分が売り手になり、希望価格の部分を値上げして次の買い主を探す。
 入札形式で販売されているものでも、やり方は同じだ。
 予算の範囲で入札し落札できれば、値上がりを待って売る。
 難しいことなど何もない。
 球根の実物に触れることもないから、扱いを間違って枯らしてしまうこともない。
 売り手が買い手に譲るのは、チューリップの種類と植えてある場所を記した紙切れなのだ。
 チューリップの価格は、待てばどんどん上がり続けた。
 それはそうだろう。
 土を捏ねて焼けば一晩に百でも二百でも作れる煉瓦と違い、チューリップの球根の数は簡単には増えない。しかし利ざや目当てに買い求める人は増えていくばかりだったから、値上がるのも当たり前だった。
 値上がりは取引に興味のなかった人びとを引きつけ、まさに値上がりが値上がりを呼んでいた。
 ヘルテはその年の夏には元の資産を三倍にまで増やした。
 そんなとき、出会ったのだ。
 その男に。  

「こんばんは、調子はいかがですかな」
 1636年の8月の夜だった。
 その夜もチューリップ相場で一儲けし、酒場で食事をしていると、ヘルテは見知らぬ青年に声を掛けられた。
 はっとするほど美しい青年だった。
 青年が身に纏う上質の毛織りのプールボアンは惚れ惚れするような漆黒で、ヴェネツィア産らしいレースの襟の純白は目に痛いほどだ。
 深紅のサッシュ、絹のリボンを飾ったつばひろの帽子、泥染みのついていない革の長靴……資産家の跡継ぎ息子といったところだろうか。
 もの柔らかな態度と口調にもかかわらず、灰色の瞳が死人のように冷ややかだった。
「私の名はリュテフェンRuthvenと申します。ルトとでも呼んでください」
 強引で馴れ馴れしく、おかしなやつだと思ったが、人恋しくもあったので付き合うことにした。
 話を聞いてみるとなかなか商売への造詣が深く、こと、チューリップ取引に関する彼の持論はヘルテには興味深かった。
「チューリップが値上がりし続けるのは、余剰の金と、自由と、希望があるからです」
 と、青年は言った。
 ヘルテは頷いた。
 空前の好景気のおかげで庶民のおおくが、ヘルテの徒弟時代のような、食べるだけで精一杯の生活ではなくなっていた。いま、この国で手に職を持っている者なら、ちょっとした投資に回せる金がある。
 また、チューリップ取引には新参者を排除するギルドがない。それはすなわち自由だった。
 そしてチューリップは変異する。自分の手にした何の変哲もない赤い花が、突然センペル・アウグスツになって大金持ちになるのだって夢ではない。
 チューリップは、庶民が一夜にして資産家になる夢を見るための、希望の花だった。
「さて、ここで問題です。この状況で、球根の値が下がるのは、どんなときだと思われます?」
 ヘルテははたと考え込んだ。
「値上がりの利ざやが見込めなくなったとき……しかし、変異が起きなくて大もうけできなくても、この調子だと球根の価格は上がり続けるだろう。もともとべらぼうに高いヴァイスロイやセンペル・アウグスツスだって、十年前の価格と比べれば五倍に上がってる。一山いくらだった屑同然の黄色や赤の単色チューリップは十倍だ」
 煉瓦職人として商売に携わっているものの勘として、永遠に値が上がり続けることはあり得ないとは思うが、それでも毎日のように値上がっていくいまの状況に、失望する日が来るとはヘルテには思えなかった。
「まあ、そのあたりのことについては、また明日にでも。明日もこちらにいらっしゃいますよね?」
 今夜出会ったばかりとは思えないほど親しげにルトはそう訊ねてきたが、ヘルテには断る理由はなかった。

 ルトとは、毎晩のように会うようになった。
 ヘルテのチューリップ取引が終わる頃に酒場にやってきて、商売の話をした。
 ヘルテの期待に反して『値が下がるとき』の話はしなかった。
 ルトに水を向けても、はぐらかされるばかりだ。
 しかしルトの話はどんな話も興味深いものだったから、酒場で話し込むだけでは足らず、ヘルテはルトを自宅に招くこともあった。
 となれば、ヘルテの娘ホルタとルトが知り合うのも自然の成り行きというもので、身なりが良く美しいルトにホルタが恋心を抱くのもまた、当然の結果であった。

 十二月もなかばのことだ。
「ヘルテ殿、以前、私がお話しした『球根の値が下がるとき』のことを覚えておりますかな」
 ヘルテの家で、ルトが唐突に切り出した。
 忘れるはずもない。ヘルテはずっとそれについて考えていたのだ。
 夏から冬にかけても、球根の取引価格の値上がりは留まるところをしらない。
 秋口からは現金でなく、「風の取引」と呼ばれる、代金を精算する期日を記した個人保証の書き付け……クレジットノートでの取引が主流になった。
 先物取引の一種……先渡し契約である。
 「手持ちの現金の範囲内」という軛から解き放たれ、いっそうの「自由」を得た取引は、見る間に値段がつり上がっていった。
 たった数日で、価格が数倍になるのだ。
 煉瓦職人としての年収など、ほんの数回、球根取引をすれば稼げてしまう。
 まさに天に駆け上るような値上がりだった。
 現金の要らない「風の取引」のおかげで、元手のない貧しい者たちも、続々と取引を始めていて、チューリップの需要は増すばかりだ。
 ヘルテは慎重な男だったが、いつしか球根取引にのめり込み、いまでは有り金すべてを投資に回してしまっていた。
 いま、ヘルテの手元にあるのは球根の種類と所在を書いた書き付けと、来年の春以降に代金の精算を約束するクレジットノートだけ。
 それはこの空前の値上がりの、落とし穴だった。
 たしかにチューリップは値上がりし、資産は増えている。
 しかし、その「値上がり」を保証しているのは「クレジットノート」……紙切れだけ。
 言葉にできない不安を抱くヘルテのこころのうちを読むように、ルトは囁く。
「春になれば、クレジットノートを持っている者は換金を希望し、球根を持っている者は支払いのために球根を他に売りつけなければいけない。でも、だれに? だれがいまの価格で、現金を出してくれると思います? その現金はどこにあるのでしょう?」
 ヘルテはすう、と自分の血の気が引いていくのを感じた。
「春になれば、花が咲く。自分がいま、どんな『資産』を手にしているか、目の当たりにすることになる。何の変哲もない赤や黄色の花々が、いったいいくらで売れることか」
 春になれば「希望」が萎む。
 これまでなら、それでも良かったのだ。
 球根の代金決済は終わっていたから、無理に換金しなくとも、球根の所有者は次の春にはこんどこそ変異することを夢見て……新しい「希望」を胸にチューリップ取引を続ければいいだけだった。
 しかし、来年は違う。
 クレジットノート取引の決済のために現金が要る。
 ヘルテも売買でクレジットノートを渡していたから、手元のクレジットノートを現金化し、自分が保証して他人に渡したクレジットノートを清算しなければいけない。
 だが……本当にそれは可能なのだろうか?
 どこのだれが……変異しなかった赤いチューリップを職人の年収の何倍もの価格で現金取引してくれるというのだろう?
 もし、ヘルテの持っているクレジットノートが現金化できなければ、ヘルテは、自分の決済ができない。
 ……不渡りが連鎖する。
「ど……どうすればいい?」
 ヘルテは自分の声が震えるのを止められなかった。
 自分がいま、断崖絶壁のまえに目隠しで立っている……そのことに気づいたのだ。
「お嬢さんが病気と言うことにして、いますぐに現金取引に応じてくれる相手を探すのですよ。治療費が必要なので急ぐのだと。相場に不安を抱いていることを態度に出してはいけませんよ。不安は伝染しますから」
 天の福音のようなルト提案は、しかし、不思議にも地の底から響いてくるように、ヘルテには聞こえた。
 含み嗤いにも似て、吊り上がったルトの唇。
「まだ春は遠い。いまならまだ間に合う。売り抜けて利益を確定させるのです」
 ヘルテは心の底からルトに感謝した。
 自分を案じて忠告してくれるルトを、真の友だと喜んだ。
 彼と出会えたのは、神の恩寵ではないかとさえ思ったほどだ。
 ルトがヘルテを見詰める灰色の瞳が、最初に出会った夜から変わることなく死人のように冷ややかだったとしても。

 ヘルテの行動は早かった。
 翌日、娘に話をし、マーストリヒトの近くの温泉保養地ファルケンブルクに旅立たせた。
 娘ひとりでは心配だったので、娘の旅にはルトに随行してもらうことにした。
 娘も喜んでいたし、もし旅のあいだにふたりに男女の約束が出来たとしても、ヘルテは許そうと思っていた。
 ヘルテは酒場で娘の話をし、「娘の治療費の捻出のために」チューリップを現金で購入してくれる相手を探した。
 「風の取引」が主流となったいま、現金取引は嫌がられたが、相場よりも安値を提示すれば応じてくれる人は少数ながらおり、ヘルテは約一ヶ月……1637年の1月なかばまでかかって、ようやくすべての取引を現金精算した。
 ヘルテが署名していたクレジットノートの清算も済ませたうえで、彼は収支を計算し、その増えた額に小躍りした。
 娘が病気だと触れ回っていたせいで、人前ではつねに陰気な顔をしていなければいけない約束事がなければ、ところ構わず歌い出していたかもしれない。
 昨年の二月からチューリップ取引をはじめて、ヘルテの資産は百倍に増えていたのだった。

 そして……1637年2月3日 チューリップ相場は突然、大暴落することになる。
 膨れに膨れた実体のない価格高騰の泡が、はじけた瞬間であった。
 この1634年から1637年にかけてのオランダにおけるチューリップ取引に関する値動きは、世界史上はじめて克明に記録された、ある特異な好景気の成長と崩壊の記録となった。
 理論価格から乖離した資産価格の動きを伴う景気の上昇……すなわち、バブル経済である。

 煉瓦職人仲間や近隣の友人たちが破産してゆくなか、ヘルテが獲得した財産はすでに現金資産として確定しており、目減りしなかった。
 チューリップのように……おおくの取引仲間が何の変哲もない花を咲かせ、あるいは枯れてゆくなか、ヘルテは特別な花に変異した……と、言えるかもしれない。
 しかし、当時はだれも理解していないことではあったが、チューリップの変異は神の恩寵ではなかった。
 真実が解明されるのは二十世紀になってからではあるのだが……変異は、球根がウイルスに感染……取り憑かれたことによるものだったのだ。
 そう……ヘルテの変異もまた。
 ヘルテに憑き、彼の運命を変異ブレイクさせたウイルスは『リュテフェン』。
 だが、それはどういう類いの病みであったろうか?

 三月になってヘルテのもとに、ファルケンブルクから急を知らせる一通の手紙が届いた。
 娘のホルタが危篤だという。
 ヘルテはやりかけの仕事を職人仲間に託しファルケンブルクに急いだ。
 しかし、時既に遅く、ヘルテが娘の滞在先に到着したときには、ホルタは息絶えていたのであった。
 ホルタの手には、一輪、深紅の花が握られていた。
 変わり果てた娘の手に握られた、心臓を流れる血の色に染まったかのようなその花は、何百もの球根を紙切れで取引してきたヘルテが、初めて見る本物のチューリップであった。
 ルト……リュテフェンの姿は、そこにない。
 ホルタが逗留していた温泉宿に、湯治に訪れていた牧師がヘルテに告げたことを、ヘルテは理解できなかった。
「そう……ホルタ嬢は夕刻にリュテフェン氏と会うのを日課にしていました。ですがあの夜は……突然、地の底から響いてくるような低くくぐもった笑い声が部屋から聞こえてきたのです。異様な声でしたが、間違いなくあれはリュテフェン氏の声です。私が宿の主人に鍵を開けてもらいホルタ嬢の部屋を確認したときには、リュテフェン氏の姿はなく、ホルタ嬢は首から流れ出た血でドレスを真っ赤に染め、虫の息でリュテフェン氏の名を呼ぶばかり。ホルタ嬢の首の傷は……うわさに聞く東欧の怪異、吸血鬼の犠牲者のようでした……」
 ヘルテは必死にリュテフェンの行方を追い求めたが、彼のその後の消息は遥として知れなかった。

 亡き妻の一粒種だったホルタを失ったヘルテ・クーマンは、酒に溺れる日々を過ごし、事件の二ヶ月後、花が萎れるように亡くなった。
 ヘルテがチューリップ取引でなした財産は、彼が亡くなったのち、彼の遠い親族を名乗る灰色の目をした美しい青年が相続手続きを済ませ、根こそぎ持ち出してしまった。
 隣人たちは、クーマン氏の葬式にも出ることなく財産を攫っていったその謎の親族を罵りつつ、つぎつぎと人が亡くなっていったクーマン氏の家は『チューリップ熱』に取り憑かれていたのだ、と噂し合ったのだった……。

 そして、ここにもうひとつ「リュテフェンRuthven」氏の名が記された書物がある。
 19世紀、英国の資産家オーブレイと、その妹を襲った悲劇の物語。
 そう……国境を越え、世紀を越え、灰色の目の青年の仄暗い旅は、続いている……。

『が、彼等が着いた時には既に遅かった。そこにはもはやルスヴンRuthven卿の姿は見えず、オーブレイの妹は吸血鬼の渇を飽かしめてゐたのであった。』
ジョン・ポリドリ著「吸血鬼」佐藤春夫訳


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サークル名:バイロン本社(URL
執筆者名:宮田 秩早

一言アピール
吸血鬼の登場する小説を書いています。本作は、吸血鬼・経済史・花をテーマに書きました。バブル経済は、古代ローマの文献にもその発生の痕跡が窺えますが、オランダのチューリップバブルは、発生から崩壊までの経緯が克明に文献に残った世界で最初の「バブル」です。美しく咲いた異形の花の姿を、是非、ご鑑賞ください。

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