対決! どっちのびよりショー!
みなさんこんにちは、ひざのうらはやおと申します。今回は、テキレボのアンソロジーとして、弊社発行のエッセイ「まんまるびより」および「しん・まんまるびより」風にふたつの文章を書き並べてみたいと思います。ふたつのシリーズを比べますと、「まんまるびより」は混沌としたクソエッセイ集で、「しん・まんまるびより」はそれすら超越して一周まわった形のものとなっています。
ここに並べてみますので、どちらがお気に召すか、比べてみてください。
「まんまるびより」
11月4日 この頃涙もろくなった母がひとり咳をするような庭先もないマンションに住んでいる球体の生物からひとこと
秋ですよ! 秋も極まってますよみなさん!
天高く馬肥ゆる秋、ついでに球体の生物も絶賛膨張中ですけれどもいかがお過ごしでしょうか。
いきなりなんですけれどもこの原稿はテキレボことText-Revolutionsのアンソロジー原稿として提出するものなんですけど、まあそんなことはどうでもよくて、好き勝手適当に書いていくつもりなんで苦手な方はすっとばしてくださいね。以下駄文しかないですんで!
とはいえお題が「花」らしいんですよ。本来はね、公式のアンソロ募集時点からこういうのって書かないといかんな、とか思っててそれより前に書いたやつはフラワーイングだとか思ってます。
そうやってむりやり花にかけようとするのやめような。
もうすごいですよ、まだ11月だっつってんのにスタバでは小粋なジングルベルズロックがかかってんですよ。なーにがジングルインビートだバカヤローってはなしじゃないですか。今のは「ビート」と「ビートたけし」をかけたわかりにくいギャグなので解説しました。あと「花」と「はなし」もかぶってるねいま気づいたけど。じゃあギャグじゃねえじゃねえかよ。
ってなわけで全然中身がないのにもう500字くらい駄文を垂れ流しているわけなんですけど、まあなんというか、花ってぼくの意識にことごとく影響がなくて、たぶんあんまり好きじゃないからだと思うんですよね。花には虫がつきもので、その虫が嫌いだからってのがあると思うんですけどね。花は虫を連想させるんですよね。もっとも人によっては花は植物の生殖器ですから花はセックスの象徴なんつってる書き手もいるにはいるわけで、まあそういう想像っていうのは人それぞれなわけです。けれども多くの人にとっては花はきれいなものの象徴で、たとえば慣用句やことわざにもそれを前提とした用法がありますよね。「知らぬが仏、いわぬが花」とか。「立てば芍薬座れば牡丹、おしりの穴には薔薇だらけ」とか。
どういう状況だよ。まずおしりの穴に薔薇はまずいだろ。痛えよ。
正直花をきれいだなとあんまり思ったことがないんですけど、まあ世の中でそういう風に教えられてるから慣用的にそういう感じで自分の創作でも使ってるわけなんですよね。こういう風に、自分ではそこまで思ってないけど世の中の風潮、固定的慣用的思考としてそうなっちゃっている、みたいなことって実はものすごくいっぱいあって、そういうのに意識的でありたいなあ、とか思う今日この頃なわけですよ。そういう知的な大人、間違えた球体の生物でありてえなってね。
「しん・まんまるびより」
花のはなし
ひとに出されたお題というものに正面から向き合ったことがないのがひとつのコンプレックスとなっている。今回のお題にしても、それを正面からとらえられる小説を書く自信がなかったから、という苦肉の策で考えたものだ。過去、ぼくは「再会(第2回)」、「嘘(第5回)」、「祭(第6回)」、「海(第7回)」とテキレボのアンソロジーに投稿しているが、ひとつとしてお題どおりの小説を書けた試しがない。そもそも、小説かどうかすら怪しいものも紛れ込んでいる。とはいえ、そういったものでも許されているのがこのアンソロジーの、他にはない美点であるし、だからこそこのような文章を書いて投稿しようというのだ。
ぼくとしてはまだまだ秋だと思っているのだが、世間は確実に冬支度をしてしまっている。今年は特に夏が長かった。10月まで夏だったのではないだろうかというくらい、暑い夏が続いた。だから秋はこれから、少なくとも12月の頭くらいまでは秋であって欲しいのだが、どうやらそうもいかないようで、少し悲しい。
生まれてからこのかた、冬の方が過ごしやすいと思っていたのだが、ひとり暮らしを始めてから、それが自分の身の回りの世話、という部分を差し引いたところでの考えだということに気がついてしまった。まず、冬は筆が進まなくなる。去年は4作、新刊を出したがその最後は8月で、それ以降今年の5月まで新刊らしい新刊がないイベントが続いた。ひざのうらはやおといえば――というほどメインで広報を行ってはいないが結果的にぼくは何の人かというと、という意味での「いえば」――のシーズンレースも冬に入ってから大幅な遅滞がみられてしまった。気力のほとんどを身の回りの世話に使ってしまって、それ以外のことがまるっきりできない日々が続いた。だから冬が来るのは嬉しいけれども少し悲しい。
おわかりだろうか? ここまで全く「花」のはなしをしていない。せっかくなので花のはなしをしよう。えてしてぼくの文章は常時こんな感じだ。エッセイに限らず小説もそういうきらいがある。
ぼくは花が苦手だ。
苦手な理由はものすごくたくさんある。主なものをあげていく。
ひとつ、花というものは処分に非常に困る代物だ。生花のまま捨てるのはもってのほかだし、かといって枯れるまでどこかに飾っておくのもなんだか変な感じがする。そもそも、花が何ごみに相当するのか未だによくわからない。生ごみじゃなさそうだし、かといって燃えないはずがない。植物の構成要素は水と炭素がだいたいのはずで、つまりは燃えない要素がないし、燃えないごみとして北関東の山林にそのまま埋められるにはあまりにもしのびない。つまり、貰ったときの後のことを考えるとこころがむずむずしてくるのである。だから精神衛生上、できれば貰いたくないしあまり見たくもないのだ。鉢植えならまだしも、切り花が極端に苦手な理由は主にこれで、相手にそんな思いをさせるようなひとだと思われたくないがために、花を贈るのはそれ以上に苦手だ。
もうひとつ、これは花というものが持つ物理的なフォルムである。花というものは、植物が持つ生殖器である。故に花粉がつきものだし、たいていの売られているような花は虫媒花、すなわち見た目や蜜の味を良くして虫などの生き物に花粉を運んでもらっている植物のものである。庭ならともかく、家に虫が入ってくることを喜ぶひとは非常に少ない。もちろんぼくは嫌である。花を置くことは、同時に虫を呼び込むことになる。もちろん他にも虫を呼び込むことになる要素はいくらでもあるのだが、すでに花を見ると虫が寄ってくるなあと思ってしまう人間になってしまっているので、そういう部分でも花を部屋に飾ったりするのは抵抗がある。そして綺麗であると思ったことがない。
おそらくだが、植物というものに脅威を感じたことはあっても、それそのものが持つ美しさを感じたことがあまりないからだろうと思う。たとえば手入れされた庭園を見ても、全体としての調和の美や、統制された世界としての庭園はそれとして見れるけれども、ひとつひとつの植物の色つやだとかには興味がないし、多分気がつかない。植物というものに、人間が統制しえない自然を見ていて、そこに言いようのない恐怖を感じているのだろう。思い通りにならないものは怖い。
というわけで、ぼくは花が苦手なのであるが、社会人として労働に従事し始めると、この世界には花屋というものがあって、式典や送別会などのほか、極めて日常的に花がやりとりされているということに気づく。社会人になって初めて気づくくらいなのだから、ぼくのそれまでの日常に花など当然ないことは明白である。母の日にカーネーションを一度も贈らなかったことを今になっても恨み言で言われるくらいだから、ぼくの感覚は一般的ではないのだろう。
だけれど、ぼくの感覚がそれほど特異であるとは思っていない。ここまで書いてきたとおり、ぼくが花を苦手としている理由はそこまで複雑じゃないからだ。同じような感覚の人間はきっとたくさんいるはずだ。ただ、みんなぼくより「おとな」だったり、強い感情を持っていなかったりするだけのはなしだ。
ぼくは、ぼくが特異ではないことを叫びたいがために、創作を続けているのではないか。
この文章を書いて、ふと、そんなことを思った。
いかがでしたでしょうか。
どちらも、同じテーマ、同じ日付で書かれたものです。同じ書き手が書いた同じエッセイというくくりのなかでも、様々なテイストがあると思います。そんなことを表現したくて、このような形にしてみました。お楽しみいただければ幸いです。
さて、参りましょう!
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サークル名:ごうがふかいなHD(URL)
執筆者名:ひざのうらはやお一言アピール
ごうがふかいなHD(ホールディングス)は、ごうがふかいなの研究者ひざのうらはやおによって開設された非公開サークルです。ジャンルレスな作風とシニカルな文体に定評があります。SF(すごいフューチャー)からスチームパンクローカル小説、現代ファンタジーやライトノベル、果てはエッセイまで幅広く取り揃えております。ぜひ、あしをお運びください。