歳の数だけ薔薇の花より

 春も終わりに近づいた、とある一日のこと。
 夜の帳が降り、暗くなった窓の外を眺めながら、ソファにかけたエレは、若草色の瞳を憂いに曇らせて、今夜何度目かわからない溜息を零した。
 先だっての冬、元セァク皇国の姫であるエレを狙った事件が起きたので、弟のヒョウ・カ王のはからいで、城下で暮らしていた一家は今、王宮の一角に身を寄せている。
『アイドゥールに遷都したら、城下の見回りを強化しますから、今は我慢してください』
 弟はそう言って苦笑し、
『またエレ達に何かありましたら、もうわたくし達の心臓がもたなくてよ』
 義妹王妃も、いつもは気丈に弧を描いている眉を垂れて、吐息をついたものだった。
 室内に視線を戻せば、ベビーベッドで、双子の我が子らが、母の気持ちなど知らずとばかりに、すうすう穏やかな寝息を立てている。そこから棚の上の時計に目を移すと、短針は既に左上に回りかけていた。
(いくら何でも、遅すぎます)
 エレの夫であるインシオンは、フェルム新生統一王国軍の大佐である。過去の功績により、『黒の死神』の異名を戴くほどの凄腕の戦士で、黒髪赤瞳に背の高い容姿と、そのたたずまいから放たれる威圧感は、初対面者なら、おおかた畏怖する。実際、エレも初めて彼に邂逅した時、本当に死神が迎えにきたのではないかと錯覚したものだ。
 だが、それは表向きの彼の虚勢なのだ。本当は、とても優しくて、他人を傷つけないように、自分の事情に巻き込まないように、突き放すが故の冷たさで、なのに、とても寂しがり屋で。そんな彼だから、エレも心惹かれたし、結婚にまで至ったのである。
 そんな彼は、王国の兵として毎日朝早く出勤して、夕飯の時刻にはきっちり帰ってくる。しかし今日に限って、待てど暮らせど、聞き慣れた足音は近づいてこない。
 何か緊急の会議でも入ったのかと、国王直属の騎士をしている少年をつかまえて訊いてみたのだが、
「あいつなら、定時の鐘が鳴った少し過ぎに、あがっていったよ。まだ帰ってこないの?」
 と、エレに似た太い眉根を寄せて、怪訝そうに洩らした。
「浮気なんかするたまじゃないだろうし、したら僕が絶対許さないけど、一応、足取りを追ってみる」
 そう言ってはくれたものの、まだ、芳しい情報は入ってこない。
 ソファの背もたれに、くたん、と寄りかかる。頭を預けられる逞しい身体は、今、隣にはいない。
 彼は王国の重役だ。敬意や好意と同時に、嫉妬や憎悪も向けられているだろう。それは世間を知らない姫だったエレにもわかる。
 もしどこかで、彼を排除しようとする手の者に襲われていたら。彼がそう簡単に他者におくれを取る戦闘力ではない事は、エレが一番よくわかっているが、もし、万一、という可能性の雲は、頭の中にもくもくと湧いて出て、灰色の思考で塗りつぶしてゆく。
 もし、彼がいなくなったら。エレは子供達を抱えて途方に暮れてしまう。元姫君という事で、子育てを手伝ってくれる者はいくらでもいるだろうが、そういう意味ではない。エレを庇護して、エレを愛して、心身共に守ってくれる、かけがえのない存在がいなくなってしまうのは、エレのこの先の人生を真っ暗闇の谷底へと突き落としてしまうのだ。
 頭を振って、悪い考えを駆逐しようとしても、じわり、と目の端に浮かぶ水分がある。胸の前で合わせた手が、細かく震えているのを自覚した時。
 がちゃり、と入口の鍵が開く音がして、エレは弾かれたように身を起こした。どきどき高鳴る心臓をおさえきれないまま、小走りに向かう。
「……ただいま」
 待ち望んでいたかの人は、『黒の死神』に似合わず妙に萎縮して、やや気まずそうに顔を逸らし、ぼそりと零す。
「悪い。夜にも開いてる花屋を探していたら、こんな時間になった」
「花?」
 小首を傾げる。それまでの震えが止まった身体できょとんと立ち尽くすエレの眼前に。
 ばさり、と。
 鮮やかな紅色をした、大輪の薔薇の花束が差し出された。
「好きな奴の誕生日には、歳の数だけ赤い薔薇を贈るもんだって、ソキウスに茶化された事があったのを思い出してな」
 薔薇の花弁と同じ、赤い瞳をこちらに向けて細め、彼は口の端を持ち上げた。
「誕生日おめでとう、エレ」
 その途端、彼が無事だったという安堵と、自分の誕生日を覚えていてくれたという嬉しさと、だが、さんざん心配をかけた末にこれか、という怒りが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、
「……インシオンの」
 身体は再びぷるぷる震え、涙声が零れて。
「インシオンの、ばああああかああああああああ!!」
 我が子らを起こしてしまう可能性も忘れて、エレはぶわりと涙を溢れさせ、大声で怒鳴った後、夫がおろおろする前で、わんわんと幼子のように泣き出した。

「……落ち着いたか」
「うう……ひゃい……」
 ソファにかけて、タオルで顔を拭い、はなもかむと、インシオンが温めてくれたホットミルクの入ったマグカップが差し出される。タオルをテーブルの上に置いて両手でマグを受け取り、ミルクを口に含むと、まろやかな甘さが口内に広がり、昂ぶった気持ちを鎮めていってくれた。
 夜更けに大声をあげてしまったが、幸い子供達が目を覚ます事は無く、何事かと様子を見にきた衛兵にも、インシオンが「すまん、ただの夫婦喧嘩だ」と言って帰したので、おおごとになりはしなかった。
 薔薇の花は今、テーブルの上でその存在感を主張している。歳の数だけ、と夫が言った通り、冷静になってその大輪を数えてみれば、二十あった。
 夫の元参謀は、一体どこでそんな知識を仕入れてきたのだろう、と疑問に思うと同時に、いや彼なら、そういうどうでもいい雑学を拾ったら、相手をおちょくるネタとしていつまでも覚えていそうだ、という考えも浮かぶ。もうこれは、誰に怒って良いのかわからない。
 ホットミルクをもう一口含んで、マグをテーブルに置けば、隣にインシオンが腰掛けて、エレの赤銀の髪に指を絡め、引き寄せた。自然、エレの頭は彼の肩に寄りかかる形になる。一瞬でも、これを失うかもしれないと考えた事を思い出せば、またじんわりと岸水寄せたが、ぱちぱちと瞬きをして、涙を引っ込めた。
「心配かけて、悪かったな」
 無骨な大きい手が髪をすきながら、その台詞が降ってきたので、首を横に振る。この手が好きだ。耳に心地良い低い声が好きだ。まっすぐに見つめる赤い瞳が好きだ。不器用な優しさも、時折見せてくれる弱さも、全てが愛おしい。
 だが、さんざん心臓に悪い思いをしたのは、それとこれとは話が別だ。彼の顔を見上げて、少しむくれた様子で言う。
「次にこういう事で遅くなる時は、ちゃんと予告してください」
「予告したらサプライズにならねえだろ」
 こんな心臓に悪いサプライズは、出来れば今後は回避させていただきたい。ぷっくりと頬を膨らませた後で、エレは、用意していた夕食の事を思い出した。
「おなか減ってますよね。軽めに出します」
「え? あ、ああ」
 預けていた身体を起こして立ち上がると、夫が名残惜しそうに髪から手を離す。冷めてしまったパンとスープ、鶏むね肉の胡椒焼きを温め直してテーブルに並べ、インシオンが食べ終わるのを見計らって、氷冷庫から、二人で食べ切れる大きさの、薄い紅色をしたケーキを取り出した。
「薔薇のケーキか」インシオンが愉快そうな色を声と表情に乗せて微笑む。「お前、自分で用意してたのかよ」
 ケーキの上には、大粒の苺と、薔薇を模した砂糖菓子が置かれている。それを半分に切り分けて皿に載せ、二人同時に口に含めば、生クリームに混ざった薔薇の香料の香りが鼻腔を満たし、それまで心配したり、怒ったり、泣いたりした目まぐるしい感情は、クリームと一緒に、あっという間に溶けて消えてゆく。
「お前」それまで黙ってケーキを食していた夫が、こちらを向いて苦笑する。「クリームついてるぞ」
 彼の顔が近づいてきて、エレの鼻先についていたクリームをぺろりと舌でなめとる。もう夫婦だというのに、そんな事をされると、心拍数が急上昇して、頬は薔薇の花より赤くなる。
 こちらの心情を知ってか知らずか、夫はにやりと笑って、くしゃくしゃと頭を撫でてきながら、薔薇の花束に視線をやる。
「来年の誕生日は、二十一本だな」
「いいです」
 エレはふるふると首を横に振り、「どうして」とやや不満そうに半眼になるその瞳を見上げて、心からの想いを告げる。
「あなたがいつまでも元気で、こうして私の隣にいて、私と一緒にケーキを食べてくれるだけで、それで充分です」
 赤の瞳が軽い驚きにみはられ、それから、悪戯っぽく細められる。
「仰せのままに、お姫様」
 そうして、愛の証が唇に降りてくる。
 舌に触れた味は、薔薇の香りが漂っていた。


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サークル名:七月の樹懶(URL
執筆者名:たつみ暁

一言アピール
完結済長編恋愛ファンタジー『アルテアの魔女』から、4巻あたりの一幕です。今展開中の『フォルティス・オディウム』は殺伐としていて、甘々な事がなかなか出来ないので、こちらで思いっきりらぶいちゃさせてみました。この二人もよろしくお願いいたします。

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