綺麗な花の使い方

「こんな大荷物抱えて、一体何やってんのかね……」
 一級河川をまたぐコンクリート橋の歩道の真ん中。独り呟いた私は、スーツケースを傍らに止めると、背中のリュックサックをアスファルトの地面に下ろした。荷物を全て道の端に寄せ、欄干に腕を載せて寄りかかる。まだ二月ということもあり、川の上を流れて行く北風は結構冷たい。
 コートの襟元を持ち上げながら、橋の下の風景を見下ろす。広大な河川敷に沿って小高い堤防があり、さらに陸地側には住宅街が現れて。
 そのほんの少し先に、花畑がある。花畑としか呼称されない、固有の名前を持たない花畑が。
 花畑はときどき絨毯と形容されるけれど、それはまさに深紅の絨毯そのものだ。快晴の空の下、低層住宅と商店が立ち並ぶ雑多な色の街の中に、突如として広がる巨大なレッドカーペット。立ち入り禁止の看板と工事用の金網フェンスで全周を厳重に囲まれた、一戸建てで言えば軽く数十軒分の広さはあるだろう真っ赤な花畑。周辺の景観と調和しようという意志が微塵も感じられない異様な鮮やかさに、私は感嘆の溜め息を吐いた。
 双眼鏡を覗き込み、花畑の端に点々と佇む角張った大きな塊を確認する。この様子なら、予定通りに始まるだろう。私がレンズから目を離したとき、隣から声が聞こえた。
「……あの」
 声のした方へ顔を向けると、セーラー服姿の女の子が目に入る。
「何?」
「あっ、すみません! 別に用があるってわけじゃなかったんですけど!」
 女子生徒が、両手を振りながら焦りの交じった笑みをこぼす。
「若い女の人が花畑を見に来てるところ、見たことなくて。……大抵は、地元の人ばかりなので」
 言いながら、女子生徒が一瞬だけ花畑の方に目をやった。その瞳の向けられた先では、数十人の集団が花畑を囲うフェンスのすぐ外側に立ち、じっと金網の向こう側を見つめている。ちょうどこちらに背中を向けているので顔は見えないが、背格好から、その大半が中年以上で、若者はほとんどいないことが分かる。
「すみません、もしかして……」
「ううん、大丈夫。私は関係者じゃないから」
 女子生徒の表情が固まりかけたのを見て、私は素早く言った。
「初めまして。私は通りすがりの旅の者だよ」
「わ、わたしは、ええと……地元の、高校生です」
「うん、よろしくね」
 私は視線を女子高生の方に向けたまま、もう一度欄干に身体を預けた。
「その……お姉さんは、どちらへ旅行に?」
「海外」
「……えっ?」
 女子高生が目を丸くする。
「夕方の飛行機で、大学の後輩と一緒に行くの。空港で集合なんだけど、途中下車して寄っちゃった」
「お、お姉さんって、何だか不思議な人ですね……」
「でしょ。それ、私の取り柄だから」
 にやっと笑ってみせると、女子高生の方からも曖昧な笑いが返って来た。
「……お姉さんは、お花、好きなんですか?」
「んー……」
 相も変わらず吹き付ける冷風を鼻孔から吸い込みつつ、目を細くして遠くの花畑を眺める。
 花を鑑賞するという行為には、あまり価値を感じない。花を部屋に飾った経験もなく、花畑と呼ばれる空間を実際に目にしたのもこれが初めてだ。そもそも今日だって、あの赤色の花の美しさを純粋に楽しもうと思っているわけではない。
「特には。嫌いでもないけどね」
「お姉さんって、やっぱり不思議な人です」
 女子高生がおかしそうに言う。
「あなたはどうなの? 花は――」
 そこで、私は言葉を切った。花畑の端に佇んでいた塊達が、一斉に動き始めたからだ。塊達は花畑の中をゆっくりと突き進み、そして、後にはむき出しの地面だけが残される。花畑の端から端へ。引き返して、再び元いた端へ。塊達が直線的に行き交うたび、赤い絨毯は無数の茶色い帯に侵食されて片付けられて行く。
「始まったね」
「……はい」
 大型の刈り取り機があれだけ走り回っているのだから、発せられる騒音はさぞ酷いものだろう。けれど、その音も、距離が遠過ぎて私達の耳には届かない。こちら側にあるのは、過ぎ行く車と人が発する控えめな雑音だけだ。
「ファイトレメディエーション、でしたっけ」
「博識だね」
 ファイトは植物。レメディエーションは修復。すなわち、植物による環境修復。植物が外部から有害物質を吸収して体内に蓄積する仕組みを利用して、汚染された環境を浄化する技術。
 通行人がまた一人、花畑になど何の興味も示さず、私達の背後を急ぎ足で通り過ぎて行く。
「……昔、あの花畑がある辺りに住んでいたんです」
 穏やかで、静かな声。分厚いコートの下で、自分の身体がわずかに震えるのを感じた。
「事故を起こした工場の裏手に家があって。三人家族で、助かったのはわたしだけでした。……わたしはまだ小さかったので、記憶はありません。全部、後から聞いた話です。幸い、同じ市内に住んでいた祖母が引き取ってくれたので、生活に困ることはありませんでした」
 あの事故のことは、私も人並みに知っている。化学工場の大規模な爆発事故。工場と隣接していた建物は瞬時に倒壊、工場から出た炎は近隣の民家に次々と飛び火し、辺り一帯は文字通り火の海と化した。そこに追い打ちをかけたのが、爆発と同時に飛散した有害な化学物質だった。周辺の土壌は人間が居住するのに適さないものへと変貌し、国は長期的な復興計画を策定せざるを得なくなった。
 しかし、いくら長期的とは言っても、全ての物事に終わりは来るわけで。
 今回の刈り取りを前に、国は除染の完了を宣言した。毎年の風物詩のように行われてきた刈り取りと植え付けが、今年は刈り取りだけになる。その発表は、復興が一つの区切りを、そして一つの花畑が終わりを迎えることを、ごく単純に示していた。
「すみません。急に変な話をしてしまって。何だか……お姉さんには、聞いてもらいたいって思ったんです」
「……いや、その気持ちは嬉しいよ。でも、良かったの? ほら、もっと近くで……」
 私は、フェンスの前に集まった人々の背中を見つめた。集団の中央に立っていた一人が、おもむろに両手を挙げる。それを追いかけて、周りの人々も一斉に腕を挙げる。寄せては返す波のように、ただひたすらに繰り返される行為。止めどなく響いているだろう万歳の叫びも、やはり、ここまでは聞こえてこなかった。
「花畑を見るたびに、いつも思ってたんです。とっても綺麗だな、って。あの赤いお花の種を家の植木鉢にまいて、大事に育ててみたいな、って」
 慈しむような口調で、女子高生が囁く。けれど、それが叶わない望みだということくらい、本人もとっくに理解しているのだろう。あの花は、ファイトレメディエーションのために様々な遺伝子改変を受けている。その中には、花が敷地外へ出て生態系に影響を与えることを防ぐため、正常な種子を作れないようにするというものも含まれていた。金属の刃に切り刻まれて廃棄されるためだけに存在するその花にとって、本来の機能は不必要なものでしかなかった。
「だから、わたしは……今日の花畑は、近くで見たくなかったんです」
「……そっか」
 風に長く当たり過ぎた唇が、体温を奪われて冷え切っているのを感じる。口元を引き締め、言葉が震えないように気を付けながら、私は短く言った。
「花、本当に好きなんだね」
「――はいっ!」
 互いの顔を見ていなくても。
 私達は互いに、自分の隣に立つ相手が笑っていることを、知っていたのだと思う。

 人のまばらな、駅前の小さな商店街。ほんの一、二時間前にはただ通り過ぎるだけだったその場所で、私は何となく歩みを止めた。
 柄にもない、というやつだ。
「あら、いらっしゃいませ」
 気の良さそうな年配の女性店員が、柔らかな笑みを浮かべる。花屋の狭い店内は大小無数の植物でぎっしりと埋め尽くされ、二人で立っているのも息苦しいほどだ。
「二千円で、花束を一つお願いします」
「何かご希望はございますか? たとえば、使い道だったり……」
「いえ、家に飾るだけですから。花のことはさっぱり分からないので、お勧めのものを包んでいただけると」
 並んだかごやケースから切り花を取り出す店員の姿を眺めていた私は、ふと、レジの置かれたカウンターの内側に、一枚の写真が貼られているのを見つけた。
 店員と並んで、見覚えのある若い女の子が写っている。
「それ、孫なんですよ」
 いつの間にかこちらを向いていた店員が、にこやかに言う。
「……すみません、勝手に見てしまって」
「良いんですよ。可愛い自慢の孫娘ですから。将来はこの店を継ぐと言って止まないんです。私としては、大学くらいちゃんと出てほしいのだけれど。はい、出来ましたよ」
「ありがとうございます」
 骨のありそうな子だから、きっと説得も大変だろう。私は内心で苦笑した。
 店先に出て、ポケットから携帯電話を取り出す。
「どうしましたか、あおい先輩」
「今、途中まで来てるんだけどさ。一旦家帰るから遅れるね」
「はい?」
 後輩が、スピーカーの向こうで呆れたような声を出す。
「一応聞いておきますけど、理由は何ですか?」
「花束買っちゃったんだよね。旅先に持って行くわけにもいかないし、家に置いて来ようかなって」
「……なるほど。あの先輩が花を愛でるなんて無邪気な趣味に目覚めたとなると、今日の飛行機は欠航ですね」
 肩をすくめる後輩の姿が目に見えるようで、私は吹き出しそうになるのをこらえるのに必死だった。
「大丈夫、時間には余裕を持たせてるから」
「頑張って急いでください」
「ん。ありがと」
 通話を終了し、私は荷物を持ち直す。右手にはもちろん、レジ袋から取り出した花束を。ゴムで縛られた色とりどりの花の名前は、やっぱりどれ一つとして分からない。それでも、思い思いに咲き誇る花達に顔を近付ければ、決して優しくはない芳香が鼻の奥をきゅっと締め付ける。
 名もない小さな花畑を青空に一瞬だけ透かしてから、私は早足で歩き始めた。


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サークル名:虚事新社(URL
執筆者名:田畑農耕地

一言アピール
作家・編集・デザイナーの3人組文芸サークル、虚事新社です。今回の作品に何かしら好意的な感想を抱いてくださった方がいらっしゃいましたら、既刊の長編小説『なお澄みわたりパシフィック』を是非どうぞ。そのほか、準新刊(テキレボ初出し)として短編集『アンチ文化侵略』と『田舎へ旅を』新装版があります。

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