偲びの花
あなたにとって特別な日、結婚式の朝がきた。
その前夜、征太は一睡もできなかった。
まんじりともせず暗闇の午前二時、彼は隣で寝息を立てている妻の佳奈子にそっと唇を寄せてみたが、気づいた彼女が譫言のような声で呻いた。
「だめ。あした早いんやから」
寝返りで拒否された。
そうして気がつくと午前七時だった。
十五分後には佳奈子のスマホがビンゴボンゴと陽気な音楽を鳴らす。寝不足の前頭葉に喝を入れるラテンのリズムで征太の視界もたちまち輝いた。
朝だ。
出勤には遅いが休日にしては早い。
「よっしゃ寝坊せず起きたぞーい!」
佳奈子がベッドから降り、ラテンに合わせてぶいぶいと体操してから一気にカーテンを開けた。
晩冬の日曜日、光は淡く空は白い。
それはまるで用意されたかのような美しい婚礼の朝だった。佳奈子は「最高の結婚式日和ったい」と呟き、目を細めて征太に振り向いた。
「こんな日にお式なんてあいつはツイてるね。せいちゃんもはよ起きい。……ねえ、夜中うちにチューした?」
「するか」
征太は片手で顔を擦りながら嘘をつく。頬が少々むくんでいた。
十年前、あなたは佳奈子と征太の両方と絶縁した。今のあなたにとってはもう遠い過去だ。
だからこそあなたはこの夫婦に招待状を出した。
寝坊しなかったご褒美だと言って、佳奈子はフレンチトーストを焼いた。
ネットのレシピどおりに作った時短の偽フレンチトーストだ。それでも美味いものは美味い。甘くて熱いものはたいてい美味い。
夫婦は黙々と食べていたが、ふと佳奈子が顔を上げる。
「披露宴のホテルから電話がかかってきて、女性招待客もホテルの美容室でメイクと着付けをしてくれるんだって。しかも無料だよ。披露宴の受付が始まる前に直接ホテルに来て下さいって言われたから、うち、ちょっくら先に電車で行くね。せいちゃんはホテルの送迎バス?」
「さすがに親戚サイドの乗り合いバスなんて絶対ムリ。タクちゃんに車で送ってもらうわ」
「職場の後輩をこき使いすぎでしょ。……それじゃ会場で合流だね。それにしても招待客のドレスアップも奢りでやってくれるって超太っ腹オプション設定じゃない? ホテルもすっごく高級なところだし、もしかしてセレブ婚なのかな。ご祝儀は相場で大丈夫かな。せいちゃん、あいつの結婚相手のこと知ってる? 招待状の名前は全然心当たりないよね」
「ぼくも知らん」
「そっかあ。でもあいつは幸せなんだね。よかった。――よかった」
そう繰り返して佳奈子は苦い珈琲を飲み干した。そろそろ時間がない。
あれから十年。
たったの十年。
それまでずっと一緒に仲良くやってきたのにすべてが崩壊して十年。
佳奈子はまだあなたの名前を口に出せない。何千回と呼んだはずのいとしい名前を封じたきりだ。心の中ではどうだろう。少なくともあなたの心はいつも佳奈子の名前を呼び続けていた。もちろん届きはしなかった。佳奈子にはあなたの声を受け取る資格がないのだ。
控え室の椅子は腰に悪い。
あなたは両足を振り上げて座り直し、三杯目のシャンパンを飲んだ。味がわからなくなってきたのはいいことだ。ここ半年ずっと禁酒してきたが素面ではやってられない。
「あのう、そろそろお時間ですが新郎新婦様は計画通りに来てくださいますかね?」
ウェディングプランナーが不安げに腕時計を眺める。
ちょうどあなたと同じ年頃で、きっちりとまとめ上げて固めた髪と首に巻いたスカーフ、細身のスーツ姿はキャビンアテンダントの装いに近い。
「あれから私なりに調べてみました。今回のようなサプライズ挙式は当ホテルでもいくつか前例がございまして、正直なところ成功率は五割といったところでしょうか」
「全盛期のベーブ・ルースの打率より高い」
あなたはぱちんと指を鳴らしたが見事に無視されてしまった。
「お式を挙げていないご高齢の両親のためにお子様方がドッキリを仕掛けるというパターンなら外れようがないのですが、今回のように余計なお世話のサプライズ挙式では最悪の結末になった例も……、」
と、さらに言葉を継ぎかけたところで彼女の業務用スマホが鳴った。
「――はい、はい、それではのちほど!」
彼女は通話を切ると最高の笑顔を向けた。
「よかったあ! 御新婦さまはおひとりでご到着です。お支度が調いしだいこちらにいらっしゃいますよ。お時間ぴったりですね」
「っしゃ」
あなたは胸をなで下ろし、四杯目のシャンパンを自分で注ぐ。
大丈夫、大丈夫、きっとすべてがうまくいく。
気分が浮かれると心に余裕が生まれる。あなたは彼女にもグラスを渡し、小さく音を鳴らして乾杯した。
「佳奈子はかつて私の恋人だった。でも裏切って弟に乗り換えて、どえらい修羅場で絶交してしまった。十年も昔のよくある話。それで弟は実家とも縁を切ってそれきりだ」
「そんなあなた様がどうして、おふたりのために今回のようなサプライズを?」
あなたはちょっと困った顔をつくって視線を逸らす。言葉の過ぎた彼女が気まずく俯いたところで、再びスマホがまた鳴った。
彼女が顔色を変え、通話口を軽く塞いであなたを呼ぶ。
あなたも異変を察知した。
「――御新婦さまが、あなたの恩を受けるわけにはいかないと暴れておられます。どうしましょう」
「私が行く。佳奈子を逃がすなと伝えて!」
あなたはすでに控え室から飛び出している。
佳奈子と絶交してからもあなたは恋をした。その相手は女だったり男だったりそれ以外だったりしたが次々と素敵な恋をした。そして気づいた。恋は花のように輪廻転生する。咲いては枯れ芽吹いては咲く。邪魔する権利は誰にない、何処にもない。
命のない花がないように否定される恋なんて存在しない。十年前のあの日にあなたを傷つけた、佳奈子と征太の恋さえも。
十年ぶりに再会した佳奈子はウェディングドレスで泣いていた。
あなたは失笑した。笑うつもりなんてなかったのに。
「ああっ!」
佳奈子があなたに気づいて悲鳴をあげた。驚愕でさえ美しかった。佳奈子の美貌が昔どおりでよかった。
「ご無沙汰デース」
あなたが軽い口調で挨拶をする。佳奈子はさらに吼える。
「どうして、どうしてこんなことを!」
「私は半年前に帰国した。おまえらの消息を親に訊いたら、無事に結婚したのはいいけど式は挙げてないっていうからサプラーイズ!てわけだよ。いつまでも私に遠慮してくれているのならこっちも気分悪いしな」
「あなたがうちとせいちゃんに地獄に落ちろって言うたでしょ。だからうちら夫婦はずっと地獄で慎ましく生きていこうって……」
「失楽園のルシファーだって地獄でメソメソするのはやめて気合いで立ち直ったというのに」
「ちょっと何、意味わかんない。あなたは変わらないのね」
泣いていたはずの佳奈子が笑い、そして笑っていたはずのあなたはいつの間にか泣いていた。これがあなたの人生最良の涙だ。
「私のためだと思って、征太と結婚式を挙げてよ」
「……うん」
佳奈子の指先から力がぬけて、あとは為すがまま飾られてゆく。
あなたは佳奈子の隣に座り、手を握り、熱を想い、きらめくティアラにときめいた。あなたの唇が「とてもきれいだ」と囁けば、佳奈子は少し震え「ありがと」と返した。それで充分だった。
忘れかけた頃に征太が到着した。
彼もまた驚愕して、
「ちょ、おまえ、なんで」
と呟いた。ナンデーもマンデーもねえよこの甲斐性無しのクソ弟めと叱り飛ばして花婿の衣装をまとわせれば、さすがはあなたの弟にして佳奈子の夫、それなりの姿に仕上がった。
それからの一時間半はまるで夢のようだった。
すぐにホテル内のチャペルに移動して式を挙げた。あなたは佳奈子と腕を組みバージンロードを歩いた。またしても少し泣いた。新郎新婦の長い接吻はよそ見でやりすごす。そのかわり調子に乗って賛美歌をうたった、音痴のくせに。佳奈子と征太が歯を食いしばって笑いを堪える。
時間が無いからと急かされて、次は記念撮影。
「写真撮影のあと披露宴?」
征太があなたに訊く。
「この後は着替えて解散だよバカ」
「披露宴はセッティングしてねえのかよ! フランス料理は!」
「せいちゃん流石にそのワガママはないわ」
戻った。
遠い日の、双生児と隣家の可愛い幼馴染みの三人組に戻った。このタイミングも呼吸も何もかもが昔のままだった。
あなた様もご一緒にと勧められ、三人での撮影となった。征太と佳奈子がキスをして、あなたと佳奈子が手を繋ぎ、双生児は三十年ぶりに抱き合った。
征太が耳元で訊く。
「おまえもしかして病気でもうすぐ死ぬんちゃう? いきなりの再会で顔色も悪いし死亡フラグみたいでちょっと怖いんやけど」
「おまえは相変わらずのバカだな」
あなたは生まれて初めて弟の征太を可愛いと思った。
「これ貸してあげる」
佳奈子は撮影セットのブーケをあなたに持たせた。軽やかな花嫁のブーケだ。
「せっかくだからあなたもひとりで撮ってもらいなよ」
「それなら私の遺影にしてくれ」
あなたはふざけてそんなことを言う。征太の見立てを否定しなかったのは、もちろん、つまりそういうことだった。教会の鐘がリンゴンと鳴った。
冬が去り春がきて桜が散る頃、征太と佳奈子は離婚した。
突然だが当然の結末だった。ふたりの恋は自然と枯れた。
さらに数ヶ月の後、台風で九州が荒れた夏の夜、体調の急変で入院したあなたはそのまま息をひきとった。これもまた天命だった。
けれどあなたの煙が空に昇ったおかげで、離婚したふたりは再会できた。ふたりは永遠に変わることのない友情を改めて誓いあった。
誓ったのだからその後の人生はそれぞれの途をゆく。
それぞれが新しい伴侶と再婚した後も、もう連絡先さえわからなくなったその後も、征太と佳奈子は年に一度だけ窓辺にあなたの写真と花を飾る。
恋も花も人生もくるくると輪廻する。来世のあなたを想像しながら、彼らはあの美しい一日を偲ばずにはいられない。
「偲びの花」/了
サークル名:ONLYONE(URL)
執筆者名:東堂杏子一言アピール
ひとりぼっち文芸サークルです。純文学から異世界ラノベまで、名前を使い分けながらふわふわとやってます。