彼岸に咲く赤

そこは薄暗い木立(こだち)の中だった。

まだ少しぼんやりとした心持ちのまま、伊澄(いすみ)は周囲を見回した。木立の奥からはさらさらと川の流れる音が聞こえてくる。見知らぬ場所。けれど、きちんと理由があってここに来たことだけは覚えている。

湿った土の匂い、うすらと肌を撫でる生温かな風。それに赤い花。糸のような花弁の赤い花が薄闇(うすやみ)の底で咲き誇っていた。赤く、行き先を照らす道標のように。
くん、と不意にシャツの袖を引かれたような気がした。
振り返ってみる。けれど、何もいない。
気のせいかと伊澄が視線を戻すと、くい、と今度は何かが伊澄の腕に絡みついてきた。
柔らかな女の腕。甘えるように、引き留めるように。
反射的に伊澄は絡みつく腕を振り払ったが、伊澄の行動を読んだようにソレは身を引いた。大きく振った腕は空を切り、勢いそのままに伊澄はそのまま地面に倒れた。体の下で赤い花が潰れ、鮮やかな匂いが鼻先に届く。
「っ、」
無様に地に転がる伊澄の姿に、けらけらと、女の笑い声が上がる。
見えない何かは、倒れこんだ伊澄の上にのしかかり四肢に絡みついてきた。逃れたい、けれど、見えない暴挙故、うまく逃れることもできない。ばたばたと無闇矢鱈(むやみやたら)に手足を動かすことしかできない伊澄に、屈託のない笑い声はさらに大きくなった。
容赦のない乱暴に、その声に、伊澄はぞっとした。幼い子供のような愛玩。眼を模した釦が飛んでも、手足がもげてしまっても、子供は飽きるまで手にした玩具(おもちゃ)を手放さない。それと同じように、この見えない何かは自分の事を扱うのではないだろうか。
 確信に近い予感の通り、見えない何者が伊澄を抱きしめる力は強さを増していく。もう二度と手放さないとでもいうかのような、強い執着。その負荷に関節が悲鳴を上げ始めた、その時。

「そうやって遊ぶものではないわよ」

清(さや)かな声が、凛と空気を打った。
その声に、伊澄の上に載っていた重さが消えた。澱んでいた気が一瞬で清かなものに塗り替えられる。見えない何かの圧から解放された伊澄は、荒く息を吐きだしながら目を開けた。
そこには、髪に赤い花を挿した娘が立っていた。
「大丈夫?」
そう言って娘は地面に転がる伊澄にその白い手を差し出した。
美しい娘だった。聡明な顔立ちの大人びた娘だ。古めかしいセーラー襟の制服がよく似合う。まだ女学生なのだろう。その肩に白い打掛を羽織っているのが少し変わっていた。
「貴方、このあたりでは見ない顔ね」
生意気とも取れる口調で娘はそう言った。初対面の年上に対する言葉使いではないが、その不遜(ふそん)な態度も娘には妙に似合っている。
「ああ、どうやら迷い込んでしまったみたいなんだ」
そう伊澄が答えると、そう、と娘は頷いた。
娘の澄んだ瞳が、じっと伊澄を見つめる。何かを読み取るように、推し量るように。
さらり、と長い髪が肩から零れ落ちた。その艶やかな黒に、髪に挿した花の赤に、思わず伊澄は見惚れた。
 人というには恐ろしいほど美しすぎる姿をしている。そう思った。
「怪我をしているわ」
と、娘は伊澄の肘を指摘した。言われてみれば確かに肘のあたりがひりひりする。先ほど、地面に転がった時にでも擦りむいたのだろう。
「大した傷じゃないよ」
そう伊澄は言ったが、駄目よ、と娘は首を振った。
「血が出ているもの。そこで待っていて、すぐに救急箱を取って来るから」
そう言って娘は倒木(とうぼく)に伊澄を座らせて、川とは反対側へと駆けだした。
娘の向かった先に洋館の屋根が見えた。娘の家なのだろうか。こんな場所に一人きりで暮らしているのだろうか。寂しくはないのだろうか。そんなことを伊澄は思った。
 寂しいと言ったら、伊澄で遊んでいた姿の見えない何かもそうだ。娘が現れてからずっと、あれは伊澄に近寄ることができない様子だ。かといって伊澄のことを諦めきれない様子で、うろうろと、近くに留まったまま離れる様子もない。見えない何かの、構ってほしい様子にほんの少しの同情が伊澄の胸に沸く。
どうせならば少し遊んでも良かったのではないか? 姿が見えないことでやみくもに恐れてしまったけれど、本当に悪いものだったのか? 加減を知らないだけで本当は悪いものではないのかもしれないのに。

「ねえ君、あれに同情を寄せないほうが良い」
なんの前触れもなく、不意に、背後から耳元へそう囁かれた。

その唐突さに心臓が飛び跳ねる。突然のことに悲鳴を上げることすらできない。呼吸の仕方すらも忘れ、石のように固まった伊澄の前に、その青年は現れた。
それは狐面をかぶった青年だった。地味なスラックスに白いシャツの痩せた男で、肩に派手な柄の打掛を羽織っている。先ほどの娘の知り合いだろうか。それにしてはこの狐面の青年の胡乱さは、あまりに清かな娘と対極すぎる。
「君がこのあわいのものになるというのならば、止めはしないけれどね」
くつくつと笑いながらそう言って、狐面の青年は伊澄の喉元を掴んだ。ひょろりとやせた姿に似つかわしくない強い力に、ひゅ、と息が詰まる。
 苦しい、けれど何故だか振り払うことができない。されるがまま顔をゆがめる伊澄に、くつりと狐面はまた笑った。
「その顔。その脆弱(ぜいじゃく)さ。水月が無体を働きたくなる気持ちが少しわかる気がするよ。なんなら僕らとしばらく一緒に暮らさないかい? 悪いようにはしない、ただちょっと戯(たわむ)れるだけさ。何、時が来たら、ちゃあんと川原まで見送ってあげるよ。まあ、その時まで君が渡るものでいられるかどうかは別の話だけどね。おや嫌なのかい? 嫌ならばこの手を振り払って逃げればいい。さあ、苦しいんだろう? はやく僕の手を振り払い給え。さあ!」
揶揄う様に、嘲る様に、嬲る様に。伊澄の首を締め上げながら狐面は言葉を並べていく。
その声は楽しくて仕方がないというように弾んでいるくせに、狐面の青年は確かに怒っていた。
選択肢を提示しているようでありながら、伊澄に拒否権はない。狐面の手を払うことは許されていない。全て狐面の言う通りにしないといけない。力ではなく理屈としてこの場の支配者は狐面なのだと、伊澄の本能が告げている。
このまま狐面の青年に縊(くび)り殺されてしまうのだろうか。それとも戯れの末のなぶり殺しか。どちらにしてもただでは済まないだろうが、どうすることもできないのだから仕方がない。伊澄が半ばあきらめの境地に入りかけた時。登場と同じ唐突さで狐面は伊澄の首から手を離した。
くたりと力が抜けてその場に座りかけた伊澄を、救急箱を手に戻って来た娘が受け止めた。娘の、その清かな気配に、ほ、と詰めていた息を伊澄は吐いた。
「そうやって、だれかれ構わずに悋気を起こすのはいい加減に止して頂戴」
ぜえぜえと息を吐く伊澄を再び倒木に座らせながら、娘は狐面をそう諫めた。
「この子は単なる迷い子よ。なのに、皆(みんな)して無体を働いて。あわいに棲むものたちはともかく、貴方まで。恥ずかしいと思いなさい」
「君がこの男を気にかけたのがいけない」
「迷子に声をかけるのは当たり前」
「でも、怪我の手当てまでするなんて、」
「怪我している人を放っておくことはできないわ」
そんなやり取りの後、娘は狐面と向き合った。折れることのない清かな瞳が、まだもの言いたげな狐面を制する。

「はなをたむけることは、はなおにのやくめだとおもわない?」
娘の言葉に、狐面は一呼吸おいて、わかったよと頷いた。

 狐面はこの場に残っていたい様子だったが、手当ての邪魔だと娘に言われてしまい、渋々と館の方へ戻っていった。
「不愉快な思いをさせてしまって御免なさい」
そう言いながら、娘は伊澄の首筋に触れた。先ほど狐面が掴んでいた場所で、触れられた先から、ぴり、と痛んだ。ため息交じりに娘はそこにも軟膏を塗った。
「あの男は、私に近づいたものに意地悪をせずにはいられないのよ」
御免なさい、と申し訳なさそうに頭を下げる娘に、大丈夫だと伊澄は首を振った。
「怖かったけど。でも、ねえ、彼は君の恋人なんだね」
「よして、あの男が恋人だなんて、気持ち悪いわ」
「違うのかい?」
「同居人というだけ。少なくとも私は嫌よ、あんな執着心の強い男」
そう言って機嫌を損ねた様子で、ぷい、と娘は顔を背けた。美しく超然とした娘の、年相応に見えるその仕草が微笑ましい。
さらさら、と川の流れる音が耳に届く。土の匂い、生温かい風、口の中に感じるかすかな鉄の味。
薄闇の中で赤い花が揺れている。この花は彼岸(ひがん)と此岸(しがん)のあわいに咲く花。悼(いた)むように、哀(かな)しむように、愛(かな)しむように。赤い花が川からの風に揺れている。その揺れる様を眺めているうちに、すとんと伊澄の中で何かが腑に落ちたような気がした。

川を渡った先にある場所のことを、自分がここに来た理由を、伊澄は思い出したような気がした。

「私の行き先は、川を渡った先にあるんだね」
木立の奥へ視線を向けながら伊澄はそう言った。
「ええ」
そう娘は頷いた。
傷の手当てに使ったものを救急箱に仕舞い、ぱちん、と留め金をかける。その音を切っ掛けに伊澄が立ち上がると、ほんの少しだけ名残惜しそうに娘は微笑んだ。
「久しぶりに、人とお喋りができて楽しかったわ」
「君は人だろう?」
思わず、といった感じで伊澄が言うと、娘はほんの少し困ったように笑った。
 この場所に存在している時点で、この娘もあの狐面らと同じように人ではないだろう。それでも伊澄が、あの狐面らと娘が同じ存在だと思えなかったのは、娘には人間らしい屈託(くったく)があったから。
伊澄の言葉に娘は返事をしなかった。その代わり、とでもいうように髪に挿していた赤い花を手渡してきた。
 赤い、糸のような花弁を持つ赤い花は伊澄の手の中で淡く赤い灯りとなる。薄闇の中、行くべき先を照らすように。もう迷い子にならぬように。
「さようなら」
娘はそう言って微笑んだ。まるで赤い花がやさしく揺れるように。


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サークル名:白玉(URL
執筆者名:sunny_m

一言アピール
sunny_mの個人サークル。すこし不思議な話が好き。ほの暗い話好き。うっすら和風寄りのファンタジー好き。食べ物ネタが多め。おっさんとか少女とかうろんな青年とか大好物。

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