この花がある場所

 最寄り駅を出発した時には空いていた車内は、座席がすべて埋まり、立っている乗客も多くなっていた。
 左隣に座る人にぶつからないよう、蒼乃(あおの)は花束を抱え直す。
 白とピンク、水色、淡い紫。花は一つ一つが小さく、茎ははかないほど細い。カスミソウだ。
 品種改良されているため、香りはほとんどない。それでも、これだけ束ねて、うんと鼻から息を吸い込めば、かすかに香る。
「きれいに咲いたな」
 右隣に座っている父の言葉に、蒼乃は頷き、笑う。
 このカスミソウは蒼乃が育てたのだ。
 庭はないし、あったとしても、植物を栽培できるような土は高価だ。蒼乃の小遣いでは水耕栽培キットしか買えない。
 去年は花が咲く前に枯れてしまった。水耕栽培用に改良されているものの、たっぷり水をあげればいいわけではないし日照時間もそれなりに必要だ。
 もっとも、ここは地下都市なので、あるのは人工の光だけ。世の中に出回っている植物はほとんどすべて、人工灯で効率よく光合成できるよう改良されている。
 とはいえ、植物工場のように強力なライトはないし、家庭用照明で急速生長するよう改良された高級品種は、蒼乃には高嶺の花だ。
 今年は水やりに気をつけ、父の渋い顔に気づかないふりをして、四六時中ライトをつけていた。
 そのおかげで、四色のカスミソウで花束を作れた。
 店で買う方が手っ取り早いし、花の色も均一でもっときれいだ。しかし、蒼乃は自分で育てた花を使いたかった。
「蒼乃、降りるよ」
 終着駅に着き、人々が一斉に降りていく。花束が潰れたら嫌なので、蒼乃たちは最後に降りる。
 改札を通る時、電子音がピンと鳴った。
 十一時八分、最下層に入場。
 地上に最も近い上層から来た蒼乃と父は最長二十四時間、滞在できる。それがこの地下都市〈広咲(ひろさき)〉の決まりだ。よその地下都市は、もっと短いところや、事前に申請しなければいけないところもあるらしい。
 蒼乃たちの用事は二時間もあれば終わるので、時間を気にする必要はなかった。
 無人タクシーに父が行き先を告げると、音もなく動き出した。
 年に一度しか訪れない最下層には来る度に圧倒される。
 最上層より千メートルは深いのに、上層にはない背の高いビルがいくつもそびえている。見上げるほど高い天井には、青空や雲が映し出されていた。その下を飛んでいる鳥の群は本物だ。
 広い車道をたくさんの自動運転車が走り、多くの人が歩道を行き交っている。上層と大違いだ。
 十五分ほどで目的地に着いた。高層マンションが建ち並ぶ区画である。
「いらっしゃい。久しぶりね」
 温和な顔に笑みを浮かべ、祖母が蒼乃たちを出迎える。
「おばあちゃん、こんにちは」
「お久しぶりです、お義母さん」
「あなたたちが来るのを待ちわびていたの」
 にこやかな顔の祖母に蒼乃は曖昧な返事をして、靴を脱いだ。
 祖父は居間で、腕組みをしてテレビを見ていた。その横顔は見るからに不機嫌だ。
「あなた、蒼乃と蒼平(そうへい)さんが来たわよ」
「おじいちゃん、こんにちは」
「ご無沙汰しています。これ、つまらないものですが」
 父が、先ほど駅で買った手土産を差し出す。しかし、祖父は視線も動かさなかった。
 昔からずっと、祖父はこうだ。年に一度しか会わないが、笑っているのを見た覚えがない。
 いつもありがとう、とお土産を受け取った祖母に、蒼乃はカスミソウの花束を差し出した。
「お母さんに持ってきたの」
「まあ、きれいね」
「蒼乃が育てたんですよ」
「莉乃(りの)もきっと喜ぶわよ。すぐに活けるから、先に莉乃のところへどうぞ」
 居間を出て行く祖母を見送り、蒼乃と父は、隣の部屋――仏間に入った。鴨居には、蒼乃が会ったことのない曾祖父母や親戚たちの写真が並んでいる。その中でいちばん若い人物が、蒼乃の母親、莉乃である。
 母の命日の翌日に訪ねるのが、年に一度の恒例行事だ。
 線香をあげ終わる頃、花束を花瓶に入れ、祖母が戻ってきた。
「全部は入りきらなかったから、あとで玄関に飾るわね」
 線香立てのそばに、祖母は花瓶を置いた。黒い仏壇を背景にすると、淡い色の小さな花々でも存在感があった。
 居間で昼食がてら、近況など他愛のない話をした。
 墓参り代わりの訪問だが、莉乃の話題には触れないし、祖父は会話に入ってこない。一応テーブルを囲んでいるが、顔を上げようとしなかった。
「そろそろおいとましようか、蒼乃」
 食後のお茶を飲んだところで、父が腰を上げた。
「うん。おばあちゃん、また来年ね。おじいちゃんも」
 挨拶をして、居間を出ようとした時だった。
「あの花は持って帰れ」
 祖父の鋭い声が飛んできた。
「あんなものがあると、うちの空気が汚れる」
 汚い物を見るような目で、仏壇の前のカスミソウを睨む。
「なんてことを言うの! 蒼乃が、莉乃のために持って来た花なのに!」
 それまで穏やかに笑っているばかりだった祖母が、声を高くする。
「空気が汚い上層で育てたものを、この家の中に置いておけるか!」
 花瓶の花をさっさと取りに行け、と今日初めて、祖父が蒼乃の顔を見た。
「なに、それ……」
 あまりの言い草に頭の中に言葉さえ浮かんでこなかったが、ようやく感情が追いついてきた。
「ただの花なのに、空気が汚れるわけないじゃない!」
 追いついたら一気にあふれ出す。
「上層の空気はここと同じよ! お父さんたちがどれだけ頑張って、きれいな空気を〈広咲〉に送ってると思ってるの!」
 地上はもはや人の住める環境ではない。太陽は見えず、大気は汚染されている。それでも、地下都市で生きていくには空気が必要だから、地上から取り込んだ大気を浄化し、供給している。父はそういう仕事に従事しているのだ。
「黙れ! そもそも、俺は莉乃の結婚を許した覚えもないんだ!」
「いい加減にして。まだそんなことを――」
 祖母が止めようとするが、祖父の口は止まらない。
「莉乃が死んだのはおまえのせいだろうが!」
 祖父は、蒼乃に向けたよりもなお鋭い目で、父を睨む。
「自分が守るとか偉そうなことを言っておきながら、莉乃を死なせたじゃないか。そのくせ命日に来たことは一度もない!」
 苛立ちをぶつけるように、テーブルに手を叩きつける。
 先ほどまで感情がぶつかり合っていた場が、一瞬にして凍り付いた。
 母が亡くなったのは十二年前。蒼乃は二歳だった。
 母のことはほとんど覚えていない。家にある写真と、年に一度仏前に参ることだけが、母との接点だった。
 物心付いてから毎年この日だったので、なぜ命日に訪ねないのか、別段疑問を抱かなかった。
 しかし、だからといって、祖父に言われっぱなしは腹立たしかった。
「……また来年、来ます」
 口を開こうとした蒼乃の肩を掴み、父が静かに言う。
「二度とうちの敷居はまたがせん。顔も見たくない」
 言い捨てて、祖父は居間を出て行った。

「もう行かなくていい、あんなとこ!」
 無人タクシーに乗った蒼乃の手には、持ってきた時と同じ花束があった。祖母は引き留めたが、置いていけば祖母が祖父に責められるか喧嘩になるかして、最終的に捨てられてしまうだろう。それはあまりに悲しい。
「そんなこと言うな。おじいちゃんも、まだつらいんだよ」
「お父さんは、あんなこと言われたのに、どうして何も言い返さないの!」
「――おじいちゃんの言うことが、本当のことだからだよ」
「え」
「空気のことじゃなくて、お母さんのことだよ」
 戸惑いと困惑が声に出ていた蒼乃を見て、父は微苦笑を浮かべた。
「お母さんが地上で死んだのは知ってるね」
「うん……」
「お母さんは無許可で地上へ出たんだ。そのせいで、地上にいた殺戮兵器が〈広咲〉に侵入してしまった。それを排除する時にお父さんの同僚が何人も亡くなって、けが人はもっとたくさん出た」
 再び前を向いた父は、今はどんな表情も浮かべていなかった。
 淡々と語る口調とその表情から、父の感情も考えも、何も読み取れない。いや、語られた内容のせいで、それどころではなかった。
 環境の激変により人類は地下都市への移住を余儀なくされたが、その直前、混乱期と呼ばれる凄惨な時代があった。地下都市の建設場所や移住する順番を巡り、激しい争いが起きたという。有人無人の殺戮兵器がたくさん作られて地上に放たれ、その一部は今も稼働している。
「……昨日が、その日だったの?」
 母の命日に、父は必ず職場へ行っている。だから、ここへ来るのは今日なのだ。
「お父さんは、お母さんが地上に出てみたいと望んでいるのを知っていた。それなのに、止められなかった。だから、お母さんが死んだのも同僚が死んだのも、お父さんのせいなんだよ」
 父のやるせない表情を、蒼乃は初めて見た。祖父に罵倒された時でも穏やかな表情を崩さなかったのに。
「……そんなの、勝手に地上に出て行ったお母さんのせいじゃない」
 蒼乃は花束をぐっと抱きしめた。
「お父さんも、わたしも捨てて!」
 父と二人の暮らしが当たり前とはいえ、母がいない寂しさを感じる時は、ある。それを、不慮の事故ならば仕方ないと諦め、我慢していた。
 けれど、母が許可も得ず危険な地上へ出たというのならば、我慢してきた蒼乃の気持ちはどうなるのだ。
 小さな花の上に、滴が滑り落ちる。
「お母さんは蒼乃を捨てた訳じゃないよ。蒼乃が生まれていちばん喜んでいたのはお母さんだし、勝手に地上へ行ってしまったけど、戻ってくるつもりだったんだから」
 父が、蒼乃の丸まった背中をゆっくりとなでる。大きくて温かい手だった。母の手も同じくらい温かかったのだろうか。
「……でも、勝手だよ。許可もないのに地上に行ったんだから」
「お父さんがもっと強く言って引き留めないといけなかったんだ。ごめんな、蒼乃」
 父が謝ることなんて何もない。そう言いたかったが、口を開けば嗚咽が出そうで、蒼乃は首を横に振るのが精一杯だった。
「……お花、お母さんにもっと見てもらいたかった」
「帰ったら、うちに飾ろう。地上に出たがってたお母さんのことだから、うちにいるさ」
「うん……」
 抱きしめたせいで花束はグシャグシャになっていた。折れている枝もある。捨てさせまいと持って帰ったのに、これでは台無しだ。
「また育てるから、きれいに咲いたら、地上に――お母さんが死んだ場所にお供えしてくれる?」
「ああ、もちろん。お母さんもきっと喜ぶよ」
 父が今日いちばんの笑みを浮かべる。目元の涙を拭い、蒼乃も笑顔を返した。


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サークル名:夢想叙事(URL
執筆者名:永坂暖日

一言アピール
異世界ファンタジーや現代もの、SFを書いています。新刊は、本作と同じ世界観の地下都市SF短編集の予定。既刊は、異世界お墓参りファンタジー『嘘つき王女と隻腕の傭兵』、異世界婿取りファンタジー『魔女の婿取り』、とある三きょうだいの日常と青春を描いた連作短編集『サボテンの子どもたち』など。

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