in time of daffodils

 神を知らずに生きてきた。
 良い行いだとか、悪い行いだとか考えたことがなかった。
 それでも独自のルールに基づく、やっていいこととやってはいけないことの区別は早いうちにできていた。
 山間に不自然に広がった縦長の町、ロングチャペルで育った者は皆そうだ。
 神に祈ることは、神に教えを請うことは、全て贅沢な行為だ。なぜなら、目の前の命のやり取りにいつだって神は間に合わない。
「ユーリ!ユーリッ来てっ!!」
 自分を呼ぶ声と一緒に階段を駆け降りる靴の音がする。俺はすぐにソファから腰を上げて廊下へ続くドアを開いた。
「ここにいますよ、お嬢」
 赤毛の少女が階下に降りようとした足を止めて顔を上げる。丸顔いっぱいの笑顔。呼ばれて、ただ返事をしただけなのに、あぁ、こんな笑顔を向けられるなんて。
「早く!付いてきてっ!」

初めて顔を会わせたのは爽やかな朝だった。宝石のように布に包まれた彼女を息がかかるくらい近くで見ることができたのはこのジャックジャック団の中では恐らく俺くらいなものだったろう。
『一番年が近いのはお前だからな、よろしく頼むよ、ユーリ』
 若頭と同じトマトみたいな真っ赤な髪だった。頬は白パンみたいに柔らかそうで、そんな気はなかったのに思わず指でつついてみたくなった。
『名前は決まったんですか』
 当時若頭の補佐を勤めていた父親が聞いた。
『うん、もちろん』
 ロングチャペルを牛耳るにしては柔和過ぎる笑顔で、彼は愛娘の名を告げた。

「ユーリ!ほら!雪!」
 子分達が慌てふためく中彼女は自ら外へ続く両開きの扉を開けようとした。扉は重く、力いっぱい押してもまだ指一本くらいの細さしか開いていない。
 俺は彼女の上へ覆いかぶさるようにして右手で扉を押し開けた。
 目を刺すような光、俺はただでさえ細い目を細めた。
「ねぇ!積もってる!」
 舞台に飛び出す小妖精のように彼女が駆けていく。
 玄関から続く石畳はずっと大通りまでうっすらと白く覆われている。昨夜からの雨がいつの間にか雪になっていたようだ。
「見て!ねぇ!凄い!」
 赤いフランネルのワンピースを着た彼女がシャーベット状の雪を踏み荒らしてくるくる回る。彼女が通ったところだけあっという間に下の石が黒々と露出した。長くうねる赤毛を持つ彼女が舞う姿はまるで火の粉のようだ。
 見れば火の妖精は右手に一輪のスイセンを手にしている。
「あっ」
 石畳の突起に足を取られた彼女がバランスを崩して横倒しになる。しかし俺が抱えようとするより早く彼女はしなやかに身体を起こした。
 中途半端に伸ばした手を俺がゆっくり戻すのを彼女は笑った。
 それから彼女は俺に背を向けてゆっくり歩き出した。ちらりとこちらを振り返って、俺がいるのを確認すると、いつものように歌い始めた。囁くような、けれど頭の中まで痺れるような確かな歌声だ。
  白い胞子 天からの災い
  朝には消える 
  地面を割り 雪を割り
  根を張り 育った
  新しい 緑の子
 でたらめな歌に空気が変わる。目に見えない粘つく糸が手足に絡む。
 酷く足が重たい。雪の下、石畳の更に下、まるで深い沼に沈んでいくようで、俺はたまらず軽く足踏みした。
「通りへ行くならお供します。上着を持ってきます」
 通りへ行かないなら戻ろうという意味だ。
 彼女は通りへ行くのを禁止されている。
「ねぇ、ユーリ、」
 どうやら彼女の不思議な歌の効果はなくなったようだ。俺は残りの糸を振り払うように頭を振った。
 彼女はまだこの力をコントロールすることはできない。
 この手の才能が”使える”のか疑わしいが、確かに彼女には特別な歌の才能があるらしかった。
「私が通りへ出たら誰かが、パパとママとユーリのお父さんを殺した男が私も殺そうとするかしら」
 十もいかぬ少女がこんなことを言うのはおかしいのかもしれない。
「かもしれません」
 けれどこの吹き溜まりに生きる者には皆、理不尽な死や病、あるいは悪意、犯罪といったものが例外なく降りかかる。
「そう」
 黄色いスイセンを彼女はそっと地面へ寝かせた。
 半年前、町のど真ん中で襲撃された彼女の両親は町外れの共同墓地に眠っている。
「でもね、だったらね、私がもう少しちゃんとしたら通りへ行くわ。通りだけじゃない、”仕事場”にだって行くし、何ならこの町の外へだって私行くからね」
「えぇ、もちろん」
「その時はユーリ、あなたも来てね」
「はい、喜んで」
 振り返った彼女は満足げな顔をしていた。
 ふわふわと広がっていた赤毛は雪と汗にぐっしょりと濡れている。
 そうだ、時が来たら望むまま全て焼き尽くしてしまえばいいのだ。彼女にはその力がある。
「ねぇ、足が冷たい」
 彼女が今にも泣き出しそうな顔で足踏みし始めた。室内用の綿入り靴はすっかり黒く惨めに湿っている。
 俺は黙って濡れた石畳に片膝をついた。すぐに首にかじりつくようにして彼女が背中に身体を預けてきた。小さな手はもう氷のように冷たかった。
「さぁ、マリーのおいしい朝ごはんを食べましょう」
 すぐ着いてしまうような距離を俺はゆっくり歩いて戻った。
 玄関の前まで来ると背中で彼女がもぞもぞ動いた。俺は足を止める。
「ねぇ、ユーリ、私のこと愛してる?」
 驚くほど甘い声だった。もしかしたら無意識にあの力が働いているのかもしれない。
「もちろん」
「ねぇ、嘘は駄目なのよ。これは仕事じゃないのよ。私とあなたの話なの」
 俺は唇をひん曲げるようにして笑いをこらえた後、何とか声を絞り出した。
「えぇ、ビーナ、愛してますよ」
 背中から小さな笑い声が聞こえる。

『愛と美の女神、ヴィーナス、ぴったりだろう?』
 あの日布に包まれた大切な宝石は家を飛び出して歌うようになった。
 俺は神に祈らずにはいられない。
 どうか、この小さな女神に大きな祝福と幸運を。
 そのためにできることならいくらでも、喜んで。
                            (了)


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サークル名:ミツモト時計店(URL
執筆者名:ミツモト メガネ

一言アピール
テキレボ8で頒布予定の「契約魔族と魔法が使えない魔法使いファンタジー」改め「ルーシィと緑の杖」の脇役カップルのお話です。本編ではユーリは30歳、ビーナは13歳になっています。

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