インド水塔

 朝七時三十分の光は斜めから射し、影は青みを帯びている。橋の上の小石の粒、砂粒ひとつひとつにも影がある。ごく小さいが、ちゃんと斜めに伸びている。男の子は発見し、よろこんだ。一月。弱い光がしかし金色に、橋やベンチを照らしている。
 男の子は毎朝川べりの公園をぐるりと一周し、学校へ行く気持ちをととのえている。橋のたもとのベンチに座ると広場の噴水と向かい合うが、冬の間は水を止められているので空っぽの凹みとでくのぼうの突起だ。川の上は風が走るから、石造りのベンチはきっとつめたく冷えている。座らなかった。座らなくても、噴水に枯葉やごみが溜まっているのはわかった。橋、ベンチ、噴水、これらはきょうだいだろうか友だちだろうかと男の子は考えた。親子ではない気がしたが、自分の父親は、この中なら噴水だろうと思った。母親は男の子の気がすむまで公園をうろうろさせており、遠くから寒そうに見守っている。ころあいをみて男の子を呼ぼうとしている。男の子もそれを知っているからちらりと振り返った。放課後、男の子は父親と遊ぶ約束をしている。なんとなく母親には言っていない。
 間もなく太陽はぐんぐんのぼり、砂たち石たちの影は見えなくなるだろう。砂たち石たちの影を知っているのはこのあたりでは自分だけだろう。世界でおれだけ、宇宙でおれだけともいっしゅん思ったが、考え直した。自分しか気づかないことなどそうそうありはしない。まあ、いま橋の上にいたのはおれだけだったから、このあたりではおれだけってことにしてもいいだろう(すくなくとも母さんは見ていない)、でも世界のどこかには、同じように砂粒から伸びる影を見つけてにやにや笑っている誰かがいる。影が青いことにも気づいた。つまらないし、うれしいと思った。かれは小学四年生で、そういう気持ちをあたまのなかで整理できたわけではなかったが、同じような影を同じような朝、遠くの神戸で見ているかもしれない「H君」の視線について想像し、胸の奥がうずうずした。川べりに並んだ水仙が人の顔のように見えたが今日はあまりこわくなかった。
 
 靴を隠されたのは何度目だ! 掃除用具入れや傘立ての中を探したが出てこない。涙があふれるのを洟をすすりごまかした。母親になんと言おうかと考えると腹が痛くなった。昇降口と教室を往復した。途方に暮れているようすを遠巻きに見ているクラスメイトは何人かいた。かわいそうにも思っていたかもしれないが、それよりも、垂れてくる洟を指で押さえるかれの仕草をくすくす笑いあっていた。男の子には鼻をほじるくせがありからかわれている。いや、だんだん改め、学校で鼻に指を突っ込むことはほぼなくなった、けれども鼻炎なのか洟は垂れてくる、しばしば曲げた指の関節で鼻の穴を押さえており、げんざいはその癖を笑われていた。母親からポケットティッシュをたくさん持たされてはいたが学校にいるあいだになくなってしまうのがこわかった。あいつの指のしわには鼻水がしみこんでいるとクラスメイトたちは笑った。みんな花だと男の子は思った。朝の水仙はにおいがつよかったが折り紙でできているように見えた。ほどいて広げたら一枚の紙になるか? でも水仙はたくさん咲いていた、おれにはほどききれない。ほどいても折ればまた花だ。まっすぐな葉はナイフみたいだ。
 男の子は上履きのまま帰った。父親との待ち合わせに遅れないようあわてて走っていたら、ランドセルにぶらさげた防犯ブザーが跳ねて歯に当たり、がちんとひどい音がした。ろくなことがない。ともかく駅だ。そういえば昨晩、「H君」は駅のホームで踊っていた。

 「H君」のことはTik Tokで知った。たまたま流れてきた動画で、「#だれでもダンス」というよくあるタグだったが、「H君」という名前が自分と同じなので気になった。ちょっとめずらしい名前で、女の子のようで恥ずかしいと思っていたが、おれのほかにも「H君」がいる。プロフィールには神戸、アラサーと書かれていた。ばくぜんとおとなだと思った。
 「H君」はいつもスニーカーのひもを変わったかたちに結んでいる。片側に留めたり結び目がなかったり、カニのようなかたちだったり、虹色のひもはややこしく自由だ。結び方を早送りの動画にしていた。ダンスにも靴ひもにもハートがたくさんおくられている、「H君」はおしゃれで人気者なのだろうと思った。まるっこい髪は黒色だが、めくると内側がピンクや水色だ。「#ユニコーンカラー」「#インナーカラー」とタグ付けされていた。男の子には意味がわからなかったが(ユニコーンは白だと思った)、いいなあと思った。「H君」はよく早朝の公園で踊っていた。がらんと開けた海辺の公園で、背後に高速道路が走っている。コンクリートの影が青い。神戸のことは知らないが、港の公園なら山下公園と似ているかもしれない。ときどき父親と出かける。
 父親からお年玉代わりにお下がりのスマートフォンをもらった。あまり使いすぎないこと、知らない人と連絡をとらないことと母親は念押した。男の子の両親は別居しており、父親だけ横浜の本牧に住んでいた。同じ横浜市内ではあったが、男の子の家からは遠い。横浜が広いからなのか自分が子どもだからなのかわからなかった。そうして本牧には駅がない。むかしは米軍の基地があったのだと父親は言った。もっとむかしはチンチン電車もあったらしいと。本牧じゃおまえの面白いものはないからと、中華街やみなとみらいで会うことが多かった。男の子をあまり家に上げたくないようでもあった。観光客の多い街中は緊張した。自分たちが一緒に暮らしていないことを、すれちがうひとたちの誰にもばれませんようにと祈った。

 電車の中でランドセルを背負っているのも、上履きを履いているのも自分だけだ。どきどきしたが誰も男の子を見なかった。「H君」の動画を眺めた。爪が玉虫みたいな緑色に塗られている。花にもぐりこむ虫について想像した。おしべもめしべもぐちゃぐちゃにしてほしい、花を壊してほしいと思った。
 父親とは石川町の改札で待ち合わせた。腹は減っているかときかれ、給食を食べたばかりだからそうでもないと答えた。
「じゃあ、どこ行くか」
「山下公園」
 山下公園は、関東大震災のがれきを海岸に埋め立ててつくった公園なのだと男の子は学校で習ったが、おぼえていたわけではなかった。倒壊した建物は煉瓦造りが多かったという。「H君」が今朝、「#1月17日」「#今日誕生日」「#おめでとうも待ってるけど」「#よかったら一緒に目をつぶって」と踊っていた。別の動画では白い花を握っていた。いつもより静かな感じで、お祈りのようだと男の子は思った。目をつぶって歩いてみたら、つまづいた。
 歩きながら、父親はぼんやり海を眺めていた。公園はタダからいいなと歌うようにつぶやいた。巨きな船が大さん橋に接岸し、煙を吐いている。花壇にはパンジーが並び、やはり笑っている。虫はいない。太ったかもめが柵に並んでいる、あいつらが虫をみんな食べてしまった。花やかもめが憎いのではない、自分もまた水仙やパンジーであるかもしれないと、こわかった。
「靴はどうした?」
 父親はやっと気づいたらしかった。男の子は返答に困った。「H君」ならなんと言うだろう。
「水仙に水をあげてたらよごした」
 すぐそばに「赤い靴はいてた女の子の像」が立っていた。靴にひもはない。おれを連れているのは父さんで異人さんではないから、おれはここにいるのだと思った。
 父親は首をひねり、ともかく新しい靴を買おうと提案したが、男の子はいやがった。押し問答しながらぐずぐず歩き、焦れた男の子は駆けだした。インド水塔という小さな塔があった。ターコイズブルーの屋根だ。「H君」の内側の髪色に似ていなくもない。でも吹きさらしだからか粉っぽくよごれている。そうして水塔といってもドーム状の屋根に水飲み場があるだけで、水も枯れていた。
「冬だから?」
「さあなあ」
 追いついた父親の声はぼわんと屋根に響いた。それで男の子は顔を上げ、驚いた。屋根の内側は白い細工とモザイクタイルがまるく広がっていた。つやつやした赤い花模様だ。インナーカラーだと男の子は思った。花のつるは緑色や水色をしており、冠のように、孔雀のように、踊りの腕のように見えた。インドにはこのような花が咲いているのだろうか。
 父親は外側の説明書きを読み上げた。
「『関東大震災の際に、インド商人をはじめとする外国商人の救済措置を積極的に講じた返礼としてインドから贈られたもの』、だってさ」
 平坦な声だ。「こうじた」というところをつっかえなかった。やはり噴水だと男の子は思った。救済という文字にトリのふんがはりついている。乾いて白く透けている。カモメだろう。花壇にぶっかければいいのにと、かさついた唇を舐めた。
「死んだ人たちのためでもあるんだろうな」
 父親はつけたすように言い、タイルを見上げた。低い声だったがやはりドームに響いた。男の子はくしゃみし、それも響いた。音はタイルにしみこむだろうと思った。父親が男の子にティッシュを出してやり、さっき駅前で配っていたものだ。タダだからもらったし、タダだから公園にいる。天井の花がこちらを見、手をのばしている。タイルの花には顔がないように思えた。においもない。この花は枯れず、折り紙でもないが、こんどまた巨大な地震がきたら? うまく想像できないのにこわくて眠れない夜がある。インド水塔は小さな屋根だが、タイルの花は手の届く高さではない。遠い。
「やっぱり靴買って」
「いいよ」
 そうしてバスに乗り、本牧のイオンで赤いスニーカーを買ってもらった。「H君」の動画を見ながらひもを結んだ。テナントが撤退した空きスペースで、男の子と女の子が踊っていた。動画を撮っていた。かれらにも名前があり、誰かと同じ名前だろう。川べりの噴水に溜まった枯葉のなかにはしおれた花びらもあるかもしれない。本牧もじゅうぶん面白かったし、帰ったら母親に靴を見せようと思った。男の子は想像する。タイルの花は、誰かがはしごにのぼり、拭いてきれいにしている。よごれや割れや欠けを、影を、誰かがひっそり撫でている。目をつぶる。


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サークル名:ザネリ(URL
執筆者名:オカワダアキナ

一言アピール
出るかわからない新刊は、耳そうじの上手なおじいちゃまとつきあうことになった若者の話「蝸牛関係」です。
また、こんなような感じの作品をまとめた短編集「FLAT」もテキレボ初売りです。
どうぞよろしくお願いします~。

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