バラの花束

三十歳の誕生日は何か特別なものになると信じていた。
 現実は、彼との無言のしゃぶしゃぶだった。何回目かのデートで見つけた黒豚のしゃぶしゃぶの店だった。肉は甘みがあってとても美味しいのに、私たちは終始、無言だった。ゆず胡椒で食べると美味しいということも、しめにそばを入れると美味しいこともこの店で知った。 
一年半の付き合いで培った、阿吽の呼吸というべき鍋さばきだった。彼が取り箸を手に野菜と肉をバランスよく入れると、私がすかさず火力を上げ、灰汁をすくう。
薬味が欲しいと思うと、目を合わせる間もなく、絶妙のタイミングで薬味が差し出される。これ以上ないくらい息のあったコンビネーションだけれど、無言が恐ろしい。
鍋を楽しむには、これ以上ないくらいの気持ちいい相手だけれど、彼と鍋を楽しむことはもうないんじゃないかと私はわかっていた。
彼は、元々無口だったけれどよく笑う人だった。気が付くと私の方をうれしそうに見ているそんな人だった。でも、ここのところずっと彼が笑っているのをみたことがない。
私は、誕生日にバラの花束をもらうのが夢だった。夢を見すぎていると言われようとかまわなかった。
セックスをしなくても付き合いたいと言ってくれたのは、今までの人生で彼だけだった。性的欲求がないノンセクシャルだと打ち明けた私に、そんなことは大したことがないと笑い飛ばしてくれたのも彼だけだ。
彼は付き合いはじめた頃から、来年、結婚しようとずっと言っていた。だから、三十歳の誕生日は私にとって特別な意味を持っていた
 昔、小説で読んだ小説のシーンでは、三十歳の誕生日にバラの花束を渡してプロポーズされていた。
 どこで間違ったのだろうか。いつの間にか彼は笑わなくなり、会う回数も減っていった。仕事が忙しいだけだと思っていた。思いこんでいた。
「お肉、美味しかったね」
「そうだね」
 帰り道、イルミネーションを観ながらも、彼はここにいないようだった。青いイルミネーションが顔に反射していて、表情は読み取れなかった。
「これ、プレゼント。じゃあ、またね」
 彼は、私に手袋を渡すと振り返らずに帰って行った。
 バラの花束はもらえなかったけれど、彼が選んでくれたことが、うれしかった。
 私はいつも片方の手袋を無くしてしまう。彼の手袋もまた無くしてしまった。
 「またね」は永遠に来なかった。
 バラの花束をプレゼントしてくれる人はまだ見つかっていない。


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サークル名:如月 ぴえ(URL
執筆者名:如月 ぴえ

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ノンセクシャルの私がに日々考えていることを、小説やエッセイ形式で綴ります。

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