ノーリーズン

 二〇〇X年九月初旬。
 残暑厳しい東京郊外のある大学病院に奇妙な患者が入院した。

「ほら、あれよ」
 病室の前で看護師たちがささやいた。その声は三人部屋の中にも当然聞こえていて、廊下側のベッドに横たわる老人がわざとらしく耳をふさいだ。
「一番奥に座って外見てる人」
「ほんとだ、キレイな色」
 誰もいないベッドを挟んだ隣、窓側の一台には若い男がいたが、振り向くどころか顔を上げることもなかった。麻糸を束ねたような色の巻き毛が朝の日差しを浴びて輝いている。
 氏名年齢住所職業国籍不詳、ウィル・ブルーム(仮名)。
 数日前に路上で保護されたというその男は身分証も記憶も持っていなかった。ベッド脇のプレートに記された名は彼を保護した町医者による命名らしい。外見は明らかに異邦人だが、受け答えは実に流暢な日本語だった。
 入院は重度の熱射病による後遺症の有無を調べる目的という。しかし二泊三日の内容はこの病院の検査室をほぼ全制覇する怒濤のスケジュール、さらに合間を縫ってカウンセリングも予定されている。彼を預かる内科のスタッフは、少しでも身元につながる情報を得るための入院だろう、と誰もが思っていた。
「そこ、廊下での井戸端会議は禁止」
「あっ五味さんおはようございます」
「ごめんなさーい、仕事戻りまーす」
 ベテランの女性看護師がひそひそ話を蹴散らして病室に入ってきた。
 彼女は老人の腰からずり落ちた毛布を直し、ベッドにしがみついてすすり泣く少年は無視して、窓とカーテンの間に回り込むように身元不明者の正面へ立った。
「おはようございます、ウィルさん。もしかしてあまり眠れてないですか?」
「問題はない」
「慣れない環境、つらいですよね。午前の検査が終わったらおいしいごはんが出ますから、もうちょっと我慢してくださいね」
 ウィルは五味の先導で病室を出た。この看護師は昨日から彼の案内役をしてくれていた。
 廊下ではお揃いの病衣を着た男女とすれ違い、突き当たりのスタッフルームでは慌ただしく動き回る看護師たちを見た。エレベーターには点滴を連れた患者とその隣に寄り添う老人が乗っていた。誰もがウィルに気づくと物珍しそうな視線を向けてきた。
 彼自身は相手の表情を見た後、その足下や背後も観察しながら離れた。廊下で見かけた女は影が異様に色濃い。看護師たちは皆疲れ切っている。エレベーターの老人は壁に貼られた鏡に映っていなかった。
(今回の課題は、様々な刺激に対する人間の反応を観察すること。あと二日。俺はこの視線に耐えられるのか)
 彼は事前に暗記してきた指令を確認しながらエレベーターを降りた。
 降りた階では病室と違う匂い、違う色の往来をとらえた。大きな白い花束を抱えた女が足早に通り過ぎていった後、その人が歩いてきた廊下の奥で何かが鳴いた。
 耳に刺さる音から穏やかでない感情を拾い、彼は足を止めた。
「どうしました?」
 五味が振り返った。その目は立ち止まったウィルだけを気にしている。聞き慣れているから驚かないというより、そもそも鳴き声を認識していないようだった。
「何も」
 患者が再び一歩を踏み出すと、看護師は首をかしげながらも道案内を再開した。
(ここは病院。心身のどこかを傷めた人間たちが集っている。そして弱った魂に引き寄せられる諸々の災いも)
 ウィルはどちらの存在も認識することができた。彼らが肉体を持つ者か失った者か、害意を抱いているか否かも区別できる。それは記憶でも知識でもなく、生まれ持った感覚としか表現できないものだった。
 しかしその「すべて」が今は邪魔になるらしい。
(余計なことを口に出すな。目を引くような反応をするな。……言われたことをもう忘れているとは)
 考える暇はすぐになくなり、彼はいくつもの検査室を巡ることになった。感覚器、呼吸器、脳、消化器、骨。時には台の上に横たわって安静を求められ、時には検査技師の前で薬剤を飲み干すことを要求された。
「両手を挙げて。ああ、そうじゃなくて、こう」
 何から何まで調べ尽くしても異常は検出されないだろう。彼の体はそのように作られている。しかし熱中症で倒れたことだけは残念ながら事実なので、検査を受けないわけにはいかなかった。

 午前の検査は予定より早く終わり、カウンセリングの予約時刻まで時間が余った。精神科の待合スペースに座る人々を眺めていたウィルに、五味がこんな提案をした。
「じっとしてばかりで疲れてません? 少し散歩に行きましょうか」
「ここで待つのではなく?」
「時間までに戻れば大丈夫ですよ」
 五味は一階へ降りると、ウィルを入院手続きの窓口などが集まるエリアの奥へと案内した。
 そこは大きなガラス窓から中庭を一望できるスペースだった。白い空と弱まった日差しの下に、悠々と枝を伸ばす大きな木がある。窓の手前にはソファが並び、患者たちが緑の景色を眺めたり、明後日の方を向いてくつろいだりしていた。
「いい場所でしょう。この辺でゆっくり休んでいてください。しばらくしたら迎えに来ます」
 五味は仕事があると言ってエレベーターの方へ戻っていった。
 残されたウィルは空いていたソファに腰を下ろし、行き交う人々の様子を観察し始めた。一人分を挟んだ隣では寝間着姿の婦人が本を読んでいた。
(人間は鈍感だ。多少見えているものでさえ無意識のうちに見なかったことにするという。しかし、小さな疑いを侮ってはいけない)
 理解できないふりは簡単だ。観察を重ねれば多数派に合わせることも楽になるだろう。しかし情報を無視しすぎると会話にならず、課された使命にも差し障る。
 そんなことを考えていたウィルの元に、突然、子供の集団が駆け寄ってきた。そして先頭の一人が、面識も何もない異邦人に、一輪の白い花を差し出してきた。
「あげる!」
 パジャマの胸に描かれた黒猫の絵と目が合った気がした。
 彼はそれを着ている子供の顔を見た。猫のデザインと同じように口角をつり上げ笑っていた。
「あげる……?」
「はい、どうぞ」
 小さな手がウィルの手の内側に潜り込んだかと思うと、指先を外側から押さえつけて曲げられた。手を離した子供が一歩下がったとき、ウィルは花を握らされていた。
 見覚えのある植物だった。先ほど病棟で見かけた誰かが花束として持ち歩いていたものだ。
 後ろに控える子供たちの手元にも同じ色の花弁が見える。いずれも外出着ではなさそうな装いで、中には頭に包帯を巻いた者もいた。
「これは、何だ?」
「おはな!」
 分かりきったことを堂々と宣言された。
 上から見ても逆さにしてみても、特徴もなければ仕掛けもない、一本の植物だった。先頭の子供がじっとこちらを見上げてくる理由も分からなかった。
「何故、これを」
「とくにりゆうはない!」
 問いかけは誇らしげな一言に遮られた。
 そこへ後ろの一人、他より少し年長らしき子供が口を挟んだ。
「お兄さん知ってる? こういうときは、ありがとう、って言うんだよ」
 ウィルは強調された言葉を既に知っていた。感謝を表す一方、受けた行為への儀礼的な返答としても使われる語だ。
 ここではどちらの意味か。相手の目を見ても、社交辞令を期待しているようには見えない。
「わかる? ほら、リピートアフターミー、あ・り・が・と・う」
 彼が解釈に迷う間に、一音ずつ区切る形で言い直された。
 言え。
 視線が、口元が、逃がさないと訴える。
「……あ、り、が、と、う」
「よくできました」
 言われるまま復唱すると、満足そうにうなずかれた。
 そのやりとりの間に他の子供たちは走り出していた。ウィルの視線が追いついたとき、同じ花の別の一輪が、本を読んでいた婦人に差し出されていた。
「あげる!」
「まあ、ありがとう。何かのお祝い?」
「なんにもないよ」
「まあ、まあ、それはそれは」
 ゆったりしたやりとりの後、子供らは通り雨のように去っていった。
 騒がしい足音がようやく聞こえなくなった頃、廊下の反対側から五味がやって来た。今のやりとりを見られていたのか、何故か手を叩いて笑いながらの登場だった。
「よかったですねえ。幸せを分けてもらったんですね」
 エレベーターホールへと引き返す道すがら、五味は尋ねてもいないのにあの子供たちのことを語り出した。
 彼らは小児病棟に長期入院している患者で、しばしば連れ立って院内を回り、似顔絵やら折り紙やらを配っているという。医師の一人に「小さな幸せを分かち合うこと」を勧められて以来、真剣に取り組んでいるらしい。
「お花をもらったことがそれだけ嬉しかったんでしょう、きっと」
 何も受け取っていない五味が満面の笑みを浮かべていた。
 もらった方は何も言えなかった。

 カウンセリングを無難にやり過ごした後、ウィルは一度病室に戻された。
 彼は持っていた花をもう一度眺めると、それを誰も寝ていない隣のベッドにそっと置いた。
「どうしてそこに?」
 背後から五味が問いかけた。
「特に理由はない」
 ウィルが無表情で答えると、五味は困惑した顔で何かを言いかけ、声を出さずに止まった。そこへ廊下から若い看護師が駆け込んできた。
「五味さんここにいた! 大変です!」
 他の部屋の患者に何かが起きたらしい。後輩の手短な説明はベテランの表情に何かのスイッチを入れた。
 彼女が一言の断りもなく病室を飛び出していった後、ウィルは自分にあてがわれたベッドに座った。
「ここは病院だ。病や傷から解放された者は出て行かなくてはいけない」
 床に座り込んでいた少年が、不意打ちのようなささやきに反応して身を震わせた。
「そこにいた患者は昨日、俺と入れ違いで自由を取り戻した。あんたが夜通し泣き叫んだところでもう帰ってこない」
 少年はしばらく固まっていた。しかし立ち上がると花を無造作に掴み、泣きながらどこかへ消えてしまった。
 後には何も持たない異邦人だけが残された。


Webanthcircle
サークル名:化屋月華堂(URL
執筆者名:Rista Falter

一言アピール
特別な使命……というか補習のために天から遣わされた劣等生。それがウィルです。
彼が倒れたいきさつ、そして退院後の様子は、現代ファンタジー長編『DROPOUT -フカクニイタル-』1巻にてご覧いただけます。
今回は他にツイノベ集やぬいぐるみ制作レポなどを頒布予定。ねこマップも配るよ!

Webanthimp

この作品の感想で一番多いのはしんみり…です!
この作品を読んでどう感じたか押してね♡ 「よいお手紙だった」と思ったら「受取完了!」でお願いします!
  • しんみり… 
  • ほっこり 
  • ほのぼの 
  • 胸熱! 
  • ゾクゾク 
  • 受取完了! 
  • 尊い… 
  • エモい~~ 
  • この本が欲しい! 
  • そう来たか 
  • 怖い… 
  • しみじみ 
  • かわゆい! 
  • 泣ける 
  • 切ない 
  • うきうき♡ 
  • ドキドキ 
  • 感動! 
  • 笑った 
  • ごちそうさまでした 
  • 楽しい☆ 
  • キュン♡ 
  • ロマンチック 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

次の記事

鉄花