手品師と四つ葉

 空が青いということに戸惑った。ここに通うようになってから、初めて目にする色だった。いつもの空は灰色で、どことなく潤んでいた。
 メレンゲのような、まばゆく白い雲が、そこここに浮いている。その明瞭さに驚いた。いつもの雲は灰色で、空をふさぐぼやけた蓋のようだった。
 ここはゆるやかな傾斜のはじまりであり、丘のはじまりにあたる。見渡せるかぎり、地には丘だけがあって、空には青だけがある。丘のまとう草は緑の皮膜のようで、いつもの灰色のもとにあっては毛羽立ったウールのようであるのに、青空のもとにあっては波立つベルベットのようだった。
 風に流されていく雲の、くっきりとした影が、背の低い草に覆われた丘陵を滑っていく。
 丘を眺めていると、いつの間にか、傍らにひとが立っていた。
「こんにちは」
 よく通る、澄んだ声だった。陽の光に降り注がれてなお、そこにだけ夜が凝っているような、細くしなやかなひとだった。
 僕と目線の高さを合わせるためか、そのひとはその場にしゃがみこんだ。結果として、僕はそのひとに見上げられるかたちになった。こちらを見つめてくる目は星空のようで、底が知れなかった。
「こんなところにおひとりで、どうしました?」
 そのひとは僕のことを心配してくれているようだった。憐れみでも苛立ちでもないものを投げかけられたのが久しぶりであったからか、口が滑ってしまった。
「どうすればいいのかが、わからない。あの子が、突然、いなくなってしまった。みんなそのように振る舞う。それをみとめないでいたら、あの子は丘の底にいるのだと、隣のおばあさんが教えてくれた。でも、それだけだった。どうすれば会えるのかまでは教えてくれなかった」
 わめくようにことばを吐いた。咽喉の奥が痛い。
 星空が僕をとらえてくる。
「会いたいですか?」
 誰かからの提案を伝えてきているような口ぶりだった。
「どうすればよいのかを、示すことのできるものがいます。そのものと遭うために、おまじないをかけてあげましょう。いままで見えなかったものが見えるようになったり、聞こえなかったものが聞こえるようになったりするはずです。これを誰にも話さないこと。誓えますか?」
「誓える」
「では、目をとじてください」
 瞼をおとすと、すぐに暗闇がやってきた。顎に指を添えられたことを感じる。ひやりとした指だ。その冷ややかさが、僕の顔を上向かせた。水をふくんだものが、片瞼を撫でた。夜露を刷かれたかのようだった。
「目をあけて」
 うながされて、瞼を持ちあげる。目の前が真っ白になる。光のもたらす過剰の白が薄れていって、代わって濃くなったのは空の青だった。
 無数の白い花びらが、青を天蓋として閃めいている。
 風に踊り、舞い狂い、陽を散らしながら落ちてくるのは、薔薇の花びらだった。落下を続ける芳しい幕を、黒爪の指先が割ってきた。指に挟まれている緑が、鼻先に差し出される。畳んだ紙片を花瓶のようにした、四つ葉のクローバーだった。
 僕の瞼を撫でたのは、この葉なのだろうか。
「招待状です」
 立ち上がっていたそのひとが差し出す四つ葉を、両手で受け取る。舞い落ちる花びらのなかで、そのひとは芝居がかったお辞儀をした。
 流れてきた雲の影に、僕たちはおさめられる。そのひとの背後で、影がゆらめく。横たわることに飽きたのか、影は立ち昇ることにしたようだった。影は黒の外套を纏ったひとがたとなる。僕に据えられた笑みをふくんだ目は、赤とも緑ともつかなかった。ひとがたは丘の最も高いところを指差した。
「一年のうちで白昼が最も長い日の前夜に、この丘に来るといい。馬に乗ったものたちの隊列が、地の底から湧きあがるはずだ。この騎行は丘を廻る。そのなかで白い馬に乗っているものを抱きおろせ。おまえの会いたがっているものは、この丘の主に気に入られたがゆえに、おまえのもとから奪われた。そうであるからには、その手で奪い返すといい」
 空にある雲が風に流されていくにつれ、地にある影も流れていく。
 僕とそのひとが光のなかに戻ったとき、ひとがたは掻き消えていた。
 呆気にとられていると、身を折っていた夜が伸びをした。
「このように君を揺さぶり、駆り立てているものを、飼い慣らせることを祈っている。もっとも、君が目にしたものであれば、心ゆくまでそれに身を委ねよとでも言ってのけるだろうけれどね」
 幾分か砕けた口調で喋りながら、そのひとは僕に背を向けた。頼まれていた用事を済ませて一息ついたかのような、ゆるんだ倦怠がそこにはあった。手の中にある紙片に眼を移す。催しの広告だ。招待状とのことだから、この夜は演者であるのだろう。
 ここで僕が見せられたものは、手品か何かだったのだろうか。
「ちいさな恋人たちに祝福あれ」
 去りながら、そのひとは僕に声を与えた。かろやかな足取りを崩さないまま、そのひとは草の海を歩いていく。

 かくしてその夜は訪れた。
 家族や隣人の目をすり抜けて、僕は丘へとやってきた。丘の最も高いところに近い斜面に身を伏せて、その時を待った。
 まばたきとまばたきの間に、それは現れた。
 馬の嘶きが、夜気をふるわせて、静寂を砕いた。まわりを睥睨するかのように、丘にはぐるりと馬が並んでいた。優美な鎧や豊かな布地を纏うものたちを、それらの馬は乗せている。ひときわ豪奢に飾りつけられている馬の前脚が振り上げられ、蹄が宙を掻いた。それが合図だったのだろう。騎乗のものたちは、整然と、丘を廻り始めた。
 這いつくばっている僕は、それらを輪の内側にいた。
 きらびやかな騎行に眼を凝らす。ほとんどが夜に馴染む色をしている馬のなかに、白い馬を見つけた。ちいさな人影が馬の背にあった。
 あの子だった。
 白い馬を眼で追った。目の前に来るのを見計らって、跳びかかる。白い馬は驚き、暴れ、ほかの馬たちにもその恐慌が伝わる。隊列は乱れ、馬たちの鬣を飾っている銀鈴がけたたましく騒ぐ。堰きとめられた水が溜まるように、丘を廻っていた騎兵が僕のまわりに集ってくる。
 槍が僕の行く手を阻んだ。盾が僕を圧し戻した。剣が僕に振り下ろされた。
 それらを掻い潜りながら、僕はあの子に腕を伸ばした。


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サークル名:片足靴屋/Sheagh sidhe(URL
執筆者名:南風野さきは

一言アピール
人魚や祝祭などを材料にした短編集をメインに頒布しています。日常であったり白昼夢であったり、幻想っぽいものや斜陽ファンタジーをつづっています。日々つくりものっぽさを追求中。


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