赤ん坊の泣き声が店内に響いた。
 周りから集中する視線に「すみません」と、親友はひと通り頭を下げる。ごめんね、とこちらにまで言うので、七恵ななえは笑いながら手を振った。
「いいよ、あたしが連れて来てって言ったんだし」
 学生時代からの親友、友美ゆみが腕に抱く赤ん坊は、あと半月ほどで9ヶ月になるという。生まれてすぐの頃に見たきりだし、今が大きいか小さいか標準なのか子供を見慣れない自分にはわからないが、確実に言えるのは大変可愛らしいということ。
 友美がミルクを作ると言うので、その間預かるために受け取りながら、七恵はそう思った。頬がふっくらして、いかにも健康そうなピンク色だ。
 一見して、友美の夫である元同級生によく似た、整った目鼻立ち。20年、いや、今の子たちは早熟だからもしかしたら10年経たないうちに、女子にモテて大変だと言うようになるのかもしれない。そんな想像をして、また笑った。なにせこの子の父親の昔のモテ具合といったら、尋常じゃなかったから。今でも同窓生の中では語り草になっているほどだ。
 そんなことを考えている間に、友美は荷物の大きなカバン(マザーズバッグというらしい)からほ乳瓶や魔法瓶、細いスティック状の包みを取り出し、手早くミルクを作った。七恵から再度受け取った赤ん坊にほ乳瓶の吸い口をくわえさせると、待ってましたとばかりにすごい勢いで飲み始める。あっという間に瓶は空になった。
 いつもこうなの、と親友は苦笑する。
「食べっぷりがすごくてね。どんどん大きくなって服がすぐサイズアウトするから、買い換えが大変」
「離乳食はいいの?」
「出る前に食べさせたから。でもおやつ要るかな」
 バッグを探る母親に向かって、何が出てくるか察したらしい子供があーあー言いながら手を伸ばす。
「はいはい、ちょっと待ってね」
 友美がソフトせんべいの包みを破って渡すと、子供は手に持った菓子を口一杯に頬張り、満足そうに笑っておとなしくなった。
 しばし、店内のざわめきをBGMに沈黙が続く。
「……さっきの話だけど。最近そんなにしょっちゅう、旦那の帰りが遅いの?」
 若干気まずいような思いで、七恵は自分から口火を切った。気づいて顔を上げた友美がうなずく。
「そんなに、って言うほどではないんだけど。でも何回か続いてるから気にはなって」
 友美の夫の名木沢なぎさわ氏は、県庁に勤める公務員だ。今年の春、長く勤めていた内勤の部署から異動になって、外回りの多い業務担当になったらしい。
 そういった近況は、めったに会っていなくても電話やLINEでちょいちょい聞くのだけど、友美があえて言わないことは当然ながら知りようがない。
 今の件も、このタイミングで会ったから言う気になっただけで、そうでなければ誰かに話すつもりはなかったかもしれない。友美は、進んで悩みを人に相談するよりは、ひとりで内にこもって考えてしまうタイプだから。
 今日会う約束をしていてよかった、と七恵は思った。ただでさえ日中、ワンオペ育児で大変に違いない親友が、他にも悩みがある状態は良くない。
「前より忙しくは、なったと思うの。出張も増えたし。けど夏までは、定時で終わらなかったことなんて月に1回もないくらいだった。それが、先月と今月でもう5回も、いつもより2時間ぐらい遅くて」
 そう説明する友美は、どことなく不安げだ。2時間帰りが遅くなる程度なら、普通のサラリーマンなら残業や、同僚と飲みに行ったりなどでありがちな出来事に違いない。しかし名木沢のことだ、優秀な奴だから定時で終わらない場合なんてほぼ無いだろうし、飲みに行くなら正直にそう言うだろう。
 だが遅くなる日の理由はいつも「残業になったから」なのだという。
 とはいえ、突発的な仕事などが入ってやむなく残業になる場合はあり得ない話じゃない。普通の妻ならそう考えるだろうが、友美はどうも違うようだ。何か、気になる別の理由がありそうに見える。
 ──もしや、という思いがよぎった。ひょっとしたら旦那の浮気を疑っているのだろうか?
 そんなはずない、と反射的には考えた。けれど、満腹になって眠り始めた赤ん坊を見つめ、不安げに表情を曇らせている友美を見ていると、少なくとも彼女はそんなふうに考えているのかもしれない、とも思えてくる。
 妊娠や育児で妻に「かまってもらえなくなった」夫が、浮気に走ることはあると聞く。勝手な話だ。妻に協力するならいざ知らず、かまってもらえないなどと子供じみた言い訳を盾にして他の女に手を出すとは、一体どういう了見なのだろう。どう考えてもふざけている。
 ──けど、名木沢に限ってそんなこと。
 ありえない、と個人的には思う。彼の、友美へのベタ惚れぶりは大学内で評判になるほどだったし、今だって変わらないはずだ。それに、あの芸能人並みに派手な容貌からは想像しにくいほど真面目な奴が、妻子を放って浮気なんかするはずがない。
 ……しかし、30年近く生きていれば、世の中に100%確実だと言える事柄は非常に少ない現実を、思い知らされる場合も一度や二度ではなかった。
 七恵にとってその手の出来事の筆頭は、高校からの彼氏と別れた顛末だ。学生時代は喧嘩ひとつしなかったのに就職して忙しくなった途端、なかなか会う時間が作れなかったこともあり、些細な言い争いが増えた。連絡も間遠になり、気づいた時には彼氏に浮気をされていた。同じ会社の同期だと聞いた。
 そして別れて、それっきりだ。もう何年も経つし普段は忘れているが、何かの拍子に思い出すと今も少し胸が痛む。
 友美には、万が一にでも、こんな思いは味わってほしくない。その気持ちが、重い口を開かせた。
「……ねえ、友美」
「ん?」
「あたしは、あんたが考えているようなことは、たぶんないと思うよ。けど気になってるならちゃんと聞くのが、長い目で見ればいいと思う。子供もいるんだし、不安は隠さない方が」
「なに、何の話?」
「なにって──旦那が浮気してないか、って気になってるんじゃないの」
「え?」
 思い切って口にした発言に、あまりにもきょとんとした表情を返されて、逆に困惑する。
 しばしの沈黙ののち、友美が困ったように笑う。
「……そっか、そういう可能性も考えられなくもないのか……あはは」
 あっごめん、と言ったのは、こちらの発言を笑い飛ばしたような形になったからだろう。七恵自身は気にしていなかった、というかそこまで注意を払っていなかったから良いのだが。
「ありがとう、心配してくれて。なんか変なこと言っちゃったみたいだね、ごめん」
「え、いやその。そんなことないって。変なことを言ったってんならむしろあたしの方で」
 何の含みもなく微笑む友美に、はっとしてなんだか慌てた。どうやら本当に自分の考えすぎ、思いこみだったようだ。急に恥ずかしくなってきて焦る。
「ごめん、ほんと。そんなことあるはずなかったよね、あいつに限って」
 なんて失礼なことを言ってしまったのだろう。だが友美は気にするふうもなく、そうだねと笑った。
「そんなことは考えてなかったけど──気には、なってるの。正直、残業が続くのは腑に落ちないんだけど、なんにしても遅い日が続くと体が心配だし、大丈夫かなあって。……うん、ともあれ今度、聞いてみるね。本当に残業なのかって。そうでないなら何してるのか、ちゃんと言ってもらわないとね」
 話す友美の顔は、夫の身を心から案じる、それでいて夫への心からの信頼に満ちた表情をしていた。

 数日後の夜。友美から「電話していい?」とLINEが来た。ピンと来るものがあり、すぐに返信してこちらから電話する。
「──え、プレゼント?」
 友美の話によれば、昨夜、旦那からもらったのだそうだ。誕生日でも結婚記念日でもないのに何なのかと思ったら、自分たちが付き合い始めてちょうど10年が経った日だったという。
 交際10周年の日をきちんと祝いたいと、名木沢氏は前々からいろいろ考えていたらしい。だが子供がまだ小さく食事に出かけたりはできないからプレゼントを計画していたのだとか。それが、CMなどで観たことのある、10年記念のダイヤの指輪だった。
 結婚10周年、ではなく交際してからの記念で贈るところが、友美にベタ惚れの名木沢らしいと言えるかもしれない。しかもふさわしい指輪を探すため、残業と称して、あちこちの宝飾店を回っていたというのだから、婚約指輪を買うレベルの熱意である。
「……なんだ、そうだったの」
 話を聞き終えた後、七恵は心底安心してそう返した。同時に、感傷で変な思いこみをしてしまった自分を思い出して、苦笑する。
 よかったね、と言うと友美は「んー」と言葉を濁した。照れているようだ。
「そういう物は普段付けないからいらないって、前から言ってるんだけどね、どうしても記念にしたかったから前からお金貯めてた、なんて言われたら、受け取らなきゃしょうがないよね。あの人ってほんとに、私よりも記念日にこだわるとこあって」
 早口な友美の話は、だんだんと惚気の色を帯びてくる。親友のそういう話を聞くのが、七恵は嫌いではない。彼女の幸せそうな様子には嫌味が全くなくて、聞いていて嬉しくなるからだ。
「──あ、ごめん。子供がぐずってるみたいだから見てくるね。それじゃあ」
「わかった、またね」
 おやすみ、と言い合い、通話を切った。
 理想のカップルというのは、まさにあの二人を指すんだろう。いつかは、そんなふうになれる相手と出会えるだろうか──出会えればいい、いや、出会いたい。そのためにも明日からまた頑張ろう。
 親友夫婦の笑顔を思い浮かべ、七恵は座ったベッドの上で、大きく伸びをした。


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サークル名:さふらわー部屋(URL
執筆者名:まつやちかこ

一言アピール
個人サークルです。普段は、現代日本が舞台&学生が主人公の、男女の恋愛小説が中心。たまにファンタジー風というか、架空世界を舞台にした話も書きます。
2幼児育児中の現状、オンライン活動が主。
『10 years gold』は、拙作『anniversaire』シリーズ(R-18描写あり)の後日談。シリーズ3部作と、後日談&前日譚SS本を委託予定です。


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