ハウス・アングラリスにて

 渋い赤茶の煉瓦造りの屋敷には、しっとりと落ち着いた深緑の蔦が絡まっている。百年以上もの長きに渡り、向学心を静かに燃やす子弟を受け入れてきた中等教育機関の寮を前に──このハウス・アングラリスが今日から僕の居場所、とジュリアンは息を飲んだ。
 シールひとつ貼られていない真新しいトランクを脇に置き、さあ、とノブにジュリアンが手をかけようとしたところで、装飾のない、重厚な扉が開く。
「やあ、ずいぶん気の早い新入生のご到着だね──ようこそ、ハウス・アングラリスへ」
 扉が開くなり、揚々とした声をかけられ、ジュリアンは背筋をピンと伸ばした。
「あ、あの……僕は、ジュリアン・クレステッドといいます。……えっと、あなたは……」
 問いかけたジュリアンは、自分より四、五歳は年上の、聡明そうな少年の右腕に撒かれた、館に這う蔦と同じ色の腕章に気づく。
「僕はディレクトル。よろしくね、ジュリアン」
 寮長とおばしきディレクトルの、古樹にも似た焦茶色の髪と、ジュリアンのオレンジと金をゆたかに混ぜ合わせた色の巻き毛を、晩夏の淡い光が照らす。
 中へ、と促されたジュリアンの、空を想起させる色の目にまず映されたのは、歳月に木の香が溶けてしまった代わりに、年若い少年たちの持ち込むものたちが醸す香がそこかしこに沈むロビーだった。
「さっそくだけど、中を案内するよ。──きみは、寮生活は初めてかい?」
「あ、はい。実は父は、同じ寮生活をするなら、自分が昔通っていた森の中のエコールがいいと、ものすごく熱心に勧めてくれたのですが……」
「エコールと名乗るからには海峡の向こうじゃないか」
 そっちを蹴って、此処を選んでくれて嬉しいよ、そう告げるなり、ディレクトルの端正な顔に浮かんでいた心底から嬉しそうな笑みに、ジュリアンははにかみながら──けれども、それで緊張が幾分かほぐれたのか、自ら語る口を開く。
「そもそも僕は父の故郷に、今まで一度も行ったことがないんです。でも、父はことあるごとに言うんです。
 自分が行ってたエコールが、どれほどすてきな場所だったかを。そして締めくくりはいつも、俺はそこで終生の友を得たんだ。だからお前も』って──
 でも、少年だった頃の父にとっては故郷の寄宿舎つき中等学校だけど、僕にとっては海峡の向こうの、まったく未知の世界なのに」
「そこで冒険心を起こして、そっちに飛び込んでみようとは思わなかったのかい?」
 ディレクトルの問いかけに、ジュリアンはあわてて首を横に振る。
「そんな! この国の学校でも、どうにかひとつ綱渡りを無事に終えた、って卒業式にはホッとするくらい気を張っていたのに、別の学校──しかも僕にとっては外国の寄宿舎へ飛び込もうなんて!
そんな冒険をしてみたいと思うほど、僕は火の玉小僧でも肝の据わったガキ大将でもありません! ……父とは違って」
「ははは、きみのように自分のことをよく弁えている少年は大歓迎だよ、ジュリアン」
 ディレクトルの大人っぽい物言いに、ジュリアンは耳元まで真っ赤になりながらも、ほっと胸を撫で下ろしていた。
 たえず、その場の雰囲気を壊さないように努めてきた自分を、この先輩は意気地無しとはからかわない──海峡を渡ってきた父が筆まめに手紙をやり取りしている『エコール時代からの友』と語るひとも、ジュリアンのそうした性分をものすごく気に入ってくれているそうだが、何分そのひととジュリアンは実際に会ったことがないため、父にそう伝えられても、いまひとつ実感が湧かなかった。
 けれど、このディレクトルと名乗る少年は、たしかに自分のことを「よく弁えた少年」褒めてくれた。それだけで、父の勧めにやんわりとながらも初めて抗い、ハウス・アングラリスへと進学を決めた自分のことも、誇れるような気がジュリアンにはしていた。
 そんなことを思いながら、足を下ろすたびにきゅっと鳴る、掃除の行き届いた廊下の突き当たり、広い一室へと辿り着く。
「ここは談話室。今は夏期休暇中で静かだけど、普段は学年の違う生徒たちがひしめき合っていて、まあ、なかなかにやかましいよ。
 けれど、仲間の誰かがピアノを弾いているときや、集中して本を読みたいときは、互いにこれを邪魔したりはしない」
 そう付け足したディレクトルの前で、ジュリアンはほっと息をついていた。
「安心した?」
 聞こえていたのか、と赤面するジュリアンに、ディレクトルはやさしく微笑む。
「そうさ、自分以外の誰かのふるまいを、校則や慣習を破らない限りは尊重する──まずそれが、ハウス・アングラリスに住まう者としての良識だからね。そしてそれをあえて侵すような行いをする者は……そもそも此処に留まる資格すらない」
 きっぱりと言い切ったディレクトルと、固唾を吞んだジュリアンの間に、さわりと秋の気配を帯びた風が吹き抜ける。館にぐるりと這わせた蔦の、褪せることない緑を経た風が過ぎた後。
(……あれ?)
 ディレクトルの右腕に撒かれた腕章が、いっそう色濃さを増したように、ジュリアンの目には見えた。
「さあ、次に行こう。階段はすこし、板がたわんでいるところがあるから」
 気をつけて、とディレクトルが声をかけるより早く、古びた装飾を物珍しそうに眺め回していたジュリアンは、古びたモザイクの部分だけが浮かんでしまった箇所に、真新しい靴の爪先を引っ掛けてしまった。
「あっ!」
 勢いよく前のめりになった身体の、肋骨が段にぶつかる寸出のところで、ジュリアンは手をつく。しかしそこは、踊り場で振り向いたディレクトルの靴の上だった。
「大丈夫かい?」
「は、はい……すみません、せっかく先輩が注意してくれたのに」
「ケガがないなら良かった。まあ、ここの建物自体がボロ……いや、歴史が古いからね、新入生がきょろきょろするのも風物詩さ」
 笑うディレクトルの靴から、耳まで真っ赤になったジュリアンは手を離し──首を傾げた。
(履き慣らされた、というにはあまりに、両方の靴で色合いが違う?)
 光線の加減か、とジュリアンは何度かまばたきを繰り返す。しかし、踊り場で歩を止めているディレクトルの靴は、片方が丁寧に履き慣らされているのに対し、もう片方はフットボールに興じたかのように傷だらけだった。
(……先輩は左利きなのかな。でも、それにしたって)
 靴はちゃんと綺麗にしておかないと、男振りが上がりませんよ。
 普段は父と丁々発止のやり取りを繰り広げる母も、それでも父の靴はしっかり丁寧に磨き上げ、ジュリアンにそう説いて聞かせてきた。
(いや、寄宿舎で暮らすなら、なんでも自分でやらなければいけないわけだし……先輩も、もしかしたら)
 たまたま靴の手入れする間もなく、僕が到着してしまったんだろう、そうジュリアンは思おうとしたが──あまりに左右で傷み具合に差のある靴を前に、納得のいく答えは見つからなかった。
「ここは小さなハウスだからね。寮生の部屋は二階まで。みんな気のいいヤツばかりだけど」
 掃除の行き届いた館内の端から端まで歩きながら、ディレクトルは明るい声でジュリアンに語りかけていたが──ふいに、その声が曇った。
「最上級生に声をかけるときは、言葉遣いだけでなく、少しだけ声音にも気をつけたほうがいいね……いまいましい話だけれど、あいつら、目をつけた下級生へのからかい半分で、靴を隠したりすることもあったから」
 ふいに暗くなったその声に、ジュリアンは首をちぢ込めた後、ディレクトルの横顔を何とはなしに見上げる。
 晩夏の午後の光に照らされる、聡明そうな少年。蔦が這う古い館を改装し、何百年もの昔から、その目がねにかなった子弟を、精選して受け入れてきたとされるハウス・アングラリス──そのなかでも、特に優秀で品行方正でなければ、その腕章を手にすることは叶わないのだろう。
 そんなディレクトルが──どうしてか、透けて見える。
 揺れるネクタイの色は薄い緑色になり、やさしげな深緑の目は今──ほとんど窓外の蔦と同化しそうなほどに見えた。
「せ、先輩……ディレクトル? あなたは、いったい──……?」
 ジュリアンの声に、ディレクトルはふ、と声をこぼす。
「ああ、僕のことかい? 僕はね──このハウス・アングラリスで日々を過ごし、やがて時が過ぎて出ていった、かつての少年たちの……思い出の寄せ集めさ」
 ディレクトルの、古樹にも似た焦茶色の髪が、風に揺れる陽光につれてひとすじ、またひとすじと、異なる色を湛えていく。黒、金、茶、そして赤毛──猫の目のようにくるくる変わる色を、ジュリアンはひとしきりじっと見つめたあと、ディレクトルの髪の色が再び焦茶に戻ったところで、声をかけた。
「……先輩は、幽霊ではないんですね?」
 心底からほっとしたような声に、ディレクトルは目を丸くしてジュリアンを見つめ返し──ふふふ、と声を立てて笑う。
「そう。僕は幽霊なんかじゃなくて、あくまで少年たちの思い出の寄せ集め──ほんとうは話しかけてみたいんだけど、なんだか気恥ずかしい気持ちが裏返って、つい、からかってしまうとか……あるだろう? そういうのって。その結果、相手も自分を避けるようになってしまって、友人どころか、クラスメイトと呼ぶこともできなくなってしまうことが、さ。
 そういった『からかってしまって悪かったな』とか『気になっていたんなら、ちゃんと話しかけてみれば良かった』みたいな、ちょっとした後悔や想い残し──そうした、ささやかな心残りのかけらたちが集まって、僕はできあがった」
 ディレクトルが己の胸に当てている手が、やけに白く、かなしく見えて、ジュリアンは我知らず手を伸ばす。けれど、その手に伝わる温度はかすかにしか感じられなくて──かなしく思いながらも、その手を、ジュリアンは下げられなかった。
「きみはやさしいね、ジュリアン。あたたかい血がさらさらと、ごく自然に流れているんだな、って、僕に伝わってくるよ」
「……ディレクトル……先輩、僕は」
「きみは雰囲気こそ引っ込み思案そうだし、周りの雰囲気に配慮してふるまうこともできるけど──それでも、気になる誰かに話しかけられなかったこと、まして、気持ちの裏返しでからかってしまったと後悔をするくらいなら、ちゃんと正面から話しかけてみようとする子でも、あるんじゃないかな?」
 ディレクトルの問いに、ジュリアンは一瞬だけ視線を外したが、それでもまっすぐに、茶色の目を向けていた。
「とても遠回りもするし、足踏みもするかもしれません。けれど……気になるひとと、ひとことの話もできずに出逢えた場を去ってしまうのは、なんだか少し嫌だなあ、って僕自身は思います──話してみて、人柄が合わないって僕が思うことも、相手にそう思われることも、もちろんありますけれど……自分から何もしないまま、できないまま終わるというのは、嫌なんです」
 はっきり言い切ったジュリアンに、ディレクトルは愉快そうに声を上げて笑った。
「これは上々! きみは僕のかけらを、これ以上増やしそうにない後輩になりそうだ!
だって僕は、少年たちのささやかで──そのくせ喉につかえた魚の小骨めいた思い残しからできているんだもの。それこそが、僕を造り上げているものだけれど……同時に、そんな後悔なんかしたって、しょせんは詮ないことじゃないか、なんて、たまに思ったりするのを止められないのに」
 視線を外したディレクトルに、ジュリアンは頭を振る。
「そんなこと! 自分が描いた想像どおりにふるまえず、せっかくのチャンスを逃してしまって後悔しない子なんて、この世界のどこにもいません。僕だって、遠からずこのハウスで出逢う誰彼に、声をかけられなかったことを後悔して、先輩を構成するかけらを、増やすかもしれませんし。
 ただそれが、いじわるをしてしまった後悔でないように、とだけは、今、心から祈りたいですし──そうならないように、していきます」
 ジュリアンの手に、ディレクトルはもう片方の手を添え、外すように促す。とくとくと熱い血潮が流れることの伝わる手が離れた隙に、ディレクトルはほんのりとした温みのある手を伸ばし、ジュリアンの頬へと触れた。
「ああ、僕は今、誰かの『あのとき、こうできていたら良かったのに』と心に想像した結果としての生成物であることに、正直ホッとしているよ。
 誰かの悪意で作られるより、ずっとマシだ──そういう気持ちも、僕の根の奥深くにちゃんとあるから……だから」
 ハウス・アングラリスで過ごす歳月が、きみにとってこよなき宝となるように。
 ディレクトルの形のいい唇が、ジュリアンの頬にかるく触れる。はっとして、ジュリアンが目を見開いたそのときには──かれの姿はもう、どこにも見当たらなかった。

「ああ、いたいた! 君がジュリアン・クレステッドくんだね? ──それにしても、今年の新入生はずいぶんと好奇心旺盛だね」
 階段の下から、息せき切って走ってきた人影がある。黒縁眼鏡に黒い目と、いかにも勉強熱心と物語るような、生真面目そうな面差しの少年が右手を差し出してきた。
「僕が今年度のハウス・アングラリスの寮長、アダム・グレイシャーだ。よろしくね」
 アダムの差し出した手を、「よろしくお願いします」とジュリアンが握り返し、
「あの……僕をここまで案内してくれたのは、ディレクトルと名乗る先輩でしたけれど……」
 おずおずと切り出したジュリアンに、アダムはひゅう、と口笛を鳴らす。見た目と裏腹の軽快な仕草に、ジュリアンはさらに目を大きく見開いた。
「ハウス・アングラリスのディレクトルに逢えるなんて、幸先がいいね! なんたって彼は、このハウスをいっとうよく知る住人にして──……そうだね、僕たちの守護天使と言ったほうがいいかもしれないね」
 声高らかに告げたアダムは、そのあとでジュリアンの耳に口を近づけて囁く。
「ハウス・アングラリスに住まう資格を得た者としての誇り、それ以上に、人としての分を弁え、仲間との友愛を重んじる限りにおいて、ディレクトルは僕たちを守ってくれるからね。
 けれど、もし、その輪を乱したならば……」
 アダムの声に、ジュリアンは身を竦ませる。
 ──言えなかった後悔を抱く側の一方で、からかわれた側の気持ちだってあるはずだから。
 そちらの気持ちも、分からないディレクトルではないはずだ。
 もし、ハウスの輪を乱した者に対し、ディレクトルはどう出るのだろう──?
 固唾を吞むジュリアンに、
「……たくさんの思いを飲みくだして、ディレクトルはその者のベッドにヒキガエルを忍ばせるくらいの仕返しはするんじゃないかな──たぶん?
 もっとも、そんな目にあったハウスの住人は未だ確認されていないから、真偽の程は定かじゃないけれどね」
 そう答えるなり、ウインクをしたアダム。
 そんな彼に、ジュリアンは安堵を隠しきれない、満面の笑顔を返していた。
『──誰かの『こうできていたら良かったのに』と心に描いて想像した結果としての生成物であることに、正直ホッとしているよ』
(そう告げていたディレクトルだもの。できれば、いじわるの報復なんてさせたくないし。
だからどうか、僕も、僕以外の誰も彼も、ディレクトルにそんなことをさせないような日々を営めますように)
 祈るジュリアンの目に映る、陽光に縁取られる赤煉瓦に這う、枯れ褪せることのない蔦の葉。その色にディレクトルの目の色が重なり、やがてゆっくりと溶け込んでいった。


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サークル名:絲桐謡俗(URL
執筆者名:一福千遥
一言アピール
絲桐謡俗では、一福の気の向くままに書かれた、すこしあまくてせつない不思議な物語を、和風・洋風・中華風とりまぜて置いてます。お気が向かれましたら、お手に取ってごらんになってください。


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